中高生が読むべき『夜明け前』を中高年になって読んだ ― 2015年10月23日
◎歴史学者が評価する歴史小説
島崎藤村の『夜明け前』を66歳になって読んだ。高校生の頃に読みかけたが挫折し、そのまま失念していた長編小説だ。それを今ごろになって読もうと思ったのは、最近読んだ幕末維新の概説書4冊(『中央公論社版 日本の歴史』19、20巻、『小学館版 日本の歴史』23、24巻)のすべてに『夜明け前』への言及があったからだ。
『中央公論社版 日本の歴史19 開国と攘夷』著者の歴史学者・小西四郎氏は「わたしは、この『夜明け前』はすばらしい歴史小説であると思っている。明治維新を対象に、これほどよく調べて書かれ、しかも筋の通っている作品はない。歴史を専攻する一人として、まことに頭の下がる思いがする。」と高く評価している。歴史学者は歴史小説には冷淡かと思っていたが、こうまで言われると、あの高名な小説を未読のままでいるのが気がかりになる。
高校時代に読みかけた『夜明け前』は、まだわが本棚の奥に眠っていた。講談社版日本現代文學全集の第20巻『島崎藤村集(二)』で、『夜明け前』全編が収録されている。2段組みの分厚い本で、ページを開いてみると活字が小さい。半世紀前の高校生には気にならなかった小さな活字が高齢者には辛い。短いものならともかく500ページ以上の長編を小さい活字で読む気にはなれない。本屋に行くと『夜明け前』は新潮文庫で入手できた。四分冊で活字が大きいだけでなく新字新仮名で読みやすい。不思議なことに、高校生の頃には旧字旧仮名が気にならなかったのに、高齢になった今は旧字旧仮名に違和感がある。
◎歴史小説というよりは…
『夜明け前』は藤村の父親をモデルにした青山半蔵が主人公の木曽本陣の一族の物語で、第一部がペリー来航の頃(半蔵は22歳)から大政奉還まで、第二部が戊辰戦争から半蔵が55歳で狂死する明治19年までを描いている。
木曽路の馬籠本陣一族の視点で幕末維新の変動を描いた歴史小説で、確かに歴史変動のありさまが伝わってくる。だが、全巻を読み終えた感慨は歴史小説を読んだという気分とは少し異なる。青山半蔵という特異で可哀そうな人物の生涯とその一族の物語につきあったという索漠たる感慨である。
主人公の青山半蔵は学問が好きな本陣の長男である。彼が傾倒しているのは本居宣長や平田篤胤の国学で、古代への復帰という観念に憑かれ、尊王攘夷の志士たちに深いシンパシーを抱いている。そんな彼が幕末維新の歴史変動で体験したものは「裏切られた革命」である。観念に憑かれた人が現実に裏切られる話と単純化するのは乱暴かもしれないが、普遍的なテーマであり、平田篤胤をルソーやマルクスに置き換えても成り立つ物語なのだ。
この小説の面白さを探ろうとするなら、歴史小説的な要素は遠景になり、島崎藤村という作家の内面や、思想に憑かれた人物の悲喜劇を追究することになりそうだ。その意味で『夜明け前』は、やはり中学・高校時代の若者が読むのにふさわしいブンガクである。だが、不幸なことに私は60代半ばの高齢者であり、『夜明け前』を歴史小説のつもりで読んだのであり、この小説の歴史小説的な要素からはみ出る部分は当面の関心外だ。だが、歴史小説としても興味深い箇所は多い。
◎歴史変動を実感できる
『夜明け前』で私が面白いと感じたのは、木曽路の庄屋という無名の一般人が体験した幕末維新の変動を描いている点であり、そこからは俯瞰的な歴史書からはつかみにくい歴史変動の実相が生々しく伝わってくる。と言っても、本書は当事者の手記ではなく、昭和初期に藤村が描いた小説である。
青山半蔵ら木曽路の人々を巡る物語がメインの『夜明け前』には、登場人物たちの視点を超えて歴史概説書風に幕末維新の京都や江戸などの動向を記述している部分も多い。その歴史概説は作者・藤村の視点で描かれている。『夜明け前』の執筆は昭和4年(1929年)から昭和10年(1935年)だから、約半世紀前の出来事を振り返って描いた近過去の歴史小説である。
この半世紀は短くはない。明治維新から昭和初期までの半世紀は自由民権運動やロシア革命から皇国史観形成までも詰まった濃密な時間であり、そんな歴史体験をふまえた史観によって藤村は『夜明け前』の時代の歴史の動向を概説している。だから、歴史概説の部分は登場人物たちの同時代意識を反映しているのではなく、昭和初期における幕末維新の見方を反映していると思われる。
