『世界名作の旅』全4巻で1960年代を懐かしんだ2011年01月18日

 本棚の奥に眠っていた『世界名作の旅(朝日新聞社編)』全4巻を引っ張り出して読んだ。30年ほど前に古書で購入し、そのままほったらかしていたのを発掘したわけだ。
 
 この本は、1964年11月から朝日新聞の日曜版に連載された文学紀行をまとめたものだ。朝日新聞の記者が世界名作の舞台を訪問する連載だった。全部で76編だから、2年近い連載だったようだ。

 47年前の1964年11月、私は高校1年生だった。『世界名作の旅』の連載開始は記憶している。第1回はカミユの『異邦人』(筆者は森本哲郎)だった。私は朝日新聞日曜版のこの記事ではじめて『異邦人』を知った。作品を読んだのは、それから少し経ってからだ。

 当時は1ドル360円の固定相場制で、海外旅行は高値の花だった。高校生たちは小田実の『何でも見てやろう』やミッキー安川の『ふうらい坊留学記』を読んだり、兼高かおるのテレビ番組『世界の旅』などを観たりして、海外への夢をふくらませていた。そんな時代だったから、海外の見知らぬ町や村から届けられる『世界名作の旅』の連載を、一種の憧れの気分で読んでいたように思う。

 とは言っても、連載第1回の『異邦人』の印象は強かったが、その後の回の内容についてはほとんど記憶が失われている。毎回読んだのかどうかも定かではない。
 今回、書籍の形で『世界名作の旅』の旅を通読していて、「この文章を読んだことあるな」と思った所が2か所だけあった。
 
 一つは『罪と罰』(筆者は疋田桂一郎)の回にあった。『罪と罰』の舞台はドストエフスキイの時代も、そして現在もペテルブルグだが、連載当時、この都市はレニングラードだった。レニングラードを訪れた筆者は、ラスコリニコフの下宿から金貸し老婆の家までの歩数にこだわり、自分の足で何度も歩数を数えている。この歩数を数える箇所に遭遇して、昔、この記事を読んで、何でこんな些末なことにこだわるのだろうと感じたことを思い出した。

 もう一つは『フランクリン自伝』(筆者は深代惇郎)の回にあった。フィラデルフィアの科学博物館にあるフランクリンの銅像が夜になるといなくなり、飲み屋でいっぱいやっているというウワサ話の紹介だ。このエピソードは印象深くて、今でも記憶している。本書を読んでいて、あのエピソードはこの記事で仕入れていたのかと懐かしく感じた。

 50年近く前に読んだであろう76編の紀行文の中で、記憶が甦ってきたのはこの2か所だ。たった2か所と考えるよりは、憶えていた箇所があったことに驚くべきかもしれない。それにしても、人間の記憶に残るのは、その文章の本質の部分ではなく、些末なちょっとした部分になることの方が多いように思われる。記憶のメカニズムの不思議である。

 『世界名作の旅』で取り上げられた名作76編のうち、私が読んでいるのは半分程度だ。作品を読んでいなくても、名文記者たちのちょっと気取った紀行文のあれこれを楽しむことができた。海外に憧れていた高校生時代の気分も少し甦ってきた。

 本書を通読してあらためて感じたのは、1960年代という時代性だ。当時はベトナム戦争の時代だった。連載開始の1964年11月には開高健が戦火のベトナムへ飛んでいる。『週刊朝日』にルポを連載するためだ。「なんで(新聞記者の)森本哲郎がブンガクをやり、(作家の)開高健がベトナムに行くのだ」という話をどこかで読んだ記憶もある。
 『世界名作の旅』でベトナムに行った記者はいない。ベトナムを舞台にした世界名作がないからだろう。しかし、連載記事のところどころにベトナムの影が出てくる。
 前述の『フランクリン自伝』の中でも、ジェファーソンが現代のアメリカに来たら「大学教授になって、ベトナムに関する進歩的論文を発表しているかも知れない」という記述があった。

 『世界名作の旅』の連載後期の1966年4月には中国で文化大革命が始まっている。1966年3月27日は屈原の『離騒』で、戯曲『屈原』を書いた郭沫若にも言及されている。その郭沫若は、この記事の直後に「自分の過去の作品はすべて焼きたい」と自己批判している(させられている)。絶妙なタイミングだ。
 また、老舎の『駱駝祥子』の回では筆者(林田重五郎)が老舎にインタビューをしている。その後、老舎は文化大革命の犠牲となり文革初期の1966年に自殺している。そんな時代だったのだ。

 『世界名作の旅』には、老舎以外にも作者自身にインタビューしている回がある。『悲しみよ こんにちは』のサガンだ。その時のサガンは何と30歳、若い。と言っても、当時すでにデビュー12年目の「世界名作」作家だったのだ。

 『世界名作の旅』は面白くて魅力的な企画だったが、現代においてこのような企画は成り立たないと思う。それには二つの理由がある。
 一つは「世界名作」という概念が消滅しかかっているからだ。もう一つは、海外旅行が一般化した現代の日本では、海外の見知らぬ土地を夢見る「旅への憧れ」が失われつつあるからだ。

 1960年代には何種類もの「世界文学全集」が刊行されていて、自ずと「世界名作」リストのようなものが広く共有されていた。しかし、その後「世界文学全集」は姿を消してしまった。そして、「誰もが読むべき世界名作」という概念は、現代の若い人々には受け継がれてなさそうに思える。
 数年前に『カラマーゾフの兄弟』が売れたことがあったから、世界の大文学への需要はあるはずだ。ただし、それらを教養主義的・権威主義的に羅列して消費するという風潮はよみがえりそうにない。
 実は、現在も刊行中の「世界文学全集」が一つある。河出書房新社の『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集』(30巻)だ。これは、世界文学全集の新しい形かもしれない。「万人が認める」名作ではなく、「池澤夏樹氏が選んだ」名作という形だから、全集自体がひとつの作品になっている。
 『世界名作の旅』の76の世界名作の中で、『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集』に収録されている作品が一つだけあった。『悲しみよ こんにちは』だ。やはり、名作だったのだろう。あの頃30歳だったサガンはすでに物故作家だ。