幕末維新の歴史変動追体験を試みて・・・2013年02月03日

人物日本の歴史(18)(19)(20)』(小学館)、『幕末動乱の男たち(上)(下)』(海音寺潮五郎/新潮文庫)
◎同時代人気分で幕末の列伝を読む

 幕末維新に活躍した人々の列伝をまとめて読んだ。『人物日本の歴史(18)(19)(20)』(小学館)の3巻で18人、『幕末動乱の男たち(上)(下)』(海音寺潮五郎/新潮文庫)で12人、重複が3人あって都合27人だ。
 一人数十ページの評伝は、歴史事典の記述よりは詳しく、一人で何巻も費やす歴史小説のような寄り道はなく、歴史の俯瞰には手頃だ。それぞれの人物に寄り添って動乱の時代を繰り返し往復していると、何となく時代の雰囲気が見えてくる。

 私がこれらの列伝を読んだのは、幕末維新を過去の歴史物語としてではなく、同時代人意識で歴史が変動する様を追体験してみたいと考えたからだ。
 幕末維新は昔のことに違いないが、あの時代に活躍した人々は私から見れば祖父の祖父ぐらいの世代で、ギリギリで時間的地続き意識での感情移入ができそうに思える。現代人の意識のまま幕末にタイムスリップして、世の中の動きを体験している気分で歴史を考えてみたい。

◎何人の列伝を読めば歴史変動が見えてくるのか

 『人物日本の歴史』は1974年から1976年にかけて刊行された叢書で、1巻で6人の人物を取り上げていて、巻頭に概説が載っている。執筆者は学者や小説家だ。幕末維新を扱った3巻の人物と執筆者は以下の通り。

 『人物日本の歴史(18) 開国と攘夷』
   概説 ---- 奈良本辰也
   井伊直弼 ---- 井上友一郎
   徳川斉昭 ---- 左方郁子
   佐久間象山 ---- 原田伴彦
   吉田松陰 ---- 奈良本辰也
   武市瑞山 ---- 井上清
   横井小楠 ---- 松浦玲

 『人物日本の歴史(19) 維新の群像』
   概説 ---- 奈良本辰也
   勝海舟 ---- 勝部真長
   坂本龍馬 ---- 三好徹
   高杉晋作 ---- 奈良本辰也
   近藤勇 ---- 早乙女貢
   榎本武揚 ---- 南条範夫
   徳川慶喜 ---- 綱淵謙錠

 『人物日本の歴史(20) 新政の演出』
   概説 ---- 井上清
   岩倉具視 ---- 井上清
   大村益次郎 ---- 江崎誠致
   西郷隆盛 ---- 戸川幸夫
   木戸孝允 ---- 大江志乃夫
   大久保利通 ---- 佐々克明
   福沢諭吉 ---- 飛鳥井雅通

 『幕末動乱の男たち(上)(下)』(海音寺潮五郎)の目次は以下の通り。

   有馬新七
   平野国臣
   清河八郎
   長野主膳
   武市半平太
   小栗上野介
   吉田松陰
   山岡鉄舟
   大久保利通
   三刺客伝
     田中新兵衛
     岡田以蔵
     河上彦斎

 海音寺潮五郎氏は、この史伝で高杉晋作、久坂玄瑞、坂本龍馬、中岡慎太郎、真木和泉、橋本左内、近藤勇、土方歳三も執筆する予定だったが諸般の事情で上記の12人でやめたそうだ(西郷隆盛、勝海舟らは「武将列伝」で書いている)。残念なことだ。
 これらの人々(海音寺氏の未執筆分も含む)に加えてどんな人の列伝を読めば幕末維新の歴史変動の全体が見えてくるだろうか。阿部正弘、堀田正睦、松平慶永、松平容保、島津斉彬、島津久光、山内豊信、長井雅楽、吉田東洋、藤田東湖、三条実美、後藤象二郎、伊藤博文、山県有朋、江藤新平・・・などとあげていくと切りがなくなる。

 いずれにしても、歴史とは結局のところは人間の営みの集積である。個々の人物に寄り沿って眺めるだけでは大きな潮流はつかみにくい。しかし、歴史変動の実相を同時代気分で追体験するには列伝を積み重ねてみるのが面白い。

