話題作『東京プリズン』に挟み撃ちされた気分2013年02月14日

『東京プリズン』(赤坂真理/河出書房新社)
 赤坂真理の『東京プリズン』(河出書房新社)を読んでみた。これまで、この著者の作品を読んだことはなかった。
 『東京プリズン』は昨年の話題作である。毎日出版文化賞や司馬遼太郎賞も受賞したそうだ。絶賛している書評もいくつか目にした。
 年を取ると未知の若い作家の小説を読むのが億劫になり、『東京プリズン』を書店で見かけても敬遠していたが、あまりに評判なのでついに手を伸ばした。

 天皇の戦争責任のからんだ骨太の思弁的な小説を想像していたが、意外に感性的な小説だった。母子関係と家族史が現代史にからんでくる様は、やはり昨年の話題作だった水村美苗の『母の遺産 新聞小説』を連想させる。世代が近いせいか、私にとっては水村美苗の方が読みやすい。手法は赤坂真理の方が面白い。

 主人公の人格が時空を超えていろいろ混じっていく手法には感心したが、現代史への挑戦という面では食い足りない。もう少し思弁的でもよかったと思う。

 赤坂真理は1964年生まれだから、1948年生まれの私より16歳若い。その作家の小説の中に三島由紀夫の『英霊の声』が登場するのには驚いた。
 
 戦死した英霊が天皇に対して「などてすめろぎは人間となりたまひし」と繰り返す『英霊の声』に私たち団塊世代はリアルタイムで接している(発表は1966年)。当時、三島由紀夫はスター作家であり、『英霊の声』は話題作だった。
 しかし、私はこの小説に大きな違和感をもった。異様なまでのアナクロニズムとリアリティのなさに驚いた。あまりにストレートな表現が、何か別の屈折したものの表出にも思えた。私にとっては世代的共感を誘うような小説ではなかった。私と同世代の当時の若者の多くも、私と似たような感想をいだいたのではなかろうか。
 ただし、あの頃の三島由紀夫の言動などから三島由紀夫が「天皇という観念」にこだわろうとしていることはわかった。それが三島由紀夫のわかりにくさの淵源でもあった。私(あるは私たち)は、天皇を欲してもいなければ、排除すべきだという思い込みもなく、天皇にさほどの関心がなかった。世界は、もっと別の重要で切実な課題にあふれていると考えていた。

 そして、三島由紀夫自決から40年以上が経過した21世紀初頭になって、私より年少の作家の小説に『英霊の声』が登場した。『東京プリズン』は三島由紀夫の天皇へのこだわりに呼応しているようにも見える。私たち団塊世代が、天皇へのこだわりという点で、年長世代と年少世代から挟み撃ちにあっている気分だ。

 私たち団塊世代(戦争を知らない戦後世代)は、天皇に無関心あるいは冷淡だと私は思う。理由はよくわからない。戦後教育のせいなのか、冷戦構造と高度成長の中で育ったせいなのか、あるいはマルクス主義が一定の影響力をもった文化の中で育ったせいなのかもしれない。いずれにしても、世界をとらえるのに天皇の必要性をあまり感じなかった。年長世代や年少世代に比べて、わが世代が能天気でハッピーだったとも言える。もちろん、私の個人的な偏見か妄想に過ぎないかもしれない。

 戦争体験を引きずらざるを得なかった三島由紀夫の世代が天皇にこだわるのは、わからなくもない。また、グローバル化に晒される中で赤坂真理の世代が、三島由紀夫に呼応して国家や天皇へのこだわりを抱きはじめているのもわかるような気がする。 
 この状況は、尊王攘夷という観念論に走った幕末の志士を連想する。歴史変動の胎動なのだろうか。『東京プリズン』を読んで、そんなことを考えた。