星野芳郎氏逝去 ― 2007年11月13日
この年(58歳)になると、世の中の著名人がすでに物故者なのか存命なのか、よく分からなくなってくる。本日、ふと、星野芳郎って存命かなと気になり、インターネットを検索してみると、「毎日JP」の訃報が出てきた。5日前の11月8日に逝去されたそうだ。享年85歳。
http://mainichi.jp/select/person/archive/news/2007/11/10/20071110ddm041060117000c.html
学生時代に一度だけ講演を聴いたことがあり、その後、いくつか著作を読んだが、何年も想起しなかった名前が本日になって頭に浮かんだ理由はよく分からない。私は霊などは信じていないし、もちろん、虫の知らせを受けるような縁もない。
それにしても、朝日新聞にも日経新聞にも星野さんの訃報は載っていなかった。大昔の講演で星野さんは「新聞は、日経だけ読んでいれば日本の資本主義の動向は分かる。朝日なんて読む必要がない」と左翼的立場から言っていたと記憶しているが、その日経にも無視されたわけだ。
訃報を載せた毎日にしても、業績紹介は、1961年のカッパブックス『マイ・カー』がベストセラーになったことだけ。マスメディア的には、その程度の扱いの人だったんだなあと、ちょっと淋しい気がした。
昔は、「武谷科学論」「星野技術論」なんて威勢のいい時期もあった。宇井純という名を初めて知ったのは、星野さんがまとめた『日本の技術者』(1969.12)という本だった。よくは分からないが、理論も現場も好きな面白い人だったように思える。
http://mainichi.jp/select/person/archive/news/2007/11/10/20071110ddm041060117000c.html
学生時代に一度だけ講演を聴いたことがあり、その後、いくつか著作を読んだが、何年も想起しなかった名前が本日になって頭に浮かんだ理由はよく分からない。私は霊などは信じていないし、もちろん、虫の知らせを受けるような縁もない。
それにしても、朝日新聞にも日経新聞にも星野さんの訃報は載っていなかった。大昔の講演で星野さんは「新聞は、日経だけ読んでいれば日本の資本主義の動向は分かる。朝日なんて読む必要がない」と左翼的立場から言っていたと記憶しているが、その日経にも無視されたわけだ。
訃報を載せた毎日にしても、業績紹介は、1961年のカッパブックス『マイ・カー』がベストセラーになったことだけ。マスメディア的には、その程度の扱いの人だったんだなあと、ちょっと淋しい気がした。
昔は、「武谷科学論」「星野技術論」なんて威勢のいい時期もあった。宇井純という名を初めて知ったのは、星野さんがまとめた『日本の技術者』(1969.12)という本だった。よくは分からないが、理論も現場も好きな面白い人だったように思える。
三島由紀夫の「薔薇と海賊」は自決予告 ― 2007年11月15日
三島由紀夫の芝居「薔薇と海賊」を紀伊国屋ホールで見た。このホールに入るのは20年ぶりぐらいか。昔よく来た場所で、しゃれたホールだという印象があった。現在の目で見ると、椅子もやや粗末で、全体に色褪せて見える。年を経るとは、そういうことか。芝居の印象も、この感覚に重なる。
主演・演出は村松英子(オリジナル演出・三島由紀夫)。村松英子の舞台を見たことがなかったので、失礼ながらご存命中に見ておこうという気になった。チラシの写真はずいぶん若いが、おそらく60代後半の筈。怖いもの見たさという気持もあった。しかし、村松英子は声もよく通り、立派な芝居で、舞台女優の貫禄があった。
ヒロイン役の村松英子はよかったが、ヒーロー役の白痴の青年(帆之亟)がモノ足りなかった。これは、役者にとって演じにくい役だと思うが、このヒーローに説得力がないと、芝居の世界への「引き込まれ感」が生じない。
「薔薇と海賊」を見終えた時の最初の感想は、「引き込まれ感」不足のモノ足りなさと、多少の違和感だった。しかし、よく反芻してみると、これはいま一歩で傑作になる芝居なのだと気付いた。
芝居の構造は巧みである。簡略化すれば、以下のような話だ。
女主人公(楓阿里子)は売れっ子の童話作家。住居や庭は、自分の童話世界仕立てにし、娘(千恵子)には童話の登場人物の扮装までさせている。しかし、本当に童話の世界に生きているのか、演じているだけなのかは不明。
