ヘンテコな小説が新たにヘンテコな映画に……『美しい星』2017年08月11日

『美しい星』映画のチラシと単行本
 今年5月に封切られた映画『美しい星』(監督・吉田大八)をキネカ大森で観た。封切り時に観ようと思いつつ2カ月以上が経過し、東京ではこの小さな映画館で夜だけの上演になっていた。上演状況を見ると興行的にはイマイチなのかもしれない。

 私が三島由紀夫の『美しい星』(新潮社)を読んだのは半世紀前の高校生の頃だ。SF少年だった私は、『金閣寺』に圧倒されてもいたので、純文学のスター作家のSFということで身構えて読んだ。読み始めてすぐ、これは通常のSFではなく思弁小説だと了解した。ヘンテコなものを読んだという読了時の印象だけが残り、月日の経過とともに内容の大半は失念した。

 今回、映画を観るのに先立って小説を半世紀ぶりに再読した。その読後感は10代の時とさほど変わらないと思う(記憶が霞んでいるので確言できない)。

 文体は格調高くて思わせぶりだが、登場人物の多くはどこか卑小で、カラマーゾフの大審問官を彷彿させる大議論のシーンもパロディに見えてくる。フルシチョフ、ケネディ、池田勇人など当時の政治家の固有名詞が出てくるアップ・ツー・デートな小説でもある。作者はややコミカルで軽薄とも思われる線を狙っていたようにも思える。

 この小説には三島由紀夫という固有名詞も登場する。白鳥座61番星という「不吉な」星を故郷とする悪役一行が歌舞伎座の十一代團十郎襲名披露興行の「暫」や「勧進帳」を観劇する。続いて上演される三島由紀夫の新作については「こんな小説書きの新作物なんか見るに及ばない」と言って席を立って銀ブラをするのだ。作家が楽しんで書いている。

 そんな具合に肩を抜いた通俗に見せながら、作家の抱いている暗い哲学を潜り込ませているようなので、やっかいでヘンテコな小説なのだ。

 映画を観るために小説を再読し、あらためてこの小説の映画化は容易でないと感じた。そして、どんな映画になっているのか興味が高まった。

 映画は時代設定を現代に移行させ、原作では大学教授風の高等遊民だった主人公をテレビの気象予報士に変えている。だから、冒頭からの展開は原作からはかけ離れていて、三島由紀夫の世界とは別の物語を観ている気分になった。

 映画の展開はどんどんヘンテコになっていくが、それは小説から受けたヘンテコさとは異質に思えた。脈絡をつかみにくい、わけのわからないヘンテコさなのだ。にもかかわらず、映画が進行するに従って映画の世界が三島由紀夫世界に次第に近づいていくように感じられた。

 映画はコミカルでシュールでわかりにくい箇所もある。観終えて、この映画は1962年を舞台にした原作のヘンテコさを2017年を舞台に再現したものだと思え、小説と映画は通底していると感じられた。小説もコミカルでシュールだったと気づいたのだ。

 「ヘンテコ」とは、にわかには面白いかつまらないかの判断ができず、解釈が難しく評価困難ということであり、咀嚼に時間がかかるということでもある。軽薄さと重厚さ、フィジカルとメタフィジカルをほぼ同じ比重で表現するからこんな作品になる。わかりやすさを目指していないので読み解くのは大変だ。

 三島由紀夫は『美しい星』執筆後、ドナルド・キーン宛ての手紙で「これは実にへんてこりんな小説なのです。しかしこの十ヶ月、実にたのしんで書きました」と述べているそうだ。この映画の監督・吉田大八も「実にへんてこりんな映画を作りました」とだれかに語っているのかもしれない。