かねてから観たかった『紙芝居の絵の町で』を観た2025年05月09日

 花園神社境内の紅テントで劇団唐組公演『紙芝居の絵の町で』(作:唐十郎、演出:久保井研+唐十郎、出演:藤井由紀、久保井研、大鶴美仁音、他)を観た。唐組の芝居は、昨年の唐十郎逝去(2024.5.4)の翌々日に観た『泥人魚』以来だ。

 『紙芝居の絵の町で』を観るのは初めてである。3年前に『唐十郎のせりふ』(新井高子)を読んだとき、この芝居を観たいと思った。この本は、唐十郎の2000年代の戯曲15本をとり上げていて、そのうちの14本は私の知らない戯曲だった。論評を読んで、一番観たいと思ったのが『紙芝居の絵の町で』である。

 この芝居の戯曲は『唐十郎 紅テント・ルネサンス!』というムックの載っていて、先日読んだばかりだ。

 往年の紙芝居の作画家が今では落ちぶれて介護を受ける身になっている。そこに、使い捨てコンタクトレンズのセールスマンが通い続けている。紙芝居と使い捨てコンタクトレンズという突飛な取り合わせが、紙芝居世界と現実が溶融した不思議な世界を紡ぎ出していく。

 使い終わったコンタクトレンズは水の入った大きな瓶に残され、それは「思い出瓶」と名付けらている。コンタクトレンズには、その時々の情景が付着しているのだ。それは、使い捨てられた紙芝居の一枚一枚の絵に通じる。

 かつて体験した紙芝居世界のなかの人物を召喚し、登場人物全体が紙芝居のなかの人物になっていくような芝居である。と言っても、紙芝居を知らない世代をも惹きつける普遍的な魅力がある。もはや、76歳の私を含めて大半の観客が紙芝居をよく知らないのではなかろうか。

 私は唐十郎より8歳年下で、瀬戸内海沿岸の田舎町で育った。自転車の荷台で紙芝居をするおじさんを見た記憶がかすかにあるが、紙芝居の内容は何も憶えていない。

 そんな私だが、当時の紙芝居の内容は少しだけわかる。1995年に出た『アサヒグラフ別冊 紙芝居集成』のおかげである。『黄金バット』をはじめバラエティに富んだ百数十本の紙芝居を収録したお宝別冊で、当時の「キレイとは言えない絵」が紡ぐオハナシの雰囲気が伝わってくる。

 『紙芝居の絵の町で』はこの『アサヒグラフ別冊 紙芝居集成』が主要な役割を担っている。コンタクトレンズのセールスマンが古本屋で入手した『紙芝居集成』に半分千切れた頁があり、その千切れた絵を探すという設定なのだ。30年前にこの本を新本で入手した私にとっては、ニヤリとしたくなる話だ。