『凍土の悲劇:モンゴル吉村隊事件』は怖い本2025年07月21日

『凍土の悲劇:モンゴル吉村隊事件』(佐藤悠/朝日新聞社/1991.12)
 今月(2025年7月)天皇・皇后がモンゴルを公式訪問し、抑留中に死亡した日本人の慰霊碑に供花・黙禱した。

 ソ連の捕虜となってモンゴルの収容j所で死亡した日本人は約1700人である。シベリア抑留の死亡者約5万5千人に比べると少なく見えるが、死亡率はモンゴルの方がシベリアより高かった。いろいろな要因でモンゴルの方が悲惨で過酷だったのだ。

 先月読んだ小説『黒パン俘虜記』で、あの「暁に祈る事件」がモンゴルでの出来事だと知った。今回の慰霊を機に、メディアあのがあの事件を取り上げるかなと思っていたが、私が把握した範囲では、そんな記事は見あたらなかった。

 モンゴルの収容所の「吉村隊」では、労働ノルマを達成できなかった隊員に対して「吉村隊長」が、極寒の屋外に縛ったまま放置する制裁を課し、「暁に祈る」姿勢で凍死した者が多数出た、と報じられた事件である。引き揚げ後、一部の隊員が「吉村隊長」を告発(1949年)して裁判となり、懲役3年の刑が確定(1958年)した。

 私は子供の頃にこの事件の話を聞いたが詳細は知らない。ウィキペディアによれば、告発に対して吉村隊長こと池田重善が冤罪を主張し、やや複雑な様相になったようだ。ウィキペディアの記事を読んでも釈然としないので、34年前に出た次の本を古書で入手して読んだ。

 『凍土の悲劇:モンゴル吉村隊事件』(佐藤悠/朝日新聞社/1991.12)

 著者は朝日新聞編集委員。本書は1991年3月から5月まで朝日新聞夕刊に52回にわたって連載した記事をベースにしている。

 事件で告発された池田重善は憲兵曹長だった。捕虜になったとき、憲兵だったことを隠すために吉村という偽名を使ったため、吉村隊長と呼ばれた。新聞連載の2年前、池田重善は73歳で病死している。その死亡記事を読んだ著者が「待てよ」と思ったのが取材のきっかけである。死亡記事の要旨は以下の通りだ。

 (1) リンチで30人近い犠牲者を出したとう元隊員の証言が報道された。
 (2) 裁判で1人の隊員を死なせた遺棄致死罪などで懲役3年の刑が確定した。
 (3) 出所後の池田は手記『活字の私刑台』を出版するなどして無実を訴えた。

 犠牲者が30人なのか1人なのかゼロなのかは大きく違う。真実はどうなのか、との思いで著者は取材を始める。存命の関係者もすでに高齢になっている。

 1年以上にわたる取材によっても明解な結論は得られなかった。だが、ひとつの認識に達する。吉村隊長に問われるべき行為はまぎれもなくあり、確定判決の認定事実をかなり上回る「間接の」犠牲者が存在したと思える。そんな事態を招いた吉村隊長の行為は、極限状態の人間集団においていつでも起こり得るものだった――という認識である。

 著者は、30人近い犠牲者が出たという初期の報道は伝聞に基づいたものであり、確かな証拠はなかったとする。いま風に言えば、ファクトチェックに引っかかりそうだ。伝聞が拡散した根拠や状況も分析し、根も葉もない伝聞とは言えないと見なしている。

 無罪を主張する手記『活字の私刑台』の内容には虚偽が多いと指摘している。

 モンゴルにおもねる吉村隊長が隊員たちに過酷な作業ノルマを課したのは事実のようだ。吉村隊長は独裁者としてふるまい、隊員に対する処罰も実施していた。その処罰の内容や程度は明確になっていない。吉村隊で多数の死者が出たのは事実だが、死に至る要因は複合的である。吉村隊長に間接的な責任があったとしても、リンチ殺人と見なせるか否かは不明だ。

 本書を読み終えて、私も著者と同じように「息ぐるしく」なった。極限状態で人間の多くは自分の生存を最優先とし、非人間的になり勝ちだ。そんな体験をして生き残って帰国した人々にとって、非人間的だった自身を振り返りたくはないないだろう。生存者のなかには、著者との面会を拒む元隊員もかないいたそうだ。極限状況における人間の怖さを再認識させられる本である。