懐疑論者(スケプティクス)の本2009年07月06日

『なぜ宇宙人は地球に来ない?』(松尾貴史/PHP新書)、『大槻教授の最終抗議』(大槻義彦/集英社新書)、『擬似科学入門』(池内了/岩波新書)、『超常現象の心理学』(菊池聡/平凡社新書)
(1) 『なぜ宇宙人は地球に来ない?』(松尾貴史/PHP新書)
(2) 『大槻教授の最終抗議』(大槻義彦/集英社新書)
(3) 『擬似科学入門』(池内了/岩波新書)
(4) 『超常現象の心理学』(菊池聡/平凡社新書)

 超常現象やオカルトに対する批判・懐疑論の新書本を何冊か読んだ。私はこれらの本の著者と同じく、超常現象やオカルトを信じていない懐疑論者(スケプティクス)だ。スピリチュアルや精神世界なる曖昧な概念の元に安易なオカルトを無批判に信じる人々が増えているように思える風潮を苦々しく思っている。

(1) は最近出た本で著者はタレント。サブタイトルは「笑う超常現象入門」、雑誌連載記事をまとめた軽い読み物で面白い。俎上のテーマは網羅的で、超常現象を考えるうえでのいい参考になる。
 著者は子供の頃から怪しいものが大好きなオカルト少年だったそうだ。しかし、今では懐疑論者だ。「まえがき」で次のように述べている。
 「現在も、未だ発見されていない文明の痕跡や、怪談噺、地球外生物の話題にも興味は尽きない。ただ、少年時代と今では「信じる」「信じない」ということに関してほぼ逆になっているだけで、超常現象のことども自体を忌み嫌っているわけではない。」
 この感じはよく分かる……というか、私自身も著者とよく似た感覚をもっている。子供の頃から超常現象や怪奇現象が好きなSFファンで、いまでもそれは変わらない。しかし、非科学的なものを信じることはできない。
 昨日(2009年7月5日)のTBSの『サンデー・ジャポン』で「スプーン曲げおばさん」が紹介されていた。いまさら何をアナクロな……と思ったが、取り上げ方はやや揶揄的だった。霊能力があるというおばさんが曲げたスプーンが何本かスタジオに持ち込まれていて、出演者たちがそれを自らの手で元に戻したりしていた。本書で著者は「スプーンは誰にでも簡単に曲げられる」と喝破している。

 (2)の著者の大槻教授はテレビ出演で有名なアンチ・オカルト学者である……ということは知っていたが、この本を読むまでは、実はどんな人なのかはよく知らなかった。本書では、著者が子供のときに体験した超常現象(父の死亡時の虫の知らせ)が出てくる。そのような体験をしていても、著者は現在は懐疑論者である。ちょっと変わったタレント教授かと思っていたが、本書を読んで真面目でまともな学者だと再認識し、ついでに同じ著者の『江原スピリチュアルの大嘘を暴く』も読んだ。
 最近、テレビ朝日の『オーラの泉』が目につかないので、ついにテレビ朝日も目覚めて、番組を打ち切ったのだろうと思っていたら、先日、特番で『オーラの泉』をやっていた。どんなアホなことをやっているのだろうと観てみたが、やはりひどい内容だった。江原啓之が横綱白鵬を前にして、あなたの前世は日本人の力士だと言っていた。あまりのご都合主義に苦笑するしかない。

 (3)の著者は物理学者で、現代社会に蔓延する「擬似科学」(=非合理主義)について整理・考察している。擬似科学にもいろいろあり、「科学」と紙一重の擬似科学もあるようだ。「一般に、よく勉強している科学者はやはり謙虚である。他人の仕事に学ぶ態度を持続しているからだ。それを考えれば、謙虚であるか謙虚でないか、これが科学者の見分け方の初歩である」との指摘は参考になる。言われてみれば、本書はかなり謙虚な本である。

 (4)は10年近く前に出版されたもので、わが家の本棚の奥に眠っていたのを発見して、今頃になって読んだ。かなり面白い本で、なぜ買ったときにすぐ読まなかったのだろうと悔やまれた。著者は心理学者(専門は認知心理学・神経心理学)だ。心理学には「サイエンスとしての心理学」と「癒しのアートとしての心理学」との二つの心理学があるそうだ。著者は前者の立場のようだが、オカルト批判という場における心理学の微妙な位置がわかり、興味深かった。ユング心理学は文学的には面白いがサイエンスかどうかはよくわからない。

 私が超常現象批判に興味をもったのは、ずいぶん昔に『怪談の科学』『怪談の科学2』(ブルーバックス)、『超能力のトリック』(講談社現代新書)などを読んだのがきっかけだった。この分野の読みやすい面白い本がたくさん出て、世の中の多くの人々が「オカルト批判の常識」をわきまえるようになればいいと思う。しかし、そう簡単に世の中は変わらないだろう。 
 上記の4冊は基本的には自然科学=サイエンスの立場でオカルトを批判している。しかし、魔術や錬金術が自然科学の発展にかなり深く関わっていたことは科学史のうえでの事実である。歴史をふりかえれば、オカルトと科学の境界が明快だったわけではない。
 そのような歴史を踏まえたうえで、私たちは現在の知見に基づいて、蒙昧や思考停止を排除しなければならいのだと思う。松尾貴史氏がオカルト少年だったのに懐疑論者になったのも、大槻教授が虫の知らせを体験したのに懐疑論者になったのも、個体発生が系統発生を繰り返している(ように見える)ように、科学史を個人史が繰り返しているようにも見える。

 なお、超常現象やオカルトに対する懐疑論の基盤は基本的に自然科学だが、社会学の視点でこれらのテーマをとらえると、また別の風景が見えてくるのだと思う。現在の私にはそちら方面の風景はわからない。