シメの口直しはオーソドックスな『新忠臣蔵』 ― 2024年12月31日
『元禄忠臣蔵』と『うろんなり助左衛門』に続いて読んだ山田風太郎の忠臣蔵は、奇想に満ちた変格モノだった。風太郎の異世界にさらわれそうになる。
フツーの忠臣蔵世界に戻る口直し気分で次の長編を読んだ。
『新忠臣蔵』(津本陽/光文社文庫)
やや小さな活字で約430ページの文庫を短時間で読了できた。初読だが、馴染みの世界を追体験するような読書時間だった。
津本陽の小説を読むのは初めてである。坦々とした忠臣蔵だ。史料をベースにしたと思しき事柄の記述を積み重ねて小説を紡いでいる。浪士たちが書いた手紙の引用が多い。当時の川柳で世相を表す箇所もいくつかある。多様な人物に満遍なく言及し、特定の人物をフレームアップすることはない。オーソドックスな忠臣蔵だと思う。
本書は、吉良上野介を贈り物の多寡で態度を変えるイヤな人物と描き、大石内蔵助は当初から討入りを目論んでいたブレない人物としている。そんな内蔵助は、商業資本主義が膨張し、柳沢吉保らが政商と結託する世相を嫌悪していた。一般的な忠臣蔵の見方を踏襲した明快な見解であり、安心して忠臣蔵の世界に浸ることができる。
刀による戦闘シーンの描写の迫真性は本書の特徴だと思う。討入り前にもいくつかの小さな「チャンバラ」場面があり、その剣術解説が印象深い。
討入りの際の戦闘では小野寺十内(60歳)と間喜兵衛(68再)が活躍し、「近頃の若い衆は情けなや。白刃の光を見ただけで身がこわばり、儂がようなる老耄れにもたやすく突かれるわい」とうそぶく。老人パワー全開だ。
多くの忠臣蔵は、吉良方の清水一学や小林平八郎が赤穂浪士に対して奮闘したと描いている。だが、本書は「二人とも、ほとんどはたらきを見せることなく討たれてしまったようである」とし、「日頃の剣術の腕前が、真剣をとっての立ちあいの場で発揮されないのは、めずらしいことではない。」と述べている。私にとっては新鮮な見解であり、ナルホドと思った。
フツーの忠臣蔵世界に戻る口直し気分で次の長編を読んだ。
『新忠臣蔵』(津本陽/光文社文庫)
やや小さな活字で約430ページの文庫を短時間で読了できた。初読だが、馴染みの世界を追体験するような読書時間だった。
津本陽の小説を読むのは初めてである。坦々とした忠臣蔵だ。史料をベースにしたと思しき事柄の記述を積み重ねて小説を紡いでいる。浪士たちが書いた手紙の引用が多い。当時の川柳で世相を表す箇所もいくつかある。多様な人物に満遍なく言及し、特定の人物をフレームアップすることはない。オーソドックスな忠臣蔵だと思う。
本書は、吉良上野介を贈り物の多寡で態度を変えるイヤな人物と描き、大石内蔵助は当初から討入りを目論んでいたブレない人物としている。そんな内蔵助は、商業資本主義が膨張し、柳沢吉保らが政商と結託する世相を嫌悪していた。一般的な忠臣蔵の見方を踏襲した明快な見解であり、安心して忠臣蔵の世界に浸ることができる。
刀による戦闘シーンの描写の迫真性は本書の特徴だと思う。討入り前にもいくつかの小さな「チャンバラ」場面があり、その剣術解説が印象深い。
討入りの際の戦闘では小野寺十内(60歳)と間喜兵衛(68再)が活躍し、「近頃の若い衆は情けなや。白刃の光を見ただけで身がこわばり、儂がようなる老耄れにもたやすく突かれるわい」とうそぶく。老人パワー全開だ。
多くの忠臣蔵は、吉良方の清水一学や小林平八郎が赤穂浪士に対して奮闘したと描いている。だが、本書は「二人とも、ほとんどはたらきを見せることなく討たれてしまったようである」とし、「日頃の剣術の腕前が、真剣をとっての立ちあいの場で発揮されないのは、めずらしいことではない。」と述べている。私にとっては新鮮な見解であり、ナルホドと思った。
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