そこへ、童話の世界を信じ込んでいる白痴の青年(帝一)が現れる。やがて、その青年に引きずられて、阿里子は青年と共に童話の世界に出航する。その時、「僕たちは夢を見ているんじゃないだろうね」という帝一の問いかけに対して、阿里子は「私は決して夢なんぞ見たことはありません」ときっぱり言いはなち、緞帳がストンと落ちて幕となる。
この幕切れはいい。芝居は芝居じみていなければ芝居ではない。
そして、この芝居の構造はそっくりそのまま三島由紀夫の自決の構造につながってくる。
「薔薇と海賊」の初演は1958年だが、三島の強い希望によって自決の直前に再演されたそうだ(1970年10月~11月)。自決を決意した三島は、この芝居の世界に同化していったのだろうか。
この構造で、盛り付けをもっと工夫すれば、とても面白くなるような気がする。
私がこの芝居に感じた違和感は、薔薇・海賊というメタファや、性的世界の三島的こだわり、やや冗長で説明的すぎる科白などだ。
主演・演出は村松英子(オリジナル演出・三島由紀夫)。村松英子の舞台を見たことがなかったので、失礼ながらご存命中に見ておこうという気になった。チラシの写真はずいぶん若いが、おそらく60代後半の筈。怖いもの見たさという気持もあった。しかし、村松英子は声もよく通り、立派な芝居で、舞台女優の貫禄があった。
ヒロイン役の村松英子はよかったが、ヒーロー役の白痴の青年(帆之亟)がモノ足りなかった。これは、役者にとって演じにくい役だと思うが、このヒーローに説得力がないと、芝居の世界への「引き込まれ感」が生じない。
「薔薇と海賊」を見終えた時の最初の感想は、「引き込まれ感」不足のモノ足りなさと、多少の違和感だった。しかし、よく反芻してみると、これはいま一歩で傑作になる芝居なのだと気付いた。
芝居の構造は巧みである。簡略化すれば、以下のような話だ。
女主人公(楓阿里子)は売れっ子の童話作家。住居や庭は、自分の童話世界仕立てにし、娘(千恵子)には童話の登場人物の扮装までさせている。しかし、本当に童話の世界に生きているのか、演じているだけなのかは不明。
そこへ、童話の世界を信じ込んでいる白痴の青年(帝一)が現れる。やがて、その青年に引きずられて、阿里子は青年と共に童話の世界に出航する。その時、「僕たちは夢を見ているんじゃないだろうね」という帝一の問いかけに対して、阿里子は「私は決して夢なんぞ見たことはありません」ときっぱり言いはなち、緞帳がストンと落ちて幕となる。
この幕切れはいい。芝居は芝居じみていなければ芝居ではない。
そして、この芝居の構造はそっくりそのまま三島由紀夫の自決の構造につながってくる。
「薔薇と海賊」の初演は1958年だが、三島の強い希望によって自決の直前に再演されたそうだ(1970年10月~11月)。自決を決意した三島は、この芝居の世界に同化していったのだろうか。
この構造で、盛り付けをもっと工夫すれば、とても面白くなるような気がする。
私がこの芝居に感じた違和感は、薔薇・海賊というメタファや、性的世界の三島的こだわり、やや冗長で説明的すぎる科白などだ。
「ボーン・アルティメイタム」--- 緩慢な記憶喪失 ― 2007年11月20日
テレビ放映された「ボーン・スプレマシー」を見たのが引き金で、映画館で続編「ボーン・アルティメイタム」を見た。シリーズ3作目だそうだ。1作目の「ボーン・アイデンティティ」は見ていないが、2作目で1作目の概要は分かる。
「アルティメイタム」はテンポのいいノンストップ・ハラハラ・ドキドキで観客を飽きさせない。舞台もモスクワから始まり、トリノ、パリ、ロンドン、マドリード、タンジール(モロッコ)、ニューヨークと目まぐるしく変わり、世界観光も楽しめる。面白い映画だ。
このシリーズ、記憶喪失の元CIAが、わけも分からずCIAなどに追いまわされながら記憶回復を求めていく話である。2作目、3作目を見た後、この話はどこかで読んだことがあるような気がしたが、このテのストーリーはよくあるパターンだと、あまり気に留めなかった。
で、ネットを検索をしていて、この映画の原作がラドラムの「暗殺者」「殺戮のオデッセイ」だと知った。昔、夢中になって読んだ印象深いアクション小説だったにもかかわらず失念していた。映画を見ても気付かず、その後に得た情報によって記憶が甦ってきて、小説の印象と映画の印象が重なった。本棚の奥から「暗殺者」を探し出してきてパラパラとめくってみると、主人公の名もボーンだった。この体験、まさにこのお話の主人公の体験に重なるではないか。