◎「志士」たちはわれらの同時代人か

 さて、幕末維新の人々に感情移入しながら列伝を読んでいると「真情あふれる軽薄さ」という言葉が浮かんできた。清水邦夫が1960年代後半に書いた芝居のタイトルだ。

 幕末維新に「志士」と呼ばれた(あるいは自称した)若者の群れは、1960年代の全学連や全共闘に重なって見えてくる。本人たちはそれなりに真面目に真剣に「世界」を捉えようとし「変革のための行動」に走ったのだろうが、本当に「世界」を見通せていた人間がいたかどうか、はなはだ疑問である。
 「尊王攘夷」と「安保粉砕」は似たようなものだし、「水戸学」と「マルクス」もたいして変わりはないように思える。幕末も第二次大戦後も、若者特有の傲慢・軽薄・浅慮・見栄がさまざまな事件を引き起こした。

 幕末維新には確かに歴史変動があり、世の中が変わった。しかし、戦後の学生運動は歴史変動といえるような結果は出していない。そこに、大きな違いがある。

 列伝を読みながら私が感じたのは、幕末の「志士」たちと第二次大戦後の学生たちとで最も違っている点は武術にあるという点だ。彼らの多くは武士あるいは武士になろうとした若者で、剣術修行に励んでいる。
 幕末の「志士」たちは剣術に秀でることが学問の前提だった。戦後の学生運動は剣術とは無縁だ。
 幕末の若者たちには剣の道場が藩を超えたコミュニティのベースであり、武術をマスターしたうえで学問を身につけるのがインテリの常道だった。活躍した志士(新選組も志士に含めるべきだ)のほとんどが剣の達人である。
 武術が学問にどんな影響を与えたかは不明だが、彼らには行動への潔さ、命をやりとりする覚悟のようなものがあり、その死生観はわれわれとはかなり異なっている。

 志士たちが歴史変動を起こし得た要因のひとつに剣術があるように思える。武力革命が正しいという意味ではない。剣術を背景にした学問と行動に何らかの力があったように思われるのだ。

◎歴史変動が「歴史の進歩」とは限らない

 40年近く前に刊行された『人物日本の歴史』を読んでいて、現在ではあまり見かけない言葉に出会い、懐かしく感じた。「反動」という言葉である。
 例えば、文久3年8月18日の政変(薩摩・会津が長州を京都から追放)にいたる流れを「政治的反動の波」と表現している箇所もある(「木戸孝允」大江志乃夫)。要は反尊攘の動きを「反動」と見ているのだ。

 「反動」には、単に「反対の動き」という意味もあるが、一般の評論などでは「歴史の潮流に逆行して、進歩をはばもうとすること」(広辞苑)という意味で使われる。私が若い頃には「反動」という言葉や、その逆の「革新」という言葉はよく目にした。
 「歴史は進歩していく」という概念が多くの人に共有されていたから、「歴史の進歩」に逆行する「反動」という言葉もすんなりと受け入れられていたのだと思う。

 ソ連が崩壊し、マルクスの史観が怪しくなってきた現在、「歴史の進歩」とは何のことやら分からなくなってきている。

 幕末維新の時代については、封建制から近代社会へ「進歩」したという見方が今でも一般的だろう。しかし、あの時代の「近代化」がいつどのように展開したかは、より緻密な検証が必要だと思われる。
 単純に明治維新=近代化と見なせば、倒幕を進めた薩長が「革新」、それに対抗する側が反動」になる。『人物日本の歴史』の執筆者のなかでも、井上清氏や大江志乃夫氏などの歴史学者は、薩長による明治維新を一つの「革命」と見なし、歴史の必然の流れと見ているようだ。

 しかし、薩長による討幕は「近代化」とは無関係な権力奪取にすぎないという見方もある。われわれが教わってきた幕末維新史は薩長によって捏造された史観かもしれないと懐疑することを忘れてはならない。

◎榎本武揚と福沢諭吉で目からウロコ

 27人の列伝を読んで、いろいろな人が蠢いているなあ、みんないろいろ悩みながら頑張っているなあ、などと単純な感慨をもった。
 そして、幕末の人々の行動力と行動範囲の広さに、いさいさか驚いた。この列伝に登場する人々の何人かは、鉄道も自動車もない時代に、現代のわれわれ以上にあちこち歩き回っている。例えば清河八郎は北海道から九州まで歩き回っているし、小栗上野介は世界一周をしている。他の連中も西に東に気軽に駆け巡っているように見える。

 そして、あらためて思うのは、幕末の日本はかなり近代化していたのではないかということだ。海外の情報や科学技術に関する知識は、ペリー以前からかなり流入していたようだ。
 おそらく、近代化が一番進んでいたのは江戸である。封建制も怪しくなってきていたかもしれない。旗本や町人たちの気分はかなり奔放になり、あるいは怠惰になっていたかもしれない。幕府のタガが緩んできたとも言える。近代化とは言い切れなくても、封建制の崩壊は進んでいたのだ。

