稲垣足穂の『一千一秒物語』が画本になった2011年10月16日

『一千一秒物語:タルホと遊ぶ』(文・稲垣足穂/画・楠千恵子/朝日クリエ/2011.9.5)
 なつかしい本に不意打ちのように出会い、再読した。稲垣足穂の『一千一秒物語』である。最近、挿絵入りの洒落た体裁で出版された。

『一千一秒物語:タルホと遊ぶ』(文・稲垣足穂/画・楠千恵子/朝日クリエ/2011.9.5)

 私が『一千一秒物語』という不思議なタイトルの本の存在を知ったのは、45年ほど昔の高校生の時だった。石川喬司氏が『SFマガジン』に掲載した「日本SF史の試み」の中でこの物語を紹介していた。
 「日本SF史の試み」は、記紀万葉の古代から現代に至る日本文学の流れの中からSF的匂いのある作品を渉猟した評論だった。古典・純文学・大衆文学の区別なく幅広い作品を取り上げていて、これを読むと、日本文学の主要作家の大半がSF作品を残しているという気分になる。一時期、私の読書ガイドの一つになった評論だ。

 この評論の<大正-昭和>という項目で、昭和5年に<科学画報>という雑誌が募集した「科学小説」の入選者が伊藤整、中河与一、竜肝寺雄、稲垣足穂の4人だったという興味深いエピソードの紹介に続けて、石川喬司氏は次のように述べている。

 「その足穂の『星を売る店』『一千一秒物語』『第三半球物語』『天体嗜好症』などの著作は、すぐれた異色幻想譚である。古本屋でみつけたら、ぜひ購入しておいた方がいい。」

 当時(1965年頃)、稲垣足穂は忘れられた作家に近かったのだと思う。古本屋巡りの面白さを覚えたばかりの高校生だった私は、石川喬司氏の教えを頭において、下校時の中央沿線古本屋回りをくり返していた。しかし、足穂の本に遭遇することはなかった。
 数年後、稲垣足穂は久々に上梓した『少年愛の美学』で日本文学大賞を受賞し、タルホブームが到来する。そして、新潮文庫で『一千一秒物語』が出版された(1969年12月)。

 新刊の新潮文庫『一千一秒物語』を入手した私は、古本屋で入手できなかった悔しさとともに「これが、あの幻の作品か」という感慨を抱いてページを繰った。この文庫本には「一千一秒物語」の他に「星を売る店」「天体嗜好症」などの短編も収録されていた。

 約40年前に読んだこれらの作品の内容はほとんど失念している。ただ、奇妙な雰囲気、薄荷のような不思議な味わいの記憶だけが残っていた。
 60歳を過ぎて本書を読み返し、かすかに記憶がよみがえり、昔の印象を反芻できた。同時に、未熟でウヌボレだった過去の自分自身に対面したような多少の戸惑いも感じた。

 『一千一秒物語』は70編の掌編集である。ほとんどが1頁以下で、散文詩のようでも、ショートショートのようでもある。
 朝日クリエ版の本書は、絵本作家・楠千恵子氏が全編に挿絵を描いた画本である。足穂に魅入られた絵本作家が、迷宮のような足穂の世界から得たイメージを具現化した画集とも言える。「タルホと遊ぶ」というサブタイトルは、絵本作家が読者を迷宮へ誘うメッセージである。

 『一千一秒物語』の文章表現は具体的だが、かなり突飛な幻想譚が多い。だから、情景を視覚化するのは容易ではない。私自身、言葉のイメージだけで読み飛ばしていたような気がする。本書のように、全編に幻覚のような挿絵がついていると、作品を二度くり返して読んでいるあんばいになり、作品を味読しながらタルホの世界を遊んでいるような気分になってくる。

