2冊の新書本で「キリスト教の手のひら」を感じた2012年04月15日

『世界の陰謀論を読み解く:ユダヤ・フリーメーソン・イルミナティ』(辻隆太郎/講談社現代新書)、『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎×大澤真幸/講談社現代新書)
 エンターテインメントとしての陰謀論は面白い。この世の出来事の背後には、実は、われわれの知らない秘密結社の壮大な陰謀があり、その暗躍によって歴史が動いている。そう考えると、ワクワクする世界が浮かび上がってくる。「実は…」というドンデン返しが繰り返されるミステリ的な醍醐味も味わえる。ただし、妄想があまりにとりとめなくふくらみ過ぎると白けてくる。
 虚実の境が朦朧としているエンタメ陰謀論にはどの程度の信ぴょう性があるのだろかという興味から、次の新書本が目に止まった。

 『世界の陰謀論を読み解く:ユダヤ・フリーメーソン・イルミナティ』(辻隆太郎/講談社現代新書)

 面白い本だった。しばしば陰謀の担い手とされる「ユダヤ」「フリーメーソン」「イルミナティ」に関する要領のいい解説書という面もあり、有用だった。ユダヤはともかく、フリーメーソンやイルミナティに関する知識がほとんどない私にとっては有り難い本だ。

 本書は単なる解説書ではなく、陰謀論批判の啓蒙書でもある。著者は陰謀論を「何でもかんでも『陰謀』で説明しようとする荒唐無稽で妄想狂的(パラノイアック)な主張」と規定している。そのような「トンデモ主張」への批判が本書のメインテーマだ。私は著者の主張に共感できた。

 本書の真髄は、批判対象の「トンデモ主張」にキリスト教が大きな影を落としているという指摘にある。これは、私にとってはやや意外な展開だった。著者は次のように述べている。

 「キリスト教と陰謀論が結びつかなければならない必然性はまったくないのだが、事実としてキリスト教信仰は陰謀論の言説に大きな影響を与えてきた」

 現代社会に蔓延する「悪しきこと」の多くは、近代化という歴史の流れが引き起こした弊害とみなすべきである。だが、陰謀論者たちは、その「悪しきこと」をユダヤやフリーメーソンあるいはイルミナティが企てた陰謀の結果だと主張する。そのような主張を受け入れる人びとの多くは、古き良き秩序を重んじるキリスト教徒(主に福音派)だと著者は指摘している。

 そもそもユダヤ、フリーメーソン、イルミナティなどはキリスト教と無関係な存在ではなく、それぞれにキリスト教と絡み合っている。だから、世界の陰謀論とキリスト教は複雑に結びついていることになる。
 基本的にはキリスト教とは無縁に生きてきた大多数の日本人にとっては、容易には把握しがたい世界だ。

 宗教学の若い研究者である著者は、自身の関心領域について、本書の「あとがき」で次のように述べている。

 「僕のもともとの関心は宗教と社会の軋轢、あるいは宗教的暴力や宗教的熱狂に関するものだ。簡単に言えば、宗教の負の側面を明るみに出すことに興味があった。」

 ユニークでわかりやすい問題意識だ。著者は、陰謀論の発生をキリスト教の負の側面としてとらえているのだ。

 陰謀論への俗な興味から本書を手に取ったのだが、読了すると、キリスト教についてもう少し知りたくなった。そして、本屋に平積みになっている次の本を続けて読んだ。

『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎×大澤真幸/講談社現代新書)

 2012年新書大賞のベストセラーである。評判通りに面白くて刺激的な内容だった。著名な二人の社会学者の対談で、高等講談(含む・漫談)を聞いているような楽しさを満喫した。『世界の陰謀論を読み解く』より面白いのは、著者の貫録の違いもあり、いたしかたない。

 私はキリスト教に「不寛容な一神教」というイメージをもっている。塩野七生氏の『ローマ人の物語』を読んだ影響も大きい。しかし、本書によれば、キリスト教は単純な一神教ではなく、ユダヤ教にイエス・キリストを付加し、無理を重ねて作り上げた奇妙な一神教のようだ。
 その奇妙な一神教が西欧文明社会を作るバックボーンになっていることの解明がスリリングで面白い。

 特に、一神教と科学の関係の説明に蒙を啓かれた。自然科学がキリスト教の副産物であるという指摘には驚いた。
 この世界(宇宙)は神が創ったものであり、神の計画を明らかにしようと、自然の解明に取り組んだ結果として科学が生まれたのだそうだ。そう考えてみると、科学と宗教について私が漠然と抱いていた疑問(優秀な物理学者がカソリックの神父である不思議など)が氷解してくる。

 ことは自然科学だけではない。西洋における哲学の発展もキリスト教がもらしたものであり、宗教を完全に否定しているように見えるマルクス主義さえもが、キリスト教が生み出したものだというのだ。驚嘆すべき指摘だ。二人の対談を読んでいると、この指摘に納得させられてしまうのが、本書のふしぎである。

 マルクス主義の誕生にはキリスト教の「陰謀」がある…などと主張するとトンデモ陰謀論になってしまう。もちろん、本書はそれを「陰謀」と指摘しているわけではないが、それにかなり近い危うい面白さを感じてしまう。

 孫悟空はいくら飛び回っても釈迦の手のひらから外に出ることができなかった。本書を読むと、釈迦の手のひらではなく「キリスト教の手のひら」を感じる。われわれの現代文明は、宗教の軛を脱しているように見えながら、実はキリスト教の手のひらの上に花開いているだけなのだろうか。そう考えると、この世は壮大な陰謀の上に成り立っているようにも見えてくる。

 世界が陰謀に満ちていると考えるのは、もちろん不合理な誇大妄想である。しかし、さまざまな妄想の羽根を広く緻密に展開してみるのは、ある種の思考訓練になりそうな気がする。大きな物語と身近な世界とを自由に往来できれば頭の体操になりそうだ。

 2冊の本を読んで、そんな妄想を抱いた。

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