トウモコシ無残 --- 犯人はハクビシンか?2015年08月04日

動物に齧られたトウモロコシ、新聞紙で雌穂を覆ったトウモロコシ
 八ヶ岳南麓の山小屋の庭に植えたトウモロコシが動物被害にあった。昨年もトウモロコシの一部に齧られた痕があり、シカではないかと推測し、今年はシカが越えらないと思われる高さのフェンスを巡らせた。先のブログにも書いたように、このフェンスは実質的にはスソ空きだったためイノシシにジャガイモを掘り返されたのだが、シカに対しては有効だろうと自負していた。しかしトウモロコシもやられてしまった。

 トウモロコシは1条10個、1畝2条植えで2畝、つまり40個植えた。畝ごとに10日置いて種を植えたので生育状況に差がある。今回、被害にあったのは生育した約10個で、皮がむしられ実が齧られていた。フェンスには特に異常はない。惨状から見て鳥害とは考えにくい。

 ネットでトウモロコシの動物被害を調べた結果、犯人をハクビシンと推定した。山小屋の近辺でシカを目撃することがあるので、シカを警戒していたのだが、トウモロコシがシカに齧られたという事例は少ない。ハクビシン、タヌキ、アライグマなどにトウモロコシの実を齧られることが多いようだ。タヌキやアライグマはトウモロコシを倒して実を食べるが、ハクビシンは倒さずに食べるらしい。わがトウモロコシは倒されていなかった。また、近所の市営温泉のロビーには捕獲したハクビシンの剝製を展示している。となると、ハクビシンが最も怪しい。

 ハクビシンは東京にも生息していて、ネコのように柱を登り、人家の屋根裏に棲みつくこともある。フェンスの杭など容易によじ登って越えてしまうだろう。やっかいな相手である。

 ハクビシンを撃退するには電気柵が有効らしい。電気柵は先日重大な人身事故があったばかりだし、ささやかなわが畑にそんな大がかりな仕掛けをする気にはなれない。そこで、ネットで紹介されていた次善の策を講じることにした。雌穂を新聞紙で覆って動物から隠すという方法である。

 動物の被害を免れたトウモロコシの中で毛が色づいているものは、すべて収穫し、残りの約10本には新聞紙をガムテープで巻きつけてみた。こんな状態で正常に生育するのか多少心配でもあり、激しい雨が降れば新聞紙はダメになりそうにも思える。新聞紙で覆うだけでハクビシンの襲撃をかわせるのかこころもとない。いずれにしても、近日中に結果が出るはずだ。

村上龍の『オールド・テロリスト』を読んだ2015年08月04日

『オールド・テロリスト』(村上龍/文藝春秋)
 村上龍の新作『オールド・テロリスト』(文藝春秋)を、刺激的なタイトルに惹かれて読んだ。もちろん私はテロを肯定しないし、テロリストが好きなわけでもない。しかし、文学が人間と社会をつきつめて描こうとするとき、テロリストを介在させると深遠で面白い世界が現出することがある。ドストエフスキイの『悪霊』をはじめ多くの傑作がある。

 と言っても『オールド・テロリスト』に『悪霊』のような世界を期待したわけではない。「オールド」という形容詞は諧謔的で大らかだから、チマチマした文学ではなく、村上龍らしい大きな物語だろうと予想した。また、すでに高齢者になった私(1948年生まれの66歳)にとっては痛快な物語だろうと期待した。その予想と期待は半分は的中し半分は外れた。

 物語はNHKロビーでの爆破テロから始まる。前半は主人公の内面描写に感情移入できず少し白けた。前半でばらまかれた伏線っぽい材料や思わせぶりが、その後の展開ですべて収拾しきれたわけではないが、後半から面白くなり、刺激的な読書時間を過ごせた。

 社会をリセットするという概念がキーのようだが、そのイメージと内実が充分に伝わってこない所に不満が残る。とは言っても、荒唐無稽なシチュエーションを何とか着地させたのは作者の力量である。

 本書の主人公や登場人物の一部は『希望の国のエクソダス』に共通していて、その続編のようでもある。2000年に発行された『希望の国のエクソダス』は、近未来2002年の中学生たちの反乱を描き、決め科白は「この国には何でもある。だが希望だけがない」だった。

