猪瀬直樹という特異な「作家」のわかりにくい魅力2011年11月24日

『言葉の力:「作家の視点」で国をつくる』(猪瀬直樹/中公新書ラクレ)
 猪瀬直樹氏の『言葉の力:「作家の視点」で国をつくる』(中公新書ラクレ)を読んだ。サブタイトルの“「作家の視点」で国をつくる”がユニークだ。「言語技術」の啓蒙書で、特に政治の場での言語の貧困に警鐘を鳴らし、日本が真の国民国家になるには言語力の涵養が重要だと説いている。
 私は猪瀬氏の主張の大筋には賛成である。ただし、本書のいくつかの指摘には多少の違和感もある。「言葉の力」が重要なのは確かだが、本書が「言葉の力」を発揮している本だろうかと考えると、イエスとは言いかねる。自分自身の著作や行動の自慢話は少し鼻につく。傲慢も著者の芸の内とも言えるのだが。

 本書では菅首相の演説を批判している。東日本大震災から2週間の節目のときに開かれた記者会見での演説だ。
 猪瀬氏は「言葉がフラットで、あれでは国民は元気が出ないと思った」「衆知を結集して、ヴィジョンを示し、印象に残るような言葉で国民を勇気づける必要があったはずだ」「それなりの文章力のある人にスピーチライターを委嘱したほうがよい」などと指摘している。
 私も、あのときの首相演説を聞いて猪瀬氏と似た感想をもった。菅首相はもう少し演説がうまいかなと思っていたのでガッカリした。演説の内容いかんでは世の中の雰囲気が変わる可能性もあり得ると思っていたが、まったく期待外れだった。
 だから、本書では、「言葉の力」によるすばらしい演説の極意が展開されるだろうと期待して読み進めた。しかし、感動を生む演説の事例紹介 は小泉首相のワンフレーズ演説だけだった。あまりに安易なので少し白けた。小泉首相は猪瀬氏の親分みたいな人だから、説得力が半減する。作家の目で、より的確な事例を渉猟してほしかった。

 それはさておき、本書を読んで、あらためて猪瀬直樹という「作家」の特異な魅力を考えてみたくなった。

 猪瀬氏が道路公団民営化委員として活躍していた頃、「作家に何がわかるのか」という趣旨の政治家の発言を聞いて、「そもそも、猪瀬直樹という人は作家なのだろうか」と疑問に思ったことがある。
 猪瀬氏が委員に任命されたのは『日本国の研究』など官僚批判の著作が評価されたからだと思う。『ミカドの肖像』などの著者である猪瀬氏は作家と言ってもノンフィクション作家であり、むしろ「評論家」という肩書の方がふさわしいように思われた。
 また、猪瀬氏には『ペルソナ:三島由紀夫伝』『マガジン青春譜:川端康成と大宅壮一』『ピカレスク:太宰治伝』など文学者の評伝の傑作があり、文芸評論家という肩書でもいいように思えた。

 一般に「作家」というと「小説家」を連想することが多いので、猪瀬氏自身は「作家」と呼ばれることをどう考えているのだろうと思っていたが、『言葉の力』のサブタイトルを見て、猪瀬氏が自身を「作家」と規定していることがわかった。
 政治の場で活躍するのに「評論家」や「言論人」という肩書では、オブザーバーのようで頼りない。むしろ「作家」という肩書の方が実践者のイメージが出やすいのだろう。本書によれば、猪瀬氏自身は「作家」という肩書に「プランナー」を含意させているようだ。

 昔は「猪瀬直樹=作家」に多少の違和感をもっていた私も、現在は猪瀬氏を作家と呼ぶことにあまり違和感はない。『ペルソナ』『マガジン青春譜』『ピカレスク』などの評伝に小説的な面白さがあると気付いたからだ。菊池寛を扱った『こころの王国』などはほとんど小説の文体だ。これらの著作を読んでいると、猪瀬氏は小説好きの文学者なのだなあと感じる。