私たちは、ボーンのような特異な体験をしなくても常に緩慢な記憶喪失に見舞われている。年を経ると、それがよく分かってくる。昔のメモや日記に出てくる個人名が誰なのかさっぱり思い出せないことや、記憶と事実の食い違いに驚くこともよくある。
記憶とはそいういうものだと割り切って、記憶喪失を遡る〈日常生活の冒険〉に出発できると考えれば、ボーンのようなノンストップ・アクションはないとしても、人生が楽しくなるかもしれない。
私は、このシリーズ第1作「ボーン・アイデンティティ」を見ていないが、本当は見ていて、忘れているだけかもしれない・・・・そんな気もしてきた。それくらい記憶は頼りにならない。
「アルティメイタム」はテンポのいいノンストップ・ハラハラ・ドキドキで観客を飽きさせない。舞台もモスクワから始まり、トリノ、パリ、ロンドン、マドリード、タンジール(モロッコ)、ニューヨークと目まぐるしく変わり、世界観光も楽しめる。面白い映画だ。
このシリーズ、記憶喪失の元CIAが、わけも分からずCIAなどに追いまわされながら記憶回復を求めていく話である。2作目、3作目を見た後、この話はどこかで読んだことがあるような気がしたが、このテのストーリーはよくあるパターンだと、あまり気に留めなかった。
で、ネットを検索をしていて、この映画の原作がラドラムの「暗殺者」「殺戮のオデッセイ」だと知った。昔、夢中になって読んだ印象深いアクション小説だったにもかかわらず失念していた。映画を見ても気付かず、その後に得た情報によって記憶が甦ってきて、小説の印象と映画の印象が重なった。本棚の奥から「暗殺者」を探し出してきてパラパラとめくってみると、主人公の名もボーンだった。この体験、まさにこのお話の主人公の体験に重なるではないか。
私たちは、ボーンのような特異な体験をしなくても常に緩慢な記憶喪失に見舞われている。年を経ると、それがよく分かってくる。昔のメモや日記に出てくる個人名が誰なのかさっぱり思い出せないことや、記憶と事実の食い違いに驚くこともよくある。
記憶とはそいういうものだと割り切って、記憶喪失を遡る〈日常生活の冒険〉に出発できると考えれば、ボーンのようなノンストップ・アクションはないとしても、人生が楽しくなるかもしれない。
私は、このシリーズ第1作「ボーン・アイデンティティ」を見ていないが、本当は見ていて、忘れているだけかもしれない・・・・そんな気もしてきた。それくらい記憶は頼りにならない。
気象予測と経済予測 ― 2007年11月26日
いつ頃から、地球が温暖化していると言われ始めたのだろうか。ひと昔前は、地球が寒冷化するという議論も多かったように思う。現在、学者の多くが「温暖化している」と述べているが、専門家の多数意見は「よくわからない」ではないか、という気がする。
「温暖化」と言っても、数万年単位、数千年単位、数百年単位、数十年単位の話を区別しないと混乱する。近年の温暖化説の根拠は、観測データに基づいたシミュレーションによるものらしい。
私はシミュレーションは好きだが、シミュレーションによる予測はあまり信用しない。思考(試行)実験としてのシミュレーションは面白いが、それで未来予測ができるとは思えない。短期的な気象は、ある程度の確率で予測できても、地球温暖化のような長期的な予測は難しいはずだ。
経済の世界においても、数理経済学、計量経済学、金融工学などに基づいたシミュレーションによる経済予測が成されているようだが、予測的中の方法が開発されているわけではない。ノーベル賞受賞の学者も市場では失敗している。
シミュレーションによる予測とは、モデルによる予測であり、そのモデルをどう作るかで結果はいかようにもなる。あらかじめ決めておいた結果を出すためのモデルを作るのは簡単だろうが、一回性の現実を予測できるモデルを作るのは、とてつもなく難しいと思われる。
気象予測と経済予測のどちらが難しいのだろうか。自然現象も人間の行動も、それを決定する要素が山ほどある。マクロに見れば人間も自然の一部だ。経済予測はできないが、気象予測はできる、なんてことはありそうにないと思わざるを得ない。
だから、地球が温暖化していくかどうかは、よくわからないのだと思う。
