新たな『近松心中物語』で時代の移ろいを感じる2018年01月15日

 新国立中劇場で上演中の『近松心中物語』(演出:いのうえひでのり、出演:堤真一、宮沢りえ、池田成志、小池栄子)を観た。

 近松門左衛門の浄瑠璃をベースに秋元松代が蜷川幸雄のために書き下ろした蜷川演劇の代表作の一つだ。私は蜷川幸雄演出のこの舞台を観たことはない。テレビ画面で1981年上演(主演:平幹二郎、太地喜和子)の録画を観たことがあるだけだ。

 新たな演出による今回の芝居は当然ながら蜷川演出とは異なっている。舞台美術も刷新されている。格子を組み合わせた立体構造を無数の赤い風車で飾り、それを前後左右に動かしながら回り舞台も駆使するあでやかな舞台は蜷川の世界を彷彿させる。華やかでシンプルな大仕掛けに新しさを感じた。

 堤真一、宮沢りえが平幹二郎、太地喜和子ほどに重厚でないのは、時代の変遷の反映だろう。『冥途の飛脚』をベースにしたこの作品は、心中に至る緊張感を表現すると同時に心中を批判的に相対化する視点も組み込まれている。だから、重ければいいというだけの芝居でもない。今回の舞台でそう感じた。

 蜷川演出と大きく異なっているのは、随所に効果的に挿入されていた森進一の演歌がなくなっている点だ。この芝居のために作られた『それは恋』(作詞:秋元松代、作曲:猪俣公章)を浄瑠璃の代わりに森進一が嫋嫋と歌い上げて場面を盛り上げるのはこの芝居の肝だった。そこには何とも言えない心地よさがあった。

 今回の舞台では、そんな演歌で盛り上げる仕掛けがなくなっていた。パンフレットに「イメージソング:石川さゆり」とあったので森進一の代わりに石川さゆりの演歌で盛り上げるのかと思っていたが、そのイメージソングが流れたのはカーテンコールの後だった。歌謡曲は昭和の文化だったという説がある。平成も終わろうとしている時代の舞台に昭和歌謡を流すのはあまりにアナクロで、パロディになってしまうのかもしれない。

 時代の移り変わりを感じる舞台であった。