 小説好きの文学者が何故に政治の現場で活躍しようとしているのかを理解するのは容易でない。私自身、まだよくわかっていないし、解明してみたいテーマでもある。 
 「文学者」の猪瀬氏と「政治家」の猪瀬氏を統合してとらえることができれば、猪瀬氏の特異性が浮かび上がり、その魅力が明快になるだろう。
 『言葉の力』は、そのためのヒントになる著作の一つである。しかし、私にとっては内容が分裂しているように見えて、猪瀬氏をトータルに理解できたとは言えなかった。

 作家のなかには政治的な発言をする人も多いし、現実の政治に深く関わっている作家も少なくない。ノーべル賞作家の大江健三郎氏はしばしば政治的発言をするし、猪瀬氏の上司の石原慎太郎氏は小説家と政治家を兼業している。
 しかし、大江健三郎氏や石原慎太郎氏などの政治への関わり方と猪瀬氏のスタンスはかなり違っていると思われる。
 大江健三郎氏は小説発表の変奏曲のように政治的発言をしているように見えるし、石原知事は石原慎太郎氏という特異なタレントがたまたま小説家もやり政治家もやっているように見える。

 猪瀬氏は現実の政治にインサイダー的に関わりながら、そこに「作家の視点」を導入するというこだわりを語る。作家としての文筆活動の延長に必然的に政治的な活動があると語っているようでもある。これは特異なことだと思う。

 文筆活動は言論活動の一つではあるが、それが政治活動に結びつくのを必然と考える作家は少ないだろう。「作家」の扱う世界の広大無辺に比べて政治の幅はかなり狭いからだ。狭い政治の世界しか扱わない文筆活動の人は「作家」とは呼ばれない。
 猪瀬氏は政治の幅は世界をのみこむほどに広いと考えているのかもしれない。たしかに理念としての政治は広大かもしれない。しかし、猪瀬氏が関わっているのは、理念としての政治とは別物の現実政治である。

 ・・・などと考えていると、だんだん頭が混乱して、猪瀬氏のわかりにくさが増長してくる。

 で、私が本書の主張の大筋に共感しながらも違和感をおぼえた点を三つだけ簡単にメモしてみる。

(1) 「言語技術」の習得と「文学書」の読書は別物ではないか

 猪瀬氏の主張するような、コミュニケーション技術としての「言語技術」教育の必要性には同感できる。そのためのテキストは、例えばバーバラ・ミントの『考える技術・書く技術』などだろう。日本の国語教育は、このような基本的な技術教育をおろそかにして「文学教育」に偏っていたのではないかとの指摘もある。しかし、猪瀬氏は、技術教育の重要性を語った後に、自身の『ペルソナ』『マガジン青春譜』『ピカレスク』を紹介しながら文学書を読むことの効用を説いている。ここには妙な飛躍がある。もちろん、若いうちに教養を身につけることが最大の言語教育になるのは確かだが、それではあまりに一般論になってしまう。

(2) われわれの「歴史意識」は失われているのだろうか

 猪瀬氏は、終戦後の占領政策によって日本人から歴史意識が奪われ「唯一日本だけが、世界をとらえる方法を突如として奪われた」と主張している。また「戦後の日常性とはフィクションであり、あたかもディズニーランドのような世界なのだ」とも述べている。現状の一面を指摘しているのだろうが、かなり極端な意見であり、フィクションすれすれだと思う。猪瀬氏は私より2歳年上の1946年生まれで、同じ戦後世代である。われわれの世代の人間であっても、それなりの「歴史意識」によって「世界をとらえよう」としている人は多いはずだ(猪瀬氏も含めて)。

(3) 猪瀬氏は「作家」として何を成そうとしているか

 猪瀬氏は日本の近代文学史をふまえて次のように指摘している。

 「日本の文学は、いまも近代日本のシステムを描ききれていない。制度の存在とそのリアリズムを理解しなければ、肥大化した官僚機構が独走するときにチェックできない」

 ここで言う「官僚機構」にはかつての軍部も含まれている。これは『昭和16年夏の敗戦』の著者・猪瀬氏の卓見であり、共感もできる。猪瀬直樹という「作家」がこう指摘する以上は、「近代日本のシステムを描ききる」ことこそが、その「作家」の使命だと考えざるを得ない。しかし、猪瀬氏のこの指摘はなぜか人ごとのようである。私の思いすごしかもしれないが。