4年前に買った『南イタリア周遊記』をあわただしく読了 ― 2024年08月12日
4年前に予定していた南イタリアの古跡巡りがコロナで中止になり、今月末に南イタリア観光に行くことになった。先月始め、4年前の旅行準備で購入したまま未読だった
『南イタリアへ!』(陣内秀信)を読んだ。他にも未読の準備本があった。
『南イタリア周遊記』(ギッシング/小池滋訳/岩波文庫)
未知の著者の本である。タイトルだけで購入したのだと思う。旅行前の今を逃せば読むことはないと思い、あわただしく読了した。
ギッシングは19世紀末のイギリスの作家で、本書は1987年の南イタリア周遊の記録である(刊行は1901年)。訳者は巻末の解説で著者を「日本でポピュラーな作家とは義理にも言えない」と紹介している。
17世紀から19世紀初頭にかけて、イギリスの貴族の子弟たちのグランドツアー(フランスやイタリアへの贅沢な卒業旅行?)が流行する。本書もそんなグランドツアー旅行記かと思ったが、そうではなかった。著者はさほど裕福でもない作家のようだ。訳者は解説で次のように述べている。
「一生を通じて現実生活の苦しみに苛まれ続けたギッシングにとって、わずかな慰安は少年の頃から古典文学を通して憧れていた、古代文明の故卿ギリシャとイタリアであった。」
本書のメインは南イタリアのタラントからレッジョまでの旅である。イタリア半島を足に例えれば、土踏まずのカカト寄り地点からつま先までの足裏沿いの旅になる。この時代、タラントからレッジョまでは鉄道が通っている。だが、最寄り駅から目的地までは馬車になる。この「足裏」地域はかなりの田舎であり、イギリスからわざわざ訪れる旅行者はほとんどいない。古跡巡りという著者の目的は現地の人々にはなかなか理解されない。
ギッシングの旅程は、4年前に予定していたディープな古跡巡り(前田耕作先生と巡る古代史の旅 南イタリア11日間)と重なる部分がある。だが、今回の南イタリア観光とはまったく重ならない。現在でも「足裏」地域まで行く観光客は少ないのだと思う。だから、本書は今回の旅行準備とはならなかった。
とは言っても、イギリス人旅行者の見た19世紀末の南イタリアの光景は興味深い。イタリアのリソルジメントを遠景とした南イタリアの田舎の実態を多少は感じことがるできた。
『南イタリア周遊記』(ギッシング/小池滋訳/岩波文庫)
未知の著者の本である。タイトルだけで購入したのだと思う。旅行前の今を逃せば読むことはないと思い、あわただしく読了した。
ギッシングは19世紀末のイギリスの作家で、本書は1987年の南イタリア周遊の記録である(刊行は1901年)。訳者は巻末の解説で著者を「日本でポピュラーな作家とは義理にも言えない」と紹介している。
17世紀から19世紀初頭にかけて、イギリスの貴族の子弟たちのグランドツアー(フランスやイタリアへの贅沢な卒業旅行?)が流行する。本書もそんなグランドツアー旅行記かと思ったが、そうではなかった。著者はさほど裕福でもない作家のようだ。訳者は解説で次のように述べている。
「一生を通じて現実生活の苦しみに苛まれ続けたギッシングにとって、わずかな慰安は少年の頃から古典文学を通して憧れていた、古代文明の故卿ギリシャとイタリアであった。」
本書のメインは南イタリアのタラントからレッジョまでの旅である。イタリア半島を足に例えれば、土踏まずのカカト寄り地点からつま先までの足裏沿いの旅になる。この時代、タラントからレッジョまでは鉄道が通っている。だが、最寄り駅から目的地までは馬車になる。この「足裏」地域はかなりの田舎であり、イギリスからわざわざ訪れる旅行者はほとんどいない。古跡巡りという著者の目的は現地の人々にはなかなか理解されない。
ギッシングの旅程は、4年前に予定していたディープな古跡巡り(前田耕作先生と巡る古代史の旅 南イタリア11日間)と重なる部分がある。だが、今回の南イタリア観光とはまったく重ならない。現在でも「足裏」地域まで行く観光客は少ないのだと思う。だから、本書は今回の旅行準備とはならなかった。
とは言っても、イギリス人旅行者の見た19世紀末の南イタリアの光景は興味深い。イタリアのリソルジメントを遠景とした南イタリアの田舎の実態を多少は感じことがるできた。

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