 15年を経て発表された『オールド・テロリスト』は、近未来2019年に勃発する90代、80代の高齢者たちのテロを描いている。半端でない高齢である。『希望の国のエクソダス』から15年を経過した主人公は齢を重ねてくたびれているだけで、まだ「オールド」には達していない。
 
 本書の決め科白は「年寄りは、静かに暮らし、あとはテロをやって歴史を変えればそれでいいんだ」だと思うが、「この国には何でもある。だが希望だけがない」ほどのインパクトはない。残念ではあるが、年寄りは、青臭い若者のようにキザな科白を吐くことをいさぎよしとしない、ということかもしれない。

 『オールド・テロリスト』を読んでいると、村上龍の悲憤慷慨を聞いている気分になり、それなりに面白いし共感できるところもある。作者は文学的実験や文学的完成よりは現代の政治・経済・社会を自分の文学に取り込むことに関心があるようだ。そこには、滑稽に見える部分が露呈するかもしれないが、その心意気は文学表現の王道だと私は思う。

半世紀前、『理科実験観察事典』は私の宝物だった2015年08月23日

『理科実験観察事典』(保育社/1958年3月15日発行)、夏休みの自由研究「ブザーのしくみ」
 夏休みも終わりに近づき、新聞には「まだ間に合う! 夏休みの自由研究」という記事が載ったりしている。当方は夏休みに関係のない自由人だが、この夏、娘に頼まれて小学4年の孫の自由研究の手ほどきをした。

 そんなときに役立つのが『理科実験観察事典』(保育社/1958年3月15日発行)である。57年前、私が小学4年のときに親に買ってもらった本で、いまでもわが書架に保存されている。わたしが現在持っている書籍の中の最古参だ。

 小学4年のときに入手した本を半世紀以上も手放さずにきたのは、『理科実験観察事典』は小学生時代の私の宝物で、特別の思い入れがあったからだ。子供の頃、わたしは「この本には何でも載っている」と感嘆した。ドラえもんの秘密道具ほどではないにしても、「何でも…」という万能感に子供心が圧倒されたのである。

 『理科実験観察事典』は748ページのハードカバーで250の項目が載っている。その項目例をいくつか挙げてみる。

  「アサガオのそだてかた」
  「カイコの飼いかた」
  「肺活量のはかりかた」
  「のみ水のこしかた」
  「とうふの作りかた」
  「電じしゃくの作りかた」
  「電気メッキのしかた」
  「せん望鏡の作りかた」
  「北極星の見つけかた」
  「気圧のはかりかた」
  「化石の採集のしかた」
  「ハンダづけのしかた」

 大半の項目は見開き2ページの説明で、ぶ厚い本に「…のしかた」「…の作りかた」がびっしり詰め込まれているのだ。もちろん、本当に「何でも」載っているわけではないが、半世紀前の小学生にとって250の項目は、自分の身近な世界を超える膨大な量だった。目次を眺めるだけでこの世界の森羅万象の大きさを感じたものだ。

 この本の「日食、月食の調べかた」の項目には、日本で見られる日食の一覧表があり、そこには1957年4月29日から2002年6月22日までの21回の日食が載っている。1958年(昭和33年)当時の感覚では2002年はるかな未来だ。この表には未来予言を見るような感動を覚えた。この表を見て、この本は21世紀までは使えるから、それまでは保存しなければならないと思ったような気もする。

 当時のはるかな未来だった2002年もすでに過去となり、奇しくもわが孫は、わたしが『理科実験観察事典』を手にしたときと同じ小学4年生である。本書を孫に見せても反応はイマイチだ。おまえにはこの本のスゴさがわからないのかと、がっかりさせられるが、無理に押し付けることもできない。

 だが、孫の自由研究は私が本書から選んだ「ブザーや電れいの作りかた」を元に「ブザーのしくみ」という表題の代物を製作した。いまでも、じゅうぶんに役立つ本なのだ。

 本来の自由研究は、独創的で自由な発想をきっかけにするべきだろう。だが、そんな立派な自由研究に挑戦できる子供は限られていて、書籍や雑誌やネットなどに載っている指南をトレースするケースが多いようだ。それなら、わが『理科実験観察事典』をベースにすれば、ちょっと変わったレトロな自由研究ができるのではと自負している。