村上龍『歌うクジラ』にメタフィクションの匂い2011年01月10日

『歌うクジラ(上、下)』(村上龍/講談社/2010.10)
『歌うクジラ(上、下)』(村上龍/講談社/2010.10)

 村上龍の新作である。私は村上春樹よりは村上龍の方が好きなので、『1Q84』を読んで、『歌うクジラ』を読まないわけにもいかないだろうと思い(誰かに何か言われるわけではないが)、新年最初に本書を読んだ。

 未来の日本を舞台にした地獄めぐり的な物語である。世の中にアンチユートピアの未来世界を描いた小説は山ほどあり、新たにそのテの世界を描くにはそれなりの工夫がいる。本書が開示する未来世界は現代の日本を極端にデフォルメしたマジックミラーに写る世界のようだ。シュールリアリズムの絵画を見ているような気分になる。

 ストーリーの展開は意外と単純だが、ディティールの悪夢的イメージには惹きこまれる。そして、本書は言語や小説について語るメタフィクションになっているような気がした。

 主人公は「敬語つかい」である。文化経済効率化運動によって敬語が廃止された世界における特別な存在なのだ。この発想はユニークだ。
 また、移民の子孫たちは意図的に助詞を間違えた日本語を使う。例えば「もうすぐ海に見るよ」などだ。また、「ありがとう」ではなく「あがりと」と言う。
 本書は一人称小説で、会話の部分も地の文章に埋め込んでいて「」を使用していない。だから、助詞の狂った文章が地の文に頻発する。校閲の人も大変だったと思うが、読む方も楽ではない。
 このような記述を選んだ著者の意図は、テーマの深化とは別に、小説の言葉を破壊したいという衝動があったのではないかと勘繰りたくなる。

 この小説に登場する「作家」に「この日本で最初に理想社会が実現し、それによってわたしが創作することや表現することをやっと止めることができた」などと語らせているのも、小説とは何かを示唆しようとしているように思える。

 それにしても、なぜ「クジラ」なのだろうか。クジラという暗喩を好む作家は多い。大江健三郎に「鯨の死滅する日」というエッセイ集があり、安部公房に「死に急ぐ鯨たち」というエッセイ集がある。人は、哺乳類でありながら海に棲む鯨に人類の何かを投影したり、終末論の匂いを嗅ぐのかもしれない。『歌うクジラ』のクジラは「大いなる幻想」を暗喩しているようにも思える。よく分からないが。

 この小説には、地上から宇宙ステーションまでの「宇宙エレベーター」が登場する。私は宇宙エレベーターが好きだ。初めて宇宙エレベーター(軌道エレベーター)を知ったのは、40年以上前だ。高校生の時に読んだ小松左京の『果しなき流れの果に』に出てきた(『歌うクジラ』は『果しなき流れの果に』に似たところが少しだけある)。その後、『楽園の泉』(クラーク)、『星ぼしに架ける橋』(シェフィールド)などの宇宙エレベーターものを読んだ。
 一般に宇宙エレベーターは高軌道の静止ステーションと地上をつなぐものだが、本書の宇宙エレベーターは低軌道のステーションへ行くようになっている。ステーションから見る地球は90分ごとに夜明けを迎えるから、静止衛星ではない。いったい、どういう構造の宇宙エレベーターなのだろうかと、少し気になった。小説の質とはあまり関係ないことではあるが。