半世紀の時間フィルターのかかった鳥の目による記述の部分よりは、虫の目とも言える木曽路の人々の記述の部分の方が生彩があって面白い。
◎夜明けは来たのか
『夜明け前』というタイトルからは、鞍馬天狗が「日本の夜明けは近い」と日の出を指差すシーンが思い浮かび、明治維新を「夜明け」と見なしている小説に見えるが、読んでみるとそうではなかった。明治19年までを描いたこの小説では、小説の終盤になっても依然として夜は明けていない…というか暗いままなのだ。まさに『夜明け前』というタイトル通りの内容ではあるが、そうなると夜が明けて明るくなる日は永遠にやって来ないようにも感じられる。
明治維新が夜明けであったか否かは別にして、青山半蔵のような本陣の庄屋にとって明治維新が自分たちの生活に重大な影響を及ぼす大きな歴史変動だったことは、この小説によって実感できる。参勤交代の廃止は半蔵たちにとっても望むべきものだったが、「ご一新」によって結局のところ本陣は没落していく。妻の兄が営む隣りの本陣が郵便局に転進するエピソードも面白い。夜明け前の暗さが持続していたとしても、世の中が短期間で様変わりしたのは確かだ。
◎印象深い場面は…
『夜明け前』で興味深いのは、鳥の目による歴史概説ではなく、「大黒屋日記」などをベースにて描かれたと思われる馬籠宿の人々の日々の営みから見た時代の動きである。歴史学者たちが『夜明け前』を評価するのもその点にあるようだ。先に挙げた歴史概説書が『夜明け前』のどこに言及しているかは以下の通りだ。
『中央公論版 日本の歴史19 開国と攘夷』(小西四郎)は、江戸の将軍に降嫁する和宮の大行列が馬籠宿を通過する場面と、幕府に追われる水戸天狗党を馬籠本陣に迎え入れる場面を取り上げている。
『中央公論版 日本の歴史20 明治維新』(井上清)は、相楽総三らの赤報隊が官軍の先兵として馬籠宿を通過する場面と、明治になって木曽の山林が国有化され人々が苦しめられる様子を取り上げている。
『小学館版 日本の歴史23 開国』(芝原拓自)は、和宮の大行列の通過と、庄屋など草莽の人々の間に平田派の国学が浸透している様子を取り上げている。
『小学館版 日本の歴史24 明治維新』(田中彰)は、「ご一新がこんなことでいいのか」と半蔵がつぶやく場面を引用して、夜が明けてのちの暗さという面から明治維新を論じている。
いずれも小説『夜明け前』の印象深い場面であり、私も歴史学者たちの言及に共感できた。和宮降嫁、水戸天狗党、相楽総三の赤報隊などは歴史概説書の解説で概要を知ることはできるが、歴史小説で読むと自分が現場に居合わせたような気分になり、歴史変動の実相を得たような気になる。たとえ錯覚であっても、多少の感情移入で歴史をつかんだ気分になるところに歴史小説のメリットがある。
◎地震の精神的影響
他に『夜明け前』で印象に残ったのは安政の大地震への言及だ。また、江戸城の本丸焼失の火事や木曽の馬籠本陣の火事なども坦々と語られている。幕末維新の時代には半日常的に地震や火事があったような印象さえ受ける。
先にあげた『日本の歴史』のような概説書には地震や火事についての記述はほとんどない。政治・経済・社会の動きを俯瞰的に記述するにあたって自然災害のウエイトは相対的に低くならざるを得ないだろう。だが日々の生活を積み上げながら生きている人々にとって巨大な自然災害がもたらす精神的な影響は小さくないと思われる。そんなことを想起させる点でも『夜明け前』は秀逸な歴史小説と言える。
◎島崎藤村と星新一
『夜明け前』を読み終えてしばらくして島崎藤村と星新一の意外な類似感に気づいた。森鴎外の血筋の星新一が藤村にも通じているのだ。星新一の『明治・父・アメリカ』と島崎藤村の『夜明け前』をほぼ同時期に読んだのは、たまたまの偶然だが、この二つの作品は虫の目で歴史を感じらる点が似ているし、どちらも作家の父親を描いている。作家にとって心理的障壁の高い自分の父親を描くという作業が歴史小説にならざるを得ないのは必然かもしれない。