「温暖化」と言っても、数万年単位、数千年単位、数百年単位、数十年単位の話を区別しないと混乱する。近年の温暖化説の根拠は、観測データに基づいたシミュレーションによるものらしい。
私はシミュレーションは好きだが、シミュレーションによる予測はあまり信用しない。思考(試行)実験としてのシミュレーションは面白いが、それで未来予測ができるとは思えない。短期的な気象は、ある程度の確率で予測できても、地球温暖化のような長期的な予測は難しいはずだ。
経済の世界においても、数理経済学、計量経済学、金融工学などに基づいたシミュレーションによる経済予測が成されているようだが、予測的中の方法が開発されているわけではない。ノーベル賞受賞の学者も市場では失敗している。
シミュレーションによる予測とは、モデルによる予測であり、そのモデルをどう作るかで結果はいかようにもなる。あらかじめ決めておいた結果を出すためのモデルを作るのは簡単だろうが、一回性の現実を予測できるモデルを作るのは、とてつもなく難しいと思われる。
気象予測と経済予測のどちらが難しいのだろうか。自然現象も人間の行動も、それを決定する要素が山ほどある。マクロに見れば人間も自然の一部だ。経済予測はできないが、気象予測はできる、なんてことはありそうにないと思わざるを得ない。
だから、地球が温暖化していくかどうかは、よくわからないのだと思う。
星新一没後十年 ― 2007年11月28日
星新一さんが亡くなって十年だそうだ。訃報を見たのはつい先日のような気がする。年を取ると体感時間が速くなる。
書店の店頭に「星新一 空想工房へようこそ」というムック風の本が積まれていたので買った。最相葉月・監修となっている。今年4月に読んだ最相葉月「星新一 一〇〇一話をつくった人」は面白かった。
最相さんの星新一評伝が面白いのは、日本SF史的な側面があり、私の青少年期との読書体験と重なる部分が多かったからだ。私が星新一をリアルタイムで読んでいたのは1969年頃まで(「人民は弱し官吏は強し」あたりまで)だった。あらためて振り返ってみると、その頃までが星さんの最盛期で、その後は長い「長老生活」に入ってしまったようだ。長老になってからもいい作品をいくつも書いているが、それらはやはり「長老的作品」のように思える。
40代初めにして「長老」になってしまうのは「悲劇」とは言えないまでも、立場へのとまどいのようなものはあったかもしれない。作家に限らず、一仕事終えたあとの人生の過ごし方は古くて新しい課題だ。お手本はいくらでもあるのだが・・・。
最相さんの評伝の中で少し驚いたのは、星新一と安部公房がライバルだったという見方だ。私にとっては二人とも愛読した作家だが、ライバル関係という視点で見たことがないので意外だった。
初期作品の時代に荒正人が二人を比較して論じたことがあるそうだが、よく考えてみると共通点もありそうだ。晩年の雰囲気も似ているように思えてくる。
書店の店頭に「星新一 空想工房へようこそ」というムック風の本が積まれていたので買った。最相葉月・監修となっている。今年4月に読んだ最相葉月「星新一 一〇〇一話をつくった人」は面白かった。
最相さんの星新一評伝が面白いのは、日本SF史的な側面があり、私の青少年期との読書体験と重なる部分が多かったからだ。私が星新一をリアルタイムで読んでいたのは1969年頃まで(「人民は弱し官吏は強し」あたりまで)だった。あらためて振り返ってみると、その頃までが星さんの最盛期で、その後は長い「長老生活」に入ってしまったようだ。長老になってからもいい作品をいくつも書いているが、それらはやはり「長老的作品」のように思える。
40代初めにして「長老」になってしまうのは「悲劇」とは言えないまでも、立場へのとまどいのようなものはあったかもしれない。作家に限らず、一仕事終えたあとの人生の過ごし方は古くて新しい課題だ。お手本はいくらでもあるのだが・・・。
最相さんの評伝の中で少し驚いたのは、星新一と安部公房がライバルだったという見方だ。私にとっては二人とも愛読した作家だが、ライバル関係という視点で見たことがないので意外だった。
初期作品の時代に荒正人が二人を比較して論じたことがあるそうだが、よく考えてみると共通点もありそうだ。晩年の雰囲気も似ているように思えてくる。
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