翻訳家・亀山郁夫氏が『新カラマーゾフの兄弟』を書いてしまった ― 2015年12月29日
書店の店頭で『新カラマーゾフの兄弟(上)(下)』(亀山郁夫/河出書房新社)を見てびっくりした。数年前『カラマーゾフの兄弟』の新訳で話題になった元東京外語大学学長の亀山郁夫氏が小説に挑戦したとは知らなかった。翻訳家・研究者と小説家は隣接業種であっても同業とは言い難く両立は容易でない。店頭でこの本を見かけたとき「亀山郁夫ってヘンでアブナイ人のようだ」と直観した。
『カラマーゾフの兄弟』を米川正夫訳で読んだのは半世紀近く昔の19歳の時で、大きな衝撃を受けた。3年前には話題の亀山郁夫訳で再読した。いつか別の訳で読み返したと思い、原卓也訳の新潮文庫版(全3冊)を購入した。それは、書棚の未読スタックに積んだままだ。
『カラマーゾフの兄弟』への関心は高いが『新カラマーゾフの兄弟(上)(下)』を購入するかどうかは、かなり迷った。亀山郁夫氏の『「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する』という新書は以前に読んだ。あの空想を小説に仕立てたのなら、およその内容は想像でき、あえて読まなくてもいいと思えた。続編なら『カラマーゾフの妹』(高野史緒)という傑作もあり、あれで十分だという気もしている。
そんなことを思いながらパラパラめくってみると、この小説は1995年の日本を舞台にした話だとわかり興味がわいた。上下巻あわせて約1400ページという分量には圧倒されるが、会話や改行が多くて読みやすそうではある。で、思い切って購入した。
『新カラマーゾフの兄弟(上)(下)』を読了し、あらためて「亀山郁夫ってヘンでアブナイ人だなあ」と思った。1400ページを費やして店頭での第一印象を再確認したわけだ。
かなりの短時間で読了できたのだから、つまらない小説ではない。ドストエフスキーのようなコク、緊張感、牽引力がないのは仕方ないにしても、何ともヘンな小説である。「なんじやこれは」と思いつつ読了してしまった。ドストエフスキーをネタに遊んでいるわけではなく、真面目に書いているのだろうが、たくらみや仕掛けを意識して書いているのか、勝手な思い込みで奔放に書いているのか判然としない。現代日本を舞台にカラマーゾフの兄弟のストーリーをなぞる意義がわからないし、阪神大震災とオウムの1995年という時代背景が活かされているようにも思えない。幻視や夢の多用には辟易する。著者は「父親殺し」という観念の敷衍を試みているようだが、語り得ぬことを安易に展開しているように見えてしまう。
この小説で私が一番面白いと思った登場人物は亀山郁夫氏を投影したKという人物である。『新カラマーゾフの兄弟』は「Kの手記」と「黒木家の兄弟」の2本立てで展開する構成になっている。メタフィクションではなく、Kと黒木家の兄弟は同じ次元の登場人物で互いの交流もあるが、「Kの手記」は私小説風になっている。そこに登場するX先生はロシア文学者で東京外語大学の学長も務めた原卓也を投影している。
「Kの手記」において亀山郁夫氏は意識的にKの矮小性を語っているが、己を戯画化するというよりは語るに落ちたように見えて、重さと軽さのズレを感じてしまう。そこが面白い。
亀山郁夫氏は私と同世代なので、私小説的に語られている全共闘運動時代の雰囲気はよくわかる。あの頃、東京外語大の教官だった原卓也が全共闘を支持するような言説を展開していたことも記憶の底から甦ってきた。だが、今頃になってなぜこんな私小説を書くのかは、よくわからない。X先生にほとんど評価されていなかったKが結局はX先生の後任になるという展開は興味深いが、はたしてこれは「父親殺し」と言えるのだろうか。
『新カラマーゾフの兄弟(上)(下)』を読んでいて、香川照之こと市川中車を連想した。中年になって歌舞伎に転身した市川中車は今月の歌舞伎座では女形にまでチャレンジして頑張っている。そんな市川中車に亀山郁夫氏をたとえるのは不適切かもしれない。明治の終わりの「幻の十代目市川団十郎」の方がふさわしいか。九代目の娘婿で、誰も期待していないのに銀行員から歌舞伎役者に転身し「所詮技芸に難があり、彼の努力にもかかわらず役者としての評価はかんばしいものではなかった。しかし、つねに市川宗家としての権威を守り抜こうとする意欲と責任感を持ち(…)」と言われた人である。