 薩摩も琉球が植民地だったので海外の文物はかなり流入していた。しかし、藩の体制がしっかりしていて、封建制は堅持されていたようだ。

 その意味で、鳥羽伏見に発する官軍の江戸攻撃は、官軍(=近代)vs 幕府(封建)の戦いではなく、官軍(封建 or 神がかりの前近代)vs 幕府(近代)の戦いだったようにも思えてくる。

 そんなことを考えたのは『人物日本の歴史』の「榎本武揚」と「福沢諭吉」を読んだのがきっかけだ。二人とも幕末維新史では脇役であり、さほどの関心はなかったのだが、今回の読書ではこの二人と「横井小楠」が最も刺激的で面白かった。

 函館戦争で五稜郭に立てこもった榎本武揚が投票で首脳を決めたのは有名な話だ。日本最初の共和国を作って投票で「大統領」になった榎本武揚と錦の御旗を掲げた官軍とでは、榎本の方が「近代」であることは自明だと思う。

 また、福沢諭吉が上野戦争のときに泰然と慶應義塾で講義を続けたのも有名な話だ。あのとき、福沢諭吉は官軍を「古風一点ばりの攘夷政府」と思い込み、「こんな乱暴者に国をわたせば、亡国は眼前に見える。情けないことだ」と考えていたらしい。洋学者・諭吉にとって、天皇という神がかり的なものを戴いて攘夷を唱える官軍は野蛮な田舎者、つまりは近代に逆行する者に見えていたのだ。

 官軍を「革新」、幕府を「反動」と見なすのは間違いではなかろうか。
 薩長による倒幕は、「封建」が「近代」を倒した後、あわてて「近代」を取りこんで自ら近代化して行ったようにも思える。

 それにしても、後年、福沢諭吉が榎本武揚を非難し、少なからず榎本の歴史的評価を下落させたのは、ユニークで醒めた両近代人にとっては残念なことだ。

◎凡庸な教訓 

 同時代人になったつもりで、幕末のキーパーソンたちの人生の追体験を試みると、次々に生起するさまざまな事象にそれなりに対処していくのが精一杯だったように思えてくる。最新の知見を豊富に身につけていたとしても、明日何が起こるかは分からない。ましてや、歴史がどう動いているのかも見えてこない。
 世の中は正しい理屈通りには動かず、人々の言動は時間とともに変わるし、同じ言説の評価が短時間で逆転することも珍しくない。嘘から真が出ることもある。何が起こるか予測できないから動乱の時代なのだ。
 
 自分では見えているつもりでも、後世にならなければ見えてこないことがたくさんある。歴史変動の時代の追体験を試みて、そんな凡庸な教訓を得た。

話題作『東京プリズン』に挟み撃ちされた気分2013年02月14日

『東京プリズン』(赤坂真理/河出書房新社)
 赤坂真理の『東京プリズン』(河出書房新社)を読んでみた。これまで、この著者の作品を読んだことはなかった。
 『東京プリズン』は昨年の話題作である。毎日出版文化賞や司馬遼太郎賞も受賞したそうだ。絶賛している書評もいくつか目にした。
 年を取ると未知の若い作家の小説を読むのが億劫になり、『東京プリズン』を書店で見かけても敬遠していたが、あまりに評判なのでついに手を伸ばした。

 天皇の戦争責任のからんだ骨太の思弁的な小説を想像していたが、意外に感性的な小説だった。母子関係と家族史が現代史にからんでくる様は、やはり昨年の話題作だった水村美苗の『母の遺産 新聞小説』を連想させる。世代が近いせいか、私にとっては水村美苗の方が読みやすい。手法は赤坂真理の方が面白い。

 主人公の人格が時空を超えていろいろ混じっていく手法には感心したが、現代史への挑戦という面では食い足りない。もう少し思弁的でもよかったと思う。

 赤坂真理は1964年生まれだから、1948年生まれの私より16歳若い。その作家の小説の中に三島由紀夫の『英霊の声』が登場するのには驚いた。
 
 戦死した英霊が天皇に対して「などてすめろぎは人間となりたまひし」と繰り返す『英霊の声』に私たち団塊世代はリアルタイムで接している(発表は1966年)。当時、三島由紀夫はスター作家であり、『英霊の声』は話題作だった。
 しかし、私はこの小説に大きな違和感をもった。異様なまでのアナクロニズムとリアリティのなさに驚いた。あまりにストレートな表現が、何か別の屈折したものの表出にも思えた。私にとっては世代的共感を誘うような小説ではなかった。私と同世代の当時の若者の多くも、私と似たような感想をいだいたのではなかろうか。
 ただし、あの頃の三島由紀夫の言動などから三島由紀夫が「天皇という観念」にこだわろうとしていることはわかった。それが三島由紀夫のわかりにくさの淵源でもあった。私(あるは私たち)は、天皇を欲してもいなければ、排除すべきだという思い込みもなく、天皇にさほどの関心がなかった。世界は、もっと別の重要で切実な課題にあふれていると考えていた。

