大黒屋光太夫の歴史小説を読んで「鎖国」について考えた ― 2017年06月23日
◎エカチェリーナ宮殿で江戸時代を思った
今月上旬のロシア観光旅行から帰国後、大黒屋光太夫を扱った次の歴史小説2編を続けて読んだ。
『おろしや国酔夢譚』(井上靖/文春文庫)
『大黒屋光太夫』(吉村昭/新潮文庫)
サンクトペテルブルグ近郊のエカチェリーナ宮殿の絢爛豪華な内部を見学しているとき、日本語ガイドのロシア人女性が次のような解説をした。
「この広間は日本にも関連があります。エカチェリーナ2世はここで大黒屋光太夫を謁見しました。大黒屋光太夫は『おろしや国酔夢譚』という映画にもなっています。この映画はロシアのテレビで放映されたこともあります」
江戸時代にロシアに漂着した船頭を題材に井上靖が『おろしや国酔夢譚』という小説に書いているとは知っていたが、未読の小説なので詳細は知らなかった。エカチェリーナ2世が奔放な啓蒙女帝で興味深い人物だとの断片的知識と関心はあったが、その女帝が漂着した日本人を謁見したとは知らなかった。その謁見から二百数十年後の現場に立ち、大黒屋光太夫という人物が身近に感じられ、帰国したら『おろしや国酔夢譚』を読もうと思った。
◎大黒屋光太夫の波乱万丈と帰国後の苦さ
そんなわけで『おろしや国酔夢譚』を読んだ。この本の扉には大黒屋光太夫の足取りを描いた地図が載っている。これを眺めるだけでも、茫漠たる気分になる。
1782年に伊勢から江戸に向けて出航した大黒屋光太夫ら17人は暴風のためアリューシャン列島の小島に漂着する。その後、ロシア本土の東岸へ移動し、その間に約半数が絶命する。そしてシベリアを西へ西へと移動しイルクーツクへ至る。船頭の大黒屋光太夫は皇帝に帰国を嘆願するため、さらに西のペテルブルグにまで赴き、ようやく帰国許可を得て、来た道を東へと引き返し、東端のオホーツク港からラクスマンの船で帰国する。出航から約10年が経過しており帰国できたのは3人、その内の一人は根室で絶命する。函館で幕府に引き渡され江戸に帰還したのは大黒屋光太夫と磯吉の2人だけだった。この10年の足跡の地図は日本とヨーロッパを往復する広大な地図だ。
その足跡をたどった『おろしや国酔夢譚』を興味深く読み進めることができた。特にペテルブルグにたどり着くまでの艱難辛苦が圧巻だ。そして、帰国後は江戸にとどめ置かれ軟禁状態になる最終章の苦さが印象深い。帰国したいという切望がかなった後、自分たちは見てはならないものを見てきてしまったので幽閉されざるを得ないという感覚にとらわれる。望郷の切望がかなった後の現実への覚醒と酔夢譚のおりなす綾である。
◎井上靖から37年後の吉村昭の『大黒屋光太夫』
『おろしや国酔夢譚』をネットで注文するとき、同じ題材を扱った吉村昭の『大黒屋光太夫』という小説の存在を知った。『おろしや国酔夢譚』を読了し、大黒屋光太夫に関する物語の概要はわかった気分になったが、同じ人物を吉村昭はどう料理しているか興味がわき『大黒屋光太夫』も読んだ。
同じ題材ではあるが、井上靖版がやや史談風なのに対し吉村昭版はやや物語風で、水主の磯吉や庄蔵などの造形はかなり異なっている。そして、帰国後の描写が大きく異なる。
井上靖の『おろしや国酔夢譚』の刊行は1966年、吉村昭の『大黒屋光太夫』の刊行は2003年で、37年の隔たりがあり、吉村昭の方がより豊富な史料を活用しているようだ。新潮文庫版『大黒屋光太夫』に収録されている著者の「文庫版あとがき」や川西政明氏の解説を読むとその辺の事情がわかる。
1966年頃には大黒屋光太夫が江戸で幽閉状態にあったというのが定説だったが、その後の史料研究でそれは否定されているらしい。大黒屋光太夫や磯吉は故郷への一時帰還も許され、かなり自由にすごしていたそうだ。江戸に居住させられたのは、いつ来航するかわからないロシアへの備えの一環だったらしい。『おろしや国酔夢譚』の印象深いあの最終章の苦さは、史実とは少し異なっているようだ。
とは言え、大黒屋光太夫や磯吉が異国で過ごした日々を酔夢のように感じ、故国で過ごす現実の日々に時として違和感をもったであろうとは推測できる。
◎「鎖国」とはどういう現実だったのか
『おろしや国酔夢譚』と『大黒屋光太夫』を読んで、あらためて「鎖国」とは何であったかを検討してみたくなった。「鎖国」とは幕末になって外国からの圧力をかわすための方便として使われた言葉であって、江戸時代の日本は事実上は鎖国していなかったという新説を聞いたことがある。井上靖版と吉村昭版でも鎖国に関する扱いが微妙に違っているように思える。だが、大黒屋光太夫の前には厳然と「鎖国」という現実が存在しているようにも見える。江戸時代の役人、学者、商人、庶民たちが鎖国や海外をどうとらえていたのか興味深い。