 本書を再読して、『一千一秒物語』はある種の青春の交友録だと感じた。交友の相手は「月」や「星」たちだ。彼らは身近な隣人であり、悪友でもある。彼らと遊んだ記録がこの物語だ。著者はしばしば「月」に投げ飛ばされたり、はり倒されたりする。著者が月にピストルをぶっ放すことも多い。この幻想譚は夜ごとにくり返される青春の静謐な騒擾の記録なのだ。
 このような、確信犯的に思い切りのいい幻想譚は、無分別で稚気あふれる若者にしか書けないのだと思う。
 年を取ってモーロクすれば、似たようなものが書けるかもしれないが、その多くは昔日の自己模倣になる可能性が高く、真に若いときの作品とは趣が異なるだろう。

 稲垣足穂といえば怪しい偏屈なジイさんというイメージが濃いが、『一千一秒物語』は著者22歳の時の作品である。

 若書きの作品が優れているか否かは別として、若い時にしか書けない世界がある、と感じてしまうことの不思議を思った。

細部から歴史に迫る「幕末バトル・ロワイヤル」2011年10月26日

『幕末バトル・ロワイヤル』『井伊直弼の首:幕末バトル・ロワイヤル』『天誅と新選組:幕末バトル・ロワイヤル』『慶喜の捨て身:幕末バトル・ロワイヤル』(野口武彦/新潮新書)
 新潮新書の「幕末バトル・ロワイヤル」シリーズ4冊を読んだ。野口武彦氏が『週刊新潮』に連載した歴史読物をまとめたものだ。構成は以下のようになっている。

(1)『幕末バトル・ロワイヤル』
    天保政怪録 30編
    嘉永外患録 15編
(2)『井伊直弼の首:幕末バトル・ロワイヤル』
    安政内憂録 23編
    安政血風録 20編
(3)『天誅と新選組:幕末バトル・ロワイヤル』
    文久天誅録 23編
    文久殺陣録 20編
(4)『慶喜の捨て身:幕末バトル・ロワイヤル』
    慶應狂瀾録 21編
    慶應瓦解録 24編

 幕末前夜の天保から幕府瓦解の慶應までの約50年間の歴史と世相が176編の史談で縦横に語られている。元が週刊誌の連載記事なので1編の長さはほとんど同じ(約5頁)で、一編ずつが一応完結しながらも編年体の続きものになっている。エピソードを積み上げた歴史絵巻である。
 教科書的に重要な史実も取り上げられてはいるが、その背景を織りなす多様な人々の興味深いエピソードやゴシップの紹介が多い。

 歴史を把握するには、いくつかの大きな潮流をつかむことが必須だが、本書のように細部から歴史を眺めてこそ、その時代の実相に触れたような気分になる。
 
 東日本大震災後、これからの歴史変動をつかむヒントとして幕末史を勉強してみたいと私が考えたのは、そもそも野口武彦氏の『安政江戸地震:災害と政治権力』を読んだのがきっかけだった。続いて同じ著者の『幕末気分』も読んだ。
 これらの本と同じように「幕末バトル・ロワイヤル」シリーズも、幕末という歴史変動期に蠢いた多様なの人々の「面白さ」「おかしさ」を描いている。後世の目から「愚かさ」をあげつらっているのではない。「バトル・ロワイヤル」というやや芝居めいた視点ですくい取られているのは、いつの世にでもありそうな人間喜劇である。

 176編のそれぞれの史談はそれぞれに面白く、そこから得た知見や感想は多様だ。そのいくつかをメモしてみる。

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○水野忠邦は1844年(天保15年)に開国を主張していた

 天保改革で失脚した後、再び老中首座に復帰した水野忠邦は、清がイギリスに敗れて南京条約を締結したとの情報などから積極的開国論を主張した。しかし、将軍家慶や老中らに潰された。ペリー来航の9年前である。この話は歴史研究者からは否定されているそうだが、興味深い説だ。