 そして、三島由紀夫自決から40年以上が経過した21世紀初頭になって、私より年少の作家の小説に『英霊の声』が登場した。『東京プリズン』は三島由紀夫の天皇へのこだわりに呼応しているようにも見える。私たち団塊世代が、天皇へのこだわりという点で、年長世代と年少世代から挟み撃ちにあっている気分だ。

 私たち団塊世代(戦争を知らない戦後世代)は、天皇に無関心あるいは冷淡だと私は思う。理由はよくわからない。戦後教育のせいなのか、冷戦構造と高度成長の中で育ったせいなのか、あるいはマルクス主義が一定の影響力をもった文化の中で育ったせいなのかもしれない。いずれにしても、世界をとらえるのに天皇の必要性をあまり感じなかった。年長世代や年少世代に比べて、わが世代が能天気でハッピーだったとも言える。もちろん、私の個人的な偏見か妄想に過ぎないかもしれない。

 戦争体験を引きずらざるを得なかった三島由紀夫の世代が天皇にこだわるのは、わからなくもない。また、グローバル化に晒される中で赤坂真理の世代が、三島由紀夫に呼応して国家や天皇へのこだわりを抱きはじめているのもわかるような気がする。 
 この状況は、尊王攘夷という観念論に走った幕末の志士を連想する。歴史変動の胎動なのだろうか。『東京プリズン』を読んで、そんなことを考えた。

4カ月ぶりの山小屋2013年02月25日

 久しぶりに八ヶ岳の山小屋へ行ってきた。前回が10月下旬だから、4カ月もあいてしまった。笹子トンネル崩落事故のせいだ。12月に行く心積りだったが、昨年12月2日、大事故が発生した。この時期、畑仕事はなく、不要不急の人間が渋滞に拍車をかけるのは馬鹿らしいと思い、中央高速の上下線開通まで待つことにしたのだ。

 先週の金・土の一泊という慌ただしい往復だった。中央高速は空いていて快調に走れた。笹子トンネルを通過するときは、どうしても上部に視線が行く。上下線とも天井板がきれいに取り払われ、ぽっかりとした黒いむき出しのドームが延々と続く。やはり、地底は黄泉への道のようで気味が悪く、出口の明かりが見えてくるとホッとする。

 4カ月ぶりの山小屋行きで気がかりだったのはキツツキ被害だ。前回、前々回と続いて穴を開けられている。しかし、今回は異常がなかった。つり糸を張った効果があったのか、キツツキの気分が変わったのかはわからない。一安心である。

 八ヶ岳南麓はあまり積雪はないが、現地の友人からの電話で、今年は雪が多いと聞いていた。八ヶ岳に行くようになってから、冬季はスタッドレスタイヤに交換している。だが、これまでは雪に遭遇したことはなく、雪道運転の経験はなかった。ところが、今年1月14日、東京が大雪にみまわれた日に車を運転する必要があり、冠雪した甲州街道と環八を走った。大渋滞で往生はしたもののアップダウンの雪道でもスリップすることはなく、雪道運転初体験でスタッドレスタイヤの威力を知った。そんなささやかな体験が少しの自信になっていた。

 山小屋付近の道路に雪はなかったが凍結している箇所はあった。積雪は少なくても、気温はかなり低いのだ。雪が降らない日の方が寒いと聞いたことがある。薪ストーブを焚いても、狭い小屋の冷えきった空気が温まるまでにはかなりの時間を要した。

 畑にはまだ雪が残っていた。フワフワした雪ではなく凍った雪だ。昨年の秋に収穫して以来、支柱などがそのままになっているので、畑の整備をしておこうと思っていたのだが、雪靴もないので作業はやめた。何もせずに、薪ストーブの前でウトウトした時間を過ごすのはいいものだ。

 帰京日の午前、車に荷物を積み込もうとしていると、わが山小屋の敷地内で見知らぬ男性が何かをしている。水道の検針だった。それにしても、かなりの時間、ゴソゴソとやっていた。しばらくすると、その男性は私の所に来て「凍結のため、検針できませんでした」と言った。今月分は概算にして来月分で調整するそうだ。
 寒冷地の特殊事情をあらためて知った。