『漂流 本から本へ』は筒井康隆氏の自伝だ ― 2011年01月13日
筒井康隆氏の『漂流 本から本へ』が出版された。朝日新聞の読書欄の連載(2009年4月から2010年7月まで66回)をまとめたものだ。新聞連載時に毎週読んでいたが、本の形で再読した。
本書は筒井康隆氏の幼少期から現在に至るまでの読書体験にもとづいた本の紹介である。田河水泡の『のらくろ』からハイデガーの『存在と時間』に至る66点の本が魅力的に紹介されている。
『漂流 本から本へ』を一気に読んで、あらためてこれは「自伝」だと思った。新聞の読書欄の連載で読んでいるときは、本の紹介という観点にウエイトをおいた読み方になっていた。
もちろん、本書は本の紹介には違いない。筒井康隆氏には『みだれ撃ち瀆書ノート』『本の森の狩人』など書評的な本も多いが、本書はそれらとはかなり異なっている。
筒井康隆氏は過去に感銘を受けた本の紹介にあたって、その多くを再読し、過去の時間を追体験している。それは、単に本の内容を思い起こしているのではなく、読書体験にまつわる諸々が掘り起こされている。「今でも恨み続けている」体験なども語られている。それらが興味深い自伝的要素になっているのだ。
本書を通読すると「……などと、その頃のぼくはまだ夢にも思っていない。」という表現の頻出に気づく。もちろん意図的な仕掛けである。例えば、後に関わりが出てくる江戸川乱歩や手塚治虫の作品を虚心に読んでいた頃の読書体験紹介などに、この「夢にも……」が登場する。
このような例を含めて、本書は筒井康隆氏の交友録にもなっている。また、さりげなく父、妻、息子などの家族紹介も織り込まれている。これらの点が、本書に自伝的ふくらみをもたらしている。
家族の紹介に関しては、『吾輩は猫である』などの漱石の文章の影響力の例として「父の文章も漱石そっくりだった」と語り、『マテオ・ファルコーネ』で幼い息子を脅したことを語っている。それぞれに面白いが、妻に関するエピソードが印象的だ。
妻は『そして誰もいなくなった』の読書体験紹介に登場する。ここでも「その頃のぼくはまだ、夢にも思っていなかった」が出てくる。筒井康隆氏は後年、クリスティが劇化した『そして誰もいなくなった』の舞台に俳優として出演することになるのである。そのときの妻の言動が次のように語られている。
[その芝居の初日のことだ。舞台を見に来た妻と一緒に劇場から帰宅する途中、彼女はやや憤然としてして言った。「あなたの人生って、なんて素敵なの」]
自伝的『漂流 本から本へ』を読了した読者の多くも、この妻の科白に共感するのではなかろうか。
自伝的観点から興味深いのは三島由紀夫の『禁色』の読書体験紹介だ。就職したものの仕事に満足していなかった筒井康隆氏は「小説でも書いてやろうか」と思っていたそうだ。しかし、『禁色』を読んで、三島由紀夫の才能あふれる「凄い文章」に打ちのめされ、絶望するのだ。例によって、後に三島由紀夫賞の選考委員になるとは「夢にも思っていなかった」のだが、作家になるためにはそれなりの修業が必要だと自覚し、作家修業をすることになるのである。
というわけで、本書を通読するだけでも筒井康隆という作家の輪郭が浮かび上がってくる。しかし、私としては、本書の造本に多少の不満がある。
本書には、新聞連載時にはなかった章立てがあり、「幼少年期 1934年~」「演劇青年時代 1950年~」「デビュー前夜 1957年~」「作家になる 1965年~」「新たなる飛躍 1977年~」と分かれている。自伝的な本としては適切である。だが、せっかく自伝的にするなら、もう少し徹底して、年譜や資料的写真などを掲載し、筒井康隆氏の人生を追体験しやすい本にしてほしかった。
本書は筒井康隆氏の幼少期から現在に至るまでの読書体験にもとづいた本の紹介である。田河水泡の『のらくろ』からハイデガーの『存在と時間』に至る66点の本が魅力的に紹介されている。
『漂流 本から本へ』を一気に読んで、あらためてこれは「自伝」だと思った。新聞の読書欄の連載で読んでいるときは、本の紹介という観点にウエイトをおいた読み方になっていた。
もちろん、本書は本の紹介には違いない。筒井康隆氏には『みだれ撃ち瀆書ノート』『本の森の狩人』など書評的な本も多いが、本書はそれらとはかなり異なっている。
筒井康隆氏は過去に感銘を受けた本の紹介にあたって、その多くを再読し、過去の時間を追体験している。それは、単に本の内容を思い起こしているのではなく、読書体験にまつわる諸々が掘り起こされている。「今でも恨み続けている」体験なども語られている。それらが興味深い自伝的要素になっているのだ。
本書を通読すると「……などと、その頃のぼくはまだ夢にも思っていない。」という表現の頻出に気づく。もちろん意図的な仕掛けである。例えば、後に関わりが出てくる江戸川乱歩や手塚治虫の作品を虚心に読んでいた頃の読書体験紹介などに、この「夢にも……」が登場する。
このような例を含めて、本書は筒井康隆氏の交友録にもなっている。また、さりげなく父、妻、息子などの家族紹介も織り込まれている。これらの点が、本書に自伝的ふくらみをもたらしている。
家族の紹介に関しては、『吾輩は猫である』などの漱石の文章の影響力の例として「父の文章も漱石そっくりだった」と語り、『マテオ・ファルコーネ』で幼い息子を脅したことを語っている。それぞれに面白いが、妻に関するエピソードが印象的だ。
妻は『そして誰もいなくなった』の読書体験紹介に登場する。ここでも「その頃のぼくはまだ、夢にも思っていなかった」が出てくる。筒井康隆氏は後年、クリスティが劇化した『そして誰もいなくなった』の舞台に俳優として出演することになるのである。そのときの妻の言動が次のように語られている。
[その芝居の初日のことだ。舞台を見に来た妻と一緒に劇場から帰宅する途中、彼女はやや憤然としてして言った。「あなたの人生って、なんて素敵なの」]
自伝的『漂流 本から本へ』を読了した読者の多くも、この妻の科白に共感するのではなかろうか。
自伝的観点から興味深いのは三島由紀夫の『禁色』の読書体験紹介だ。就職したものの仕事に満足していなかった筒井康隆氏は「小説でも書いてやろうか」と思っていたそうだ。しかし、『禁色』を読んで、三島由紀夫の才能あふれる「凄い文章」に打ちのめされ、絶望するのだ。例によって、後に三島由紀夫賞の選考委員になるとは「夢にも思っていなかった」のだが、作家になるためにはそれなりの修業が必要だと自覚し、作家修業をすることになるのである。
というわけで、本書を通読するだけでも筒井康隆という作家の輪郭が浮かび上がってくる。しかし、私としては、本書の造本に多少の不満がある。
本書には、新聞連載時にはなかった章立てがあり、「幼少年期 1934年~」「演劇青年時代 1950年~」「デビュー前夜 1957年~」「作家になる 1965年~」「新たなる飛躍 1977年~」と分かれている。自伝的な本としては適切である。だが、せっかく自伝的にするなら、もう少し徹底して、年譜や資料的写真などを掲載し、筒井康隆氏の人生を追体験しやすい本にしてほしかった。
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