『北里柴三郎』(上山明博)は官尊民卑の権威主義との攻防譚 ― 2025年01月26日
昨年、北里柴三郎の伝記を2冊読んだ。『北里柴三郎:雷と呼ばれた男』(山崎光男)と『奏鳴曲 北里と鷗外』(海堂尊)である。この人物の概略がわかり、それで満足していたが、次の伝記があると知り、読んでみたくなった。
『北里柴三郎:感染症と闘いつづけた男』(上山明博/青土社/2021.9)
北里の生涯のあらましは記憶に残っているので、それを追体験する気分で、かなりスラスラと読了できた。山崎氏や海堂氏の著作が想像力を加味した物語仕立てなのに対して、本書は北里の研究業績紹介をベースにしたノンフクションである。同時代の文書(記事や書簡など)の紹介が多い。エピソードや私生活に関する記述は少ない。
資料に基づいた坦々とした記述にもかかわらず、起伏に富んだ北里の生涯の面白さが伝わってきてくる。北里という人物の魅力がくっきりと浮かび上がってくる伝記だ。
雑駁にまとめれば、北里の伝記は、男の嫉妬に駆られた東京帝大医学部教授(青山胤通など)や陸軍軍医総監森林太郎(鷗外)らとの攻防譚である。その背景には、卓越した細菌学者北里の成功物語と、当然に受賞するべきだった第1回ノーベル生理医学賞を逸した無念な逸話がある。無念と思うのは後世の我々であり、北里自身はさほど気にしていなかったかもしれない。
本書で印象深いのはドイツ留学を終えた北里が帰国する場面である。次のように記述している。
「おそらく北里は横浜港に着岸し、六年半ぶりに日本の土を踏む際、大勢の市民の歓迎を受けると想定したと思われる。しかし、北里の予想に反して横浜港には出迎えてくれる市民の姿はなく、インタビューを申し込む記者もいなかった。」
北里はドイツ留学中に破傷風菌の純粋培養や血清療法を開発で名声を上げた世界的研究者だった。欧米の大学から破格の待遇での招聘を受けていたが、国費留学生だったためそれらの招聘を断り、祖国に貢献すべく帰国する。
著者は帰国当時の新聞や雑誌を調べたそうだ。世界的に名声を得た細菌学者の帰国を報じる記事はなかった。当時、東京帝大医学部の教授たちが北里と対立していて、北里への批判的な言説もあった。当時のメディアは北里の業績を把握していなかったのだと推察される。
帰国した北里を受け入れる研究機関はなく、世界的細菌学者が無聊をかこっているのを見かねた人々が福沢諭吉の力によって、北里のために民間の伝染病研究所を設立する。そこから、北里に敵対する勢力との興味深い物語が始まるのである。
本書は脚気論争も詳述している。北里のメインの研究業績とは別の話題だが、東京帝大医学部や陸軍軍医森林太郎らの大きな失点あるは汚点である。著者は「けだし真実の解明のためのもっとも大きな障害は、権威者といわれる特定の人びとの固定観念と集団権威体制の頑強さにこそあった」と彼らを批判している。本書は官尊民卑の権威主義に抗した細菌学者の伝記である。
本書で気がかりな点がひとつあった。巻末の年表では1890年に第1回ノーベル賞とあり、本文にもノーベル賞に基づいて1890年頃を描いた記述がある。第1回ノーベル賞は1890年ではなく1901年である。本書141頁でも、1986年12月にノーベルが死去し、1900年にノーベル賞の定款が定められたと述べている。記述が混乱しているように思えた。
『北里柴三郎:感染症と闘いつづけた男』(上山明博/青土社/2021.9)
北里の生涯のあらましは記憶に残っているので、それを追体験する気分で、かなりスラスラと読了できた。山崎氏や海堂氏の著作が想像力を加味した物語仕立てなのに対して、本書は北里の研究業績紹介をベースにしたノンフクションである。同時代の文書(記事や書簡など)の紹介が多い。エピソードや私生活に関する記述は少ない。
資料に基づいた坦々とした記述にもかかわらず、起伏に富んだ北里の生涯の面白さが伝わってきてくる。北里という人物の魅力がくっきりと浮かび上がってくる伝記だ。
雑駁にまとめれば、北里の伝記は、男の嫉妬に駆られた東京帝大医学部教授(青山胤通など)や陸軍軍医総監森林太郎(鷗外)らとの攻防譚である。その背景には、卓越した細菌学者北里の成功物語と、当然に受賞するべきだった第1回ノーベル生理医学賞を逸した無念な逸話がある。無念と思うのは後世の我々であり、北里自身はさほど気にしていなかったかもしれない。
本書で印象深いのはドイツ留学を終えた北里が帰国する場面である。次のように記述している。
「おそらく北里は横浜港に着岸し、六年半ぶりに日本の土を踏む際、大勢の市民の歓迎を受けると想定したと思われる。しかし、北里の予想に反して横浜港には出迎えてくれる市民の姿はなく、インタビューを申し込む記者もいなかった。」
北里はドイツ留学中に破傷風菌の純粋培養や血清療法を開発で名声を上げた世界的研究者だった。欧米の大学から破格の待遇での招聘を受けていたが、国費留学生だったためそれらの招聘を断り、祖国に貢献すべく帰国する。
著者は帰国当時の新聞や雑誌を調べたそうだ。世界的に名声を得た細菌学者の帰国を報じる記事はなかった。当時、東京帝大医学部の教授たちが北里と対立していて、北里への批判的な言説もあった。当時のメディアは北里の業績を把握していなかったのだと推察される。
帰国した北里を受け入れる研究機関はなく、世界的細菌学者が無聊をかこっているのを見かねた人々が福沢諭吉の力によって、北里のために民間の伝染病研究所を設立する。そこから、北里に敵対する勢力との興味深い物語が始まるのである。
本書は脚気論争も詳述している。北里のメインの研究業績とは別の話題だが、東京帝大医学部や陸軍軍医森林太郎らの大きな失点あるは汚点である。著者は「けだし真実の解明のためのもっとも大きな障害は、権威者といわれる特定の人びとの固定観念と集団権威体制の頑強さにこそあった」と彼らを批判している。本書は官尊民卑の権威主義に抗した細菌学者の伝記である。
本書で気がかりな点がひとつあった。巻末の年表では1890年に第1回ノーベル賞とあり、本文にもノーベル賞に基づいて1890年頃を描いた記述がある。第1回ノーベル賞は1890年ではなく1901年である。本書141頁でも、1986年12月にノーベルが死去し、1900年にノーベル賞の定款が定められたと述べている。記述が混乱しているように思えた。
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://dark.asablo.jp/blog/2025/01/26/9750076/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。
※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。