島崎藤村の『夜明け前』を66歳になって読んだ。高校生の頃に読みかけたが挫折し、そのまま失念していた長編小説だ。それを今ごろになって読もうと思ったのは、最近読んだ幕末維新の概説書4冊(『中央公論社版 日本の歴史』19、20巻、『小学館版 日本の歴史』23、24巻)のすべてに『夜明け前』への言及があったからだ。
『中央公論社版 日本の歴史19 開国と攘夷』著者の歴史学者・小西四郎氏は「わたしは、この『夜明け前』はすばらしい歴史小説であると思っている。明治維新を対象に、これほどよく調べて書かれ、しかも筋の通っている作品はない。歴史を専攻する一人として、まことに頭の下がる思いがする。」と高く評価している。歴史学者は歴史小説には冷淡かと思っていたが、こうまで言われると、あの高名な小説を未読のままでいるのが気がかりになる。
高校時代に読みかけた『夜明け前』は、まだわが本棚の奥に眠っていた。講談社版日本現代文學全集の第20巻『島崎藤村集(二)』で、『夜明け前』全編が収録されている。2段組みの分厚い本で、ページを開いてみると活字が小さい。半世紀前の高校生には気にならなかった小さな活字が高齢者には辛い。短いものならともかく500ページ以上の長編を小さい活字で読む気にはなれない。本屋に行くと『夜明け前』は新潮文庫で入手できた。四分冊で活字が大きいだけでなく新字新仮名で読みやすい。不思議なことに、高校生の頃には旧字旧仮名が気にならなかったのに、高齢になった今は旧字旧仮名に違和感がある。
◎歴史小説というよりは…
『夜明け前』は藤村の父親をモデルにした青山半蔵が主人公の木曽本陣の一族の物語で、第一部がペリー来航の頃(半蔵は22歳)から大政奉還まで、第二部が戊辰戦争から半蔵が55歳で狂死する明治19年までを描いている。
木曽路の馬籠本陣一族の視点で幕末維新の変動を描いた歴史小説で、確かに歴史変動のありさまが伝わってくる。だが、全巻を読み終えた感慨は歴史小説を読んだという気分とは少し異なる。青山半蔵という特異で可哀そうな人物の生涯とその一族の物語につきあったという索漠たる感慨である。
主人公の青山半蔵は学問が好きな本陣の長男である。彼が傾倒しているのは本居宣長や平田篤胤の国学で、古代への復帰という観念に憑かれ、尊王攘夷の志士たちに深いシンパシーを抱いている。そんな彼が幕末維新の歴史変動で体験したものは「裏切られた革命」である。観念に憑かれた人が現実に裏切られる話と単純化するのは乱暴かもしれないが、普遍的なテーマであり、平田篤胤をルソーやマルクスに置き換えても成り立つ物語なのだ。
この小説の面白さを探ろうとするなら、歴史小説的な要素は遠景になり、島崎藤村という作家の内面や、思想に憑かれた人物の悲喜劇を追究することになりそうだ。その意味で『夜明け前』は、やはり中学・高校時代の若者が読むのにふさわしいブンガクである。だが、不幸なことに私は60代半ばの高齢者であり、『夜明け前』を歴史小説のつもりで読んだのであり、この小説の歴史小説的な要素からはみ出る部分は当面の関心外だ。だが、歴史小説としても興味深い箇所は多い。
◎歴史変動を実感できる
『夜明け前』で私が面白いと感じたのは、木曽路の庄屋という無名の一般人が体験した幕末維新の変動を描いている点であり、そこからは俯瞰的な歴史書からはつかみにくい歴史変動の実相が生々しく伝わってくる。と言っても、本書は当事者の手記ではなく、昭和初期に藤村が描いた小説である。
青山半蔵ら木曽路の人々を巡る物語がメインの『夜明け前』には、登場人物たちの視点を超えて歴史概説書風に幕末維新の京都や江戸などの動向を記述している部分も多い。その歴史概説は作者・藤村の視点で描かれている。『夜明け前』の執筆は昭和4年(1929年)から昭和10年(1935年)だから、約半世紀前の出来事を振り返って描いた近過去の歴史小説である。
この半世紀は短くはない。明治維新から昭和初期までの半世紀は自由民権運動やロシア革命から皇国史観形成までも詰まった濃密な時間であり、そんな歴史体験をふまえた史観によって藤村は『夜明け前』の時代の歴史の動向を概説している。だから、歴史概説の部分は登場人物たちの同時代意識を反映しているのではなく、昭和初期における幕末維新の見方を反映していると思われる。