今月上旬のロシア観光旅行から帰国後、大黒屋光太夫を扱った次の歴史小説2編を続けて読んだ。
『おろしや国酔夢譚』(井上靖/文春文庫)
『大黒屋光太夫』(吉村昭/新潮文庫)
サンクトペテルブルグ近郊のエカチェリーナ宮殿の絢爛豪華な内部を見学しているとき、日本語ガイドのロシア人女性が次のような解説をした。
「この広間は日本にも関連があります。エカチェリーナ2世はここで大黒屋光太夫を謁見しました。大黒屋光太夫は『おろしや国酔夢譚』という映画にもなっています。この映画はロシアのテレビで放映されたこともあります」
江戸時代にロシアに漂着した船頭を題材に井上靖が『おろしや国酔夢譚』という小説に書いているとは知っていたが、未読の小説なので詳細は知らなかった。エカチェリーナ2世が奔放な啓蒙女帝で興味深い人物だとの断片的知識と関心はあったが、その女帝が漂着した日本人を謁見したとは知らなかった。その謁見から二百数十年後の現場に立ち、大黒屋光太夫という人物が身近に感じられ、帰国したら『おろしや国酔夢譚』を読もうと思った。
◎大黒屋光太夫の波乱万丈と帰国後の苦さ
そんなわけで『おろしや国酔夢譚』を読んだ。この本の扉には大黒屋光太夫の足取りを描いた地図が載っている。これを眺めるだけでも、茫漠たる気分になる。
1782年に伊勢から江戸に向けて出航した大黒屋光太夫ら17人は暴風のためアリューシャン列島の小島に漂着する。その後、ロシア本土の東岸へ移動し、その間に約半数が絶命する。そしてシベリアを西へ西へと移動しイルクーツクへ至る。船頭の大黒屋光太夫は皇帝に帰国を嘆願するため、さらに西のペテルブルグにまで赴き、ようやく帰国許可を得て、来た道を東へと引き返し、東端のオホーツク港からラクスマンの船で帰国する。出航から約10年が経過しており帰国できたのは3人、その内の一人は根室で絶命する。函館で幕府に引き渡され江戸に帰還したのは大黒屋光太夫と磯吉の2人だけだった。この10年の足跡の地図は日本とヨーロッパを往復する広大な地図だ。
その足跡をたどった『おろしや国酔夢譚』を興味深く読み進めることができた。特にペテルブルグにたどり着くまでの艱難辛苦が圧巻だ。そして、帰国後は江戸にとどめ置かれ軟禁状態になる最終章の苦さが印象深い。帰国したいという切望がかなった後、自分たちは見てはならないものを見てきてしまったので幽閉されざるを得ないという感覚にとらわれる。望郷の切望がかなった後の現実への覚醒と酔夢譚のおりなす綾である。
◎井上靖から37年後の吉村昭の『大黒屋光太夫』
『おろしや国酔夢譚』をネットで注文するとき、同じ題材を扱った吉村昭の『大黒屋光太夫』という小説の存在を知った。『おろしや国酔夢譚』を読了し、大黒屋光太夫に関する物語の概要はわかった気分になったが、同じ人物を吉村昭はどう料理しているか興味がわき『大黒屋光太夫』も読んだ。
同じ題材ではあるが、井上靖版がやや史談風なのに対し吉村昭版はやや物語風で、水主の磯吉や庄蔵などの造形はかなり異なっている。そして、帰国後の描写が大きく異なる。
井上靖の『おろしや国酔夢譚』の刊行は1966年、吉村昭の『大黒屋光太夫』の刊行は2003年で、37年の隔たりがあり、吉村昭の方がより豊富な史料を活用しているようだ。新潮文庫版『大黒屋光太夫』に収録されている著者の「文庫版あとがき」や川西政明氏の解説を読むとその辺の事情がわかる。
1966年頃には大黒屋光太夫が江戸で幽閉状態にあったというのが定説だったが、その後の史料研究でそれは否定されているらしい。大黒屋光太夫や磯吉は故郷への一時帰還も許され、かなり自由にすごしていたそうだ。江戸に居住させられたのは、いつ来航するかわからないロシアへの備えの一環だったらしい。『おろしや国酔夢譚』の印象深いあの最終章の苦さは、史実とは少し異なっているようだ。
とは言え、大黒屋光太夫や磯吉が異国で過ごした日々を酔夢のように感じ、故国で過ごす現実の日々に時として違和感をもったであろうとは推測できる。
◎「鎖国」とはどういう現実だったのか
『おろしや国酔夢譚』と『大黒屋光太夫』を読んで、あらためて「鎖国」とは何であったかを検討してみたくなった。「鎖国」とは幕末になって外国からの圧力をかわすための方便として使われた言葉であって、江戸時代の日本は事実上は鎖国していなかったという新説を聞いたことがある。井上靖版と吉村昭版でも鎖国に関する扱いが微妙に違っているように思える。だが、大黒屋光太夫の前には厳然と「鎖国」という現実が存在しているようにも見える。江戸時代の役人、学者、商人、庶民たちが鎖国や海外をどうとらえていたのか興味深い。
最近のコメント