清水邦夫の『タンゴ・冬の終わりに』はタンゴだ2015年09月19日

 新聞の劇評にいざなわれて『タンゴ・冬の終わりに』(作・清水邦夫)をパルコ劇場で観た。1984年に演出・蜷川幸雄、主演・平幹二郎でパルコ劇場で初演、その後も蜷川幸雄の演出で何度か再演されてきた芝居が、新たに行定勲の演出で上演されている。三上博史が主演、倉科カナ、神野美鈴、ユースケ・サンタマリアらが出演している。

 劇評(朝日新聞2015年9月10日夕刊)で『「政治の季節」の残照の中でとらえがちだった清水の戯曲に、広い普遍性があることに改めて気づかせてくれた。』とあるのが気にかかり、それを確かめたくなったのだ。

 私は過去にこの芝居を観ていないし、戯曲も読んでいない。白紙の状態で観た、と言いたいが、清水・蜷川コンビの芝居には一定のイメージがあるし、劇評による予断もある。また、数十年ぶり行くパルコ劇場というバイアス的思い入れも少しある。西武劇場という名で1973年にオープンしたこの劇場のこけら落としは、安部公房が立ちあげた「安部スタジオ」の第1回公演『愛の眼鏡は色ガラス』だったと思う。その公演を観た私の印象はビミョーだった。清水邦夫には、アングラ嫌いの安部公房に高く評価されてデビューした劇作家というイメージもある。

 そんなこんなが入り交った心で観た『タンゴ・冬の終わりに』を、私は十分に楽しめた。人間はみんな芝居をしている、人は演ずる動物であり、人生において演じている部分とそうでない部分の境界は不分明だ、という「普遍的」なことを認識させられる芝居だった。

 主人公は全盛期に引退を「演じた」俳優であり、カムバックの要請を拒否する「演技」に自分自身を見出している。この設定は巧みだ。十分に普遍性がある。芝居を観ながら私が連想したのは三島由紀夫と山口百恵だった。二人ともみごとに全盛期での引退を「演じて」成功したが、それは例外に近い。世の大半の人は全盛期引退の演技を完遂できず、失敗するのだと思う。

 この芝居には「孔雀」というメタファが登場する。とってつけたような「孔雀」には違和感をおぼえた。しかし、パンフレットに掲載されていた清水邦夫の初演時の文章から、これが三島由紀夫の短篇『孔雀』から採ったことを知り、なるほどと思った。老人がかつての美少年になって孔雀を殺戮するというイメージをこの芝居に重ねると、確かに普遍性が深まる。

 この芝居のラストは不思議である。クライマックスで終わらず、その先がある。緞帳を使っていないので、芝居が終わった瞬間がわからず、拍手のタイミングがない。カーテンコールになって初めて終幕を確認しての拍手になる。

 ラストシーンは登場人物が立ち去った無人の舞台装置であり、暗転して終幕になる。このラストシーンは三島由紀夫の『豊饒の海』のラストに似ていると、後から思った。「この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまつたと本多は思つた。庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。……」というラストだ。小説としては秀逸だが、芝居には難しい。

 この芝居のラストは無人の舞台だが、季節な夏ではなく「冬の終わり」だ。清水邦夫の昔の連続テレビドラマ『冬物語』と「春は近い、春は近い…」というそのテーマソングを連想させる。メロドラマの普遍性を取りこんだタイトルにも思える。

 そして、何よりも「なぜ、タンゴか」である。観劇後しばらく経って気づいた。この芝居そのものの印象がタンゴだと。ロックでもジャズでもフォークでも演歌でもクラシックでもなく、近代古典のようなレトロ感があるタンゴなのだ。切り離された音でリズムを刻むタンゴの軽快で強迫的な魅力は、シェイクスピアの朗々たる科白に通ずるし、ムード音楽的な懐かしさはカサブランカのように苦くて甘くてカッコいい芝居の世界を際立たせる。『タンゴ・冬の終わりに』は、タンゴのように「普遍的」な芝居だった。

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