追悼本『唐十郎襲来!』で往年を偲ぶ ― 2025年04月16日
唐十郎が84歳で逝ったのは昨年(2024年)5月4日、劇団唐組公演『泥人魚』初日の前日だった。私は逝去の翌々日にこの公演を観た。逝去から半年後、次の追悼本が出た。
『唐十郎襲来!』(河出書房新社/2024.11)
32本の記事と戯曲1編(最期に書いた『海星』)を収録した盛り沢山な本である。刊行直後に入手し、いくつかの記事を拾い読みしたが、今回、あらためて全編を通読した。さまざまな側面の唐十郎の姿に接する至福の読書時間だった。
32本中の4本は過去の記事の再録で、28本が逝去後の書き下ろし&語り下ろしである。状況劇場発足以前の学生劇団時代の大鶴義英(唐十郎)の先輩による遠い追憶譚から、横国大や明大の教授になった唐十郎の教え子の思い出話まで、執筆者の世代は幅広い。
横尾忠則のインタビュー記事は驚きだった。横尾忠則による初期の状況劇場のポスターは衝撃的で、紅テントのイメージと切り離せない。横尾忠則は、初期の何作かのポスターを提供した後、新たな作風のポスターを制作したそうだ。次のように語っている。
「(今までの作風では)僕自身も自分の作品のコピー作ることになるからダメだし、唐君も僕のイメージで芝居をやろうとしたらダメだから、一回ひっくり返してやろうと思って、とんでもないポスターを作ったんですよ。それは怖かったようで受け入れなかった。キャンセルしてきた。」
1968年か1969年頃の話だと推測される。横尾忠則は、あのとき唐十郎が新たなポスターを受け入れていたら、その芝居も別次元の新たな展開を見せたかもしれないと惜しんでいる。『吸血姫』『唐版 風の又三郎』などの傑作はその後に生まれるのだが……。
麿赤児の記事でも新たな事実を知った。唐十郎は逝去の12年前、2012年に転倒による脳挫傷で執筆不能となる。それまで年1~2本のペースで戯曲を書いていたが、その後の新作はない。転倒直前に取り組んでいたのは、何と麿赤児あての戯曲だったのだ。嵐山光三郎のプロデュースで麿赤児の唐組への出演が決まっていたそうだ。実現していれば、1971年以来40数年ぶりの麿赤児の紅テント芝居だった。
麿赤児は「唐の言語の死以来数回、唐組の芝居を観た」と述べている。そのうちの一つは私が観劇した2018年の『吸血姫』のはずだ。私は、桟敷席後方の椅子席に座っている麿赤児とリハビリ後の唐十郎の姿を発見して感激した記憶がある。
唐十郎の姿を最後に目撃したのは、逝去前年の一糸座公演『少女仮面』の客席だった。カーテンコールの際に舞台上から紹介され、客席から立ち上がって観客に手を振った。舞台上から唐十郎に呼びかけた役者が思わず涙ぐんだ姿が印象に残っている。
本書は興味深い指摘やエピソードに満ちている。唐十郎の演出について不破万作は「 アドリブは絶対ダメだったんですよ。『このセリフ、意味がわかんないです』と聞いてみ、『わかんなくても喋ればいいんだ!』と言われた」と語っている。蜷川幸雄は2011年の対談で「稽古のときに(唐十郎が)台詞一行一行すべてについて、どういう意味や行動があるのかを出したことがあるよ。僕も仰天したんだけど、衝動的に書いているように見せながら、確固たる裏付けがあるんだよね。あれはびっくりした」と語っている。あの迷宮芝居群のナゾを解き明かすのは容易ではない。だから楽しい。
唐十郎は100編以上の戯曲を残したそうだ。今後、どの程度上演されるだろうか。新たな古典芸能として長く受け継がれていくような気がする。
『唐十郎襲来!』(河出書房新社/2024.11)
32本の記事と戯曲1編(最期に書いた『海星』)を収録した盛り沢山な本である。刊行直後に入手し、いくつかの記事を拾い読みしたが、今回、あらためて全編を通読した。さまざまな側面の唐十郎の姿に接する至福の読書時間だった。
32本中の4本は過去の記事の再録で、28本が逝去後の書き下ろし&語り下ろしである。状況劇場発足以前の学生劇団時代の大鶴義英(唐十郎)の先輩による遠い追憶譚から、横国大や明大の教授になった唐十郎の教え子の思い出話まで、執筆者の世代は幅広い。
横尾忠則のインタビュー記事は驚きだった。横尾忠則による初期の状況劇場のポスターは衝撃的で、紅テントのイメージと切り離せない。横尾忠則は、初期の何作かのポスターを提供した後、新たな作風のポスターを制作したそうだ。次のように語っている。
「(今までの作風では)僕自身も自分の作品のコピー作ることになるからダメだし、唐君も僕のイメージで芝居をやろうとしたらダメだから、一回ひっくり返してやろうと思って、とんでもないポスターを作ったんですよ。それは怖かったようで受け入れなかった。キャンセルしてきた。」
1968年か1969年頃の話だと推測される。横尾忠則は、あのとき唐十郎が新たなポスターを受け入れていたら、その芝居も別次元の新たな展開を見せたかもしれないと惜しんでいる。『吸血姫』『唐版 風の又三郎』などの傑作はその後に生まれるのだが……。
麿赤児の記事でも新たな事実を知った。唐十郎は逝去の12年前、2012年に転倒による脳挫傷で執筆不能となる。それまで年1~2本のペースで戯曲を書いていたが、その後の新作はない。転倒直前に取り組んでいたのは、何と麿赤児あての戯曲だったのだ。嵐山光三郎のプロデュースで麿赤児の唐組への出演が決まっていたそうだ。実現していれば、1971年以来40数年ぶりの麿赤児の紅テント芝居だった。
麿赤児は「唐の言語の死以来数回、唐組の芝居を観た」と述べている。そのうちの一つは私が観劇した2018年の『吸血姫』のはずだ。私は、桟敷席後方の椅子席に座っている麿赤児とリハビリ後の唐十郎の姿を発見して感激した記憶がある。
唐十郎の姿を最後に目撃したのは、逝去前年の一糸座公演『少女仮面』の客席だった。カーテンコールの際に舞台上から紹介され、客席から立ち上がって観客に手を振った。舞台上から唐十郎に呼びかけた役者が思わず涙ぐんだ姿が印象に残っている。
本書は興味深い指摘やエピソードに満ちている。唐十郎の演出について不破万作は「 アドリブは絶対ダメだったんですよ。『このセリフ、意味がわかんないです』と聞いてみ、『わかんなくても喋ればいいんだ!』と言われた」と語っている。蜷川幸雄は2011年の対談で「稽古のときに(唐十郎が)台詞一行一行すべてについて、どういう意味や行動があるのかを出したことがあるよ。僕も仰天したんだけど、衝動的に書いているように見せながら、確固たる裏付けがあるんだよね。あれはびっくりした」と語っている。あの迷宮芝居群のナゾを解き明かすのは容易ではない。だから楽しい。
唐十郎は100編以上の戯曲を残したそうだ。今後、どの程度上演されるだろうか。新たな古典芸能として長く受け継がれていくような気がする。

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