安部公房の最初期と最晩年の作品が文庫になった ― 2024年07月09日
今年(2024年)は安部公房生誕100年である。カフカ没後100年でもある。100年前、安部公房が生まれた年にカフカは40歳で没した。 安部公房は1993年に68歳で没した。カフカはもとより、いま考えれば安部公房も早世だった。
安部公房生誕100年を記念する気分で、今年刊行された次の新潮文庫を読んだ。
『(霊媒の話より)題未定:安部公房初期短編集』(安部公房/新潮文庫)
『飛ぶ男』(安部公房/新潮文庫)
前者は安部公房の最も初期の作品、後者は最晩年の作品、いぜれも生前には刊行されていない。この2冊に収録した小説の大半が未完成作品である。オビには「世界を震撼させた安部文学、その幕開け」「鬼才・安部公房 幻の遺作」の惹句がおどっている。
私は『安部公房全集』をそろえていて、その全作品は手元にある。なのに、あえて文庫本を購入したのは、付加された解説の筆者に魅力を感じたからである。前者の解説はヤマザキマリ氏、後者の解説は福岡伸一氏である。解説者が小説家や文芸評論家でないのが安部公房らしくて面白い。
前者の『安部公房初期短編集』には、19歳から25歳までに書いた11編(全集刊行後に発見され、「新潮」(2012.12)に載った「天使」も含む)を収録している。安部公房は21歳のときに満州で終戦を迎えているので、本書収録の短編は終戦前後の数年間に書いたものだ。
当時の様子を年譜から抜粋する。19歳で東大医学部に入学するも、精神状態が悪化し、ほとんど学校に行かない。敗戦が近いとの噂を聞いて自宅のある満州に帰る。馬賊に仲間入りするつもりだった。1946年(22歳)に引揚船で帰国、1年下のクラスに編入するが、極度の貧困と栄養失調で殆ど学校には行かず街中を彷徨する。1947年(22歳)、画学生・山田真知子と結婚。ガリ版刷りの『無名詩集』を自費出版。1948年(23歳)、東大医学部を卒業するがインターンになるのを断念。『終りし道の標べに』の一部が雑誌に掲載される。
――そんな青年・安部公房が書き残した短編を読むと、やはり「若い!」と感じる。同時に、そこに後年の傑作群の萌芽がひそんでいることに気づく。哲学青年の晦渋な思索とやや滑稽な物語作りがないまぜになっている。
かつて安部公房は自らの軌跡を「実存主義からシュール・リアリズムへ、そしてコミュニズムへ…」と語ったことがあるが、人の思想がそんなにキレイなカーブで変遷するとは思えない。初期短編群はそれらの思想すべてを内包している。
『飛ぶ男』は「飛ぶ男」「さまざまな父」の2編を収録している。安部公房が最後に発表した小説は、逝去(1993.1.22)とほぼ同時期の「新潮」(1993.1-2)に載った「さまざまな父」である。「飛ぶ男」はワープロに残されていた執筆途中の小説である。逝去の1年後、この2作を収録した単行本『飛ぶ男』が刊行された。今年文庫化された『飛ぶ男』は、単行本版よりも元の原稿に近い形になっている。
約10年ぶりに『飛ぶ男』を再読し、以前とは少し違う印象を受けた。初読時には、晩年をむかえた作家が若い頃の作品を模倣しているように感じた。だが、よく読むとそうでもない。
ディティールの偏執狂的な描写は作者自身を客体化しているように見えて興味深い。「さまざまな父」と「飛ぶ男」は共通のモチーフの作品で、それらをまとめた全体像は思いの他に大きい。残された作品(の断片)はそのほんの一部に過ぎないようだ。作者に気力と時間が残されていたら、かなり壮大な構想の長編になったかもしれない。
安部公房の最初期と最晩年の未定稿の作品を続けて読み、故人の遺品の膨大なノートの一部を盗み読みしたような気分になった。人の一生は長いようで短い。
安部公房生誕100年を記念する気分で、今年刊行された次の新潮文庫を読んだ。
『(霊媒の話より)題未定:安部公房初期短編集』(安部公房/新潮文庫)
『飛ぶ男』(安部公房/新潮文庫)
前者は安部公房の最も初期の作品、後者は最晩年の作品、いぜれも生前には刊行されていない。この2冊に収録した小説の大半が未完成作品である。オビには「世界を震撼させた安部文学、その幕開け」「鬼才・安部公房 幻の遺作」の惹句がおどっている。
私は『安部公房全集』をそろえていて、その全作品は手元にある。なのに、あえて文庫本を購入したのは、付加された解説の筆者に魅力を感じたからである。前者の解説はヤマザキマリ氏、後者の解説は福岡伸一氏である。解説者が小説家や文芸評論家でないのが安部公房らしくて面白い。
前者の『安部公房初期短編集』には、19歳から25歳までに書いた11編(全集刊行後に発見され、「新潮」(2012.12)に載った「天使」も含む)を収録している。安部公房は21歳のときに満州で終戦を迎えているので、本書収録の短編は終戦前後の数年間に書いたものだ。
当時の様子を年譜から抜粋する。19歳で東大医学部に入学するも、精神状態が悪化し、ほとんど学校に行かない。敗戦が近いとの噂を聞いて自宅のある満州に帰る。馬賊に仲間入りするつもりだった。1946年(22歳)に引揚船で帰国、1年下のクラスに編入するが、極度の貧困と栄養失調で殆ど学校には行かず街中を彷徨する。1947年(22歳)、画学生・山田真知子と結婚。ガリ版刷りの『無名詩集』を自費出版。1948年(23歳)、東大医学部を卒業するがインターンになるのを断念。『終りし道の標べに』の一部が雑誌に掲載される。
――そんな青年・安部公房が書き残した短編を読むと、やはり「若い!」と感じる。同時に、そこに後年の傑作群の萌芽がひそんでいることに気づく。哲学青年の晦渋な思索とやや滑稽な物語作りがないまぜになっている。
かつて安部公房は自らの軌跡を「実存主義からシュール・リアリズムへ、そしてコミュニズムへ…」と語ったことがあるが、人の思想がそんなにキレイなカーブで変遷するとは思えない。初期短編群はそれらの思想すべてを内包している。
『飛ぶ男』は「飛ぶ男」「さまざまな父」の2編を収録している。安部公房が最後に発表した小説は、逝去(1993.1.22)とほぼ同時期の「新潮」(1993.1-2)に載った「さまざまな父」である。「飛ぶ男」はワープロに残されていた執筆途中の小説である。逝去の1年後、この2作を収録した単行本『飛ぶ男』が刊行された。今年文庫化された『飛ぶ男』は、単行本版よりも元の原稿に近い形になっている。
約10年ぶりに『飛ぶ男』を再読し、以前とは少し違う印象を受けた。初読時には、晩年をむかえた作家が若い頃の作品を模倣しているように感じた。だが、よく読むとそうでもない。
ディティールの偏執狂的な描写は作者自身を客体化しているように見えて興味深い。「さまざまな父」と「飛ぶ男」は共通のモチーフの作品で、それらをまとめた全体像は思いの他に大きい。残された作品(の断片)はそのほんの一部に過ぎないようだ。作者に気力と時間が残されていたら、かなり壮大な構想の長編になったかもしれない。
安部公房の最初期と最晩年の未定稿の作品を続けて読み、故人の遺品の膨大なノートの一部を盗み読みしたような気分になった。人の一生は長いようで短い。
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