半世紀の時間フィルターのかかった鳥の目による記述の部分よりは、虫の目とも言える木曽路の人々の記述の部分の方が生彩があって面白い。
◎夜明けは来たのか
『夜明け前』というタイトルからは、鞍馬天狗が「日本の夜明けは近い」と日の出を指差すシーンが思い浮かび、明治維新を「夜明け」と見なしている小説に見えるが、読んでみるとそうではなかった。明治19年までを描いたこの小説では、小説の終盤になっても依然として夜は明けていない…というか暗いままなのだ。まさに『夜明け前』というタイトル通りの内容ではあるが、そうなると夜が明けて明るくなる日は永遠にやって来ないようにも感じられる。
明治維新が夜明けであったか否かは別にして、青山半蔵のような本陣の庄屋にとって明治維新が自分たちの生活に重大な影響を及ぼす大きな歴史変動だったことは、この小説によって実感できる。参勤交代の廃止は半蔵たちにとっても望むべきものだったが、「ご一新」によって結局のところ本陣は没落していく。妻の兄が営む隣りの本陣が郵便局に転進するエピソードも面白い。夜明け前の暗さが持続していたとしても、世の中が短期間で様変わりしたのは確かだ。
◎印象深い場面は…
『夜明け前』で興味深いのは、鳥の目による歴史概説ではなく、「大黒屋日記」などをベースにて描かれたと思われる馬籠宿の人々の日々の営みから見た時代の動きである。歴史学者たちが『夜明け前』を評価するのもその点にあるようだ。先に挙げた歴史概説書が『夜明け前』のどこに言及しているかは以下の通りだ。
『中央公論版 日本の歴史19 開国と攘夷』(小西四郎)は、江戸の将軍に降嫁する和宮の大行列が馬籠宿を通過する場面と、幕府に追われる水戸天狗党を馬籠本陣に迎え入れる場面を取り上げている。
『中央公論版 日本の歴史20 明治維新』(井上清)は、相楽総三らの赤報隊が官軍の先兵として馬籠宿を通過する場面と、明治になって木曽の山林が国有化され人々が苦しめられる様子を取り上げている。
『小学館版 日本の歴史23 開国』(芝原拓自)は、和宮の大行列の通過と、庄屋など草莽の人々の間に平田派の国学が浸透している様子を取り上げている。
『小学館版 日本の歴史24 明治維新』(田中彰)は、「ご一新がこんなことでいいのか」と半蔵がつぶやく場面を引用して、夜が明けてのちの暗さという面から明治維新を論じている。
いずれも小説『夜明け前』の印象深い場面であり、私も歴史学者たちの言及に共感できた。和宮降嫁、水戸天狗党、相楽総三の赤報隊などは歴史概説書の解説で概要を知ることはできるが、歴史小説で読むと自分が現場に居合わせたような気分になり、歴史変動の実相を得たような気になる。たとえ錯覚であっても、多少の感情移入で歴史をつかんだ気分になるところに歴史小説のメリットがある。
◎地震の精神的影響
他に『夜明け前』で印象に残ったのは安政の大地震への言及だ。また、江戸城の本丸焼失の火事や木曽の馬籠本陣の火事なども坦々と語られている。幕末維新の時代には半日常的に地震や火事があったような印象さえ受ける。
先にあげた『日本の歴史』のような概説書には地震や火事についての記述はほとんどない。政治・経済・社会の動きを俯瞰的に記述するにあたって自然災害のウエイトは相対的に低くならざるを得ないだろう。だが日々の生活を積み上げながら生きている人々にとって巨大な自然災害がもたらす精神的な影響は小さくないと思われる。そんなことを想起させる点でも『夜明け前』は秀逸な歴史小説と言える。
◎島崎藤村と星新一
『夜明け前』を読み終えてしばらくして島崎藤村と星新一の意外な類似感に気づいた。森鴎外の血筋の星新一が藤村にも通じているのだ。星新一の『明治・父・アメリカ』と島崎藤村の『夜明け前』をほぼ同時期に読んだのは、たまたまの偶然だが、この二つの作品は虫の目で歴史を感じらる点が似ているし、どちらも作家の父親を描いている。作家にとって心理的障壁の高い自分の父親を描くという作業が歴史小説にならざるを得ないのは必然かもしれない。
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