○幕府はよくも悪くも官僚機構

 幕府という官僚機構は、それなりに機能していて、有能な人材の登用もなされていたようだ。しかし、権力闘争、派閥争い、贈賄、ことなかれ主義、先延ばしなどが横行していた。これは、そのまま現代にまで継承されている。

○政治家の性格分析は面白い

 水戸前藩主で何かと国政に口を挟んでいた徳川斉昭は「うるさい、くどい、しつこい。些細なことにも自説を主張し、こだわり、反対されると立腹する」性格の人だったそうだ。著者は「斉昭のこうした性格を理解しておくと幕末史の謎がいくつか解ける」と述べている。
 松平慶永は「誠実だが終生いわゆる『お殿様』ぶりが抜けなかった」バカ正直な好人物で、根回しなどという芸当はできなかったそうだ。
 本書には、このような辛辣な人物描写が多く、小説を読んでいるような面白さがある。

○政治家の心理分析は面白い

 25歳という異例の若さで老中(27歳で老中首座)になった「イケメン宰相」阿部正弘の政治基盤は大奥(姉小路の局)にしかなかった。ペリーの開国要求という局面で国家的重責を背負っていた阿部正弘は、大奥に支えられているだけでは心細くて徳川斉昭に急接近した。これが幕府の運命を大きく狂わせた。
 幕末政治に天皇を引き込んだのは阿部正弘であり、そこには「政治上の≪父性原理≫に飢えていた」という心理的事情があった。その飢えは非力の将軍や「ガキっぽい}斉昭では充たされないものだった。

○天誅というテロは政治的に有効だった

 文久年間に主に京都で展開された天誅というテロの嵐は凄惨だった。著者は「幕末の天誅テロは疑いもなく政治的に有効であった」述べている。また、「テロそれ自体は決して政権を打倒できない。しかし、国家の威信は低下させられ、反テロ政策に奔走することで国家の体力をいちじるしく消耗させられる」とも述べている。
 その通りだと思う。徳川幕府は、直接的にはテロによって瓦解したのではない。しかし、明治政府を作った人々の多くが元テロリストだったことは否定できない。

○しょちゅう名前の変わる人

 歴史上の人物で複数の名をもつ人は多い。しかし本書で「黒幕法親王」として紹介される公家はすさまじい。この人は以下のように名前が変遷している。
 「粟田宮」「青蓮院宮」「獅子王院宮」「中川宮」「朝彦親王」「尹宮」「賀陽宮」「久邇宮」
 これらの名前のいくつかは幕末本で目にすることがあったが、本書によって同一人物だと知った。ちょっとした驚きだった。

○第二次征長に見る幕府軍の不甲斐なさ

 本書では第二次長州戦争の戦闘の実態を何編かに分けてかなり詳しく紹介している。これを読んでいると、幕府軍の不甲斐なさがよく伝わってくる。若き将軍家茂がストレスで死亡したのもむべなるかなだ。
 江戸幕府は薩長に倒されたように見えるが、実は瓦解すべくして瓦解したのかもしれない。

○慶喜は厄介な人だった

 本書で描かれている徳川慶喜はそれなりに魅力的であり、よく頑張っているように見える。もちろん、分かりにくい点も多いが。
 幕末政治は徳川慶喜=江戸幕府ではなかったところが複雑であり、慶喜にとっては気の毒でもある。
 幕府には守旧派も革新派もいる。慶喜は守旧派ではなく改革を目指していた。しかし、幕府内部の慶喜反対派は小栗忠順などの革新官僚たちだった。
 著者は「この面々(幕府の革新官僚)にとって、将軍は≪軽い神輿≫の方がいい。なまじっか独自の権力意思を持たれると厄介なのである。」と分析している。
 慶喜の人望のなさに起因する点も多いのだろうが、幕府のチグハグさにはあきれるしかない。

 ≪軽い神輿≫をかつぐことができた薩摩や長州が最終的に勝利したことは、その後のわが国にとってよかったのか悪かったのか、よくわからない。