劇評を読んだ半世紀後に『狂人なおもて往生をとぐ』を観た2025年10月18日

 水道橋のIMM THEATERで清水邦夫の初期作品『狂人なおもて往生をとぐ――昔、僕達は愛した』(演出:稲葉賀恵、出演:木村達成、岡本玲、酒井大成、橘花梨、伊勢志摩、堀部圭亮)を観た。

 私はこの数年、清水作品の再演をいくつか観ている。シニアによる『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』、パルコ劇場の『タンゴ・冬の終わりに』、渡辺えり演出の『ぼくらが大河をくだる時』などだ。

 『狂人なおもて往生をとぐ』の再演をこれらの再演と異質に感じるのは、私が知った最初の清水作品だからである。この芝居の初演は56年前の1969年3月、私は大学生だった。その舞台を観ていないが記憶に強く残っている。当時、私が傾倒していた安部公房が高く評価した新進の劇作家が清水邦夫だった。安部公房の紹介で32歳の清水邦夫が俳優座に初めて書き下ろしたのが『狂人なおもて往生をとぐ』である。そのときの朝日新聞の劇評は、いまも手元のある。

 その劇評の冒頭が記憶に残った。「俳優座の定期公演がついに新しい鉱脈をさぐりあてた。」とある。この若手劇作家はこれからは俳優座に戯曲を提供していくのだろうと思った。だが、時代はそのようには推移しなかった。アングラ劇の台頭によって新劇の魅力は色あせ、清水邦夫は蜷川幸雄と組んだ「現代人劇場」の新宿アートシアター公演に邁進する。私は、この劇団を新劇とアングラの中間劇団と感じていた。

 『狂人なおもて往生をとぐ』の舞台は観ていないが、翌年(1970年1月)出版された戯曲を読んだ。それから半世紀以上が経過し、清水邦夫の孫世代による公演があると知り、すぐにチケットを入手した。観劇前に大半を失念している戯曲を再読し、思った以上に1960年代後期の空気を反映した台詞が多いなと感じた。

 この芝居は、大学教授一家の家庭劇である。大学教授夫妻と三人の子供(長男、長女、次男)の話であり、長男は狂人である。デモで機動隊に頭の殴られて精神異常になり、自分の家庭を娼家だと思い込んでいる。母と妹は娼婦、父と弟は客である。

 教育学の教授である父親の発案で、家族は狂人の長男に合わせて娼婦や客を演じる。その芝居の中で、娼婦や客は家族ゴッコというゲームを始める。そこに、次男の婚約者である若い女性も参入し、ゴッコと現実が錯綜する「芝居」が展開する――という芝居である。

 戯曲を再度したとき「トルコ風呂」「電話交換手」などの死語が気になり、上演では言い換えるかなと思った。だが、そのまま使っていた。と言っても、1960年代の昭和風俗劇ではない。舞台は抽象的で衣装も現代風だ。

 この芝居は、狂気と常識のせめぎあいのなかで狂気が新たな時代を切り拓くというメッセージを秘めているようだ。だが、そのメッセージ性がさほど強いとは感じられない。むしろ、家族のアレコレを盛り込んだ物語によって、父性の崩壊を描いているようにも思えた。

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