こんな不思議な『新カラマーゾフの兄弟』を書き上げてしまった亀山郁夫氏に私は感心するしかない。
『カラマーゾフの兄弟』を米川正夫訳で読んだのは半世紀近く昔の19歳の時で、大きな衝撃を受けた。3年前には話題の亀山郁夫訳で再読した。いつか別の訳で読み返したと思い、原卓也訳の新潮文庫版(全3冊)を購入した。それは、書棚の未読スタックに積んだままだ。
『カラマーゾフの兄弟』への関心は高いが『新カラマーゾフの兄弟(上)(下)』を購入するかどうかは、かなり迷った。亀山郁夫氏の『「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する』という新書は以前に読んだ。あの空想を小説に仕立てたのなら、およその内容は想像でき、あえて読まなくてもいいと思えた。続編なら『カラマーゾフの妹』(高野史緒)という傑作もあり、あれで十分だという気もしている。
そんなことを思いながらパラパラめくってみると、この小説は1995年の日本を舞台にした話だとわかり興味がわいた。上下巻あわせて約1400ページという分量には圧倒されるが、会話や改行が多くて読みやすそうではある。で、思い切って購入した。
『新カラマーゾフの兄弟(上)(下)』を読了し、あらためて「亀山郁夫ってヘンでアブナイ人だなあ」と思った。1400ページを費やして店頭での第一印象を再確認したわけだ。
かなりの短時間で読了できたのだから、つまらない小説ではない。ドストエフスキーのようなコク、緊張感、牽引力がないのは仕方ないにしても、何ともヘンな小説である。「なんじやこれは」と思いつつ読了してしまった。ドストエフスキーをネタに遊んでいるわけではなく、真面目に書いているのだろうが、たくらみや仕掛けを意識して書いているのか、勝手な思い込みで奔放に書いているのか判然としない。現代日本を舞台にカラマーゾフの兄弟のストーリーをなぞる意義がわからないし、阪神大震災とオウムの1995年という時代背景が活かされているようにも思えない。幻視や夢の多用には辟易する。著者は「父親殺し」という観念の敷衍を試みているようだが、語り得ぬことを安易に展開しているように見えてしまう。
この小説で私が一番面白いと思った登場人物は亀山郁夫氏を投影したKという人物である。『新カラマーゾフの兄弟』は「Kの手記」と「黒木家の兄弟」の2本立てで展開する構成になっている。メタフィクションではなく、Kと黒木家の兄弟は同じ次元の登場人物で互いの交流もあるが、「Kの手記」は私小説風になっている。そこに登場するX先生はロシア文学者で東京外語大学の学長も務めた原卓也を投影している。
「Kの手記」において亀山郁夫氏は意識的にKの矮小性を語っているが、己を戯画化するというよりは語るに落ちたように見えて、重さと軽さのズレを感じてしまう。そこが面白い。
亀山郁夫氏は私と同世代なので、私小説的に語られている全共闘運動時代の雰囲気はよくわかる。あの頃、東京外語大の教官だった原卓也が全共闘を支持するような言説を展開していたことも記憶の底から甦ってきた。だが、今頃になってなぜこんな私小説を書くのかは、よくわからない。X先生にほとんど評価されていなかったKが結局はX先生の後任になるという展開は興味深いが、はたしてこれは「父親殺し」と言えるのだろうか。
『新カラマーゾフの兄弟(上)(下)』を読んでいて、香川照之こと市川中車を連想した。中年になって歌舞伎に転身した市川中車は今月の歌舞伎座では女形にまでチャレンジして頑張っている。そんな市川中車に亀山郁夫氏をたとえるのは不適切かもしれない。明治の終わりの「幻の十代目市川団十郎」の方がふさわしいか。九代目の娘婿で、誰も期待していないのに銀行員から歌舞伎役者に転身し「所詮技芸に難があり、彼の努力にもかかわらず役者としての評価はかんばしいものではなかった。しかし、つねに市川宗家としての権威を守り抜こうとする意欲と責任感を持ち(…)」と言われた人である。
こんな不思議な『新カラマーゾフの兄弟』を書き上げてしまった亀山郁夫氏に私は感心するしかない。
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