科学の世界と芸術の世界の清々しさ ― 2015年11月09日
何の関連もないと思って読んだ2冊の本の間に思いがけない接点を発見すると、ちょっと得した気分になる。そんな体験をしたのが、ほぼ同時期に読んだ次の2冊だ。
『獨歩靑天』(入江観/形文社)
『大村智:2億人を病魔から守った化学者』(馬場錬成/中央公論新社)
後者はノーベル医学・生理学賞受賞が決まった大村智氏の3年前に出版された伝記で、増刷されて本屋の店頭に積まれている。私はノーベル賞のニュースに接するまで大村智氏を知らなかったが、報道内容でこの学者の生き方に大きな興味を抱いたので本書を購入した。
前者の著者・入江観氏は春陽会の重鎮の洋画家で、女子美短大の教授を長く勤めた人だ。『獨歩靑天』は入江観氏が新聞・雑誌に発表した文章をまとめた画文集で、出版は7年前だ。
実は私は高校時代(半世紀ほど昔だ)に入江観氏の美術の授業を受けたことがある。フランス留学から帰ったばかりの若い画家は1年足らずの期間、高校の非常勤教師をやっていたのだ。そんな縁もあり、近年になって入江観氏の絵画を数点購入し『獨歩靑天』も入手した。
『獨歩靑天』は時おり拾い読みしていたのだが、先日、ちょっと確認したいことがあり、頭から通読した。昔、朝日新聞日曜版で現代画家たちが「おんな」という共通テーマで毎週作品を発表する企画があった。入江観氏がそのときの自作に言及している文章を読んだ記憶があり、その文章を確認したくて『獨歩靑天』をパラパラめくった。しかし、なかなか見つからない。ついに最初のページから最後まで通読してしまった。結局、私のさがしていた文章は見つからなかった。別の媒体で読んだのか、わが記憶の捏造なのか不明だ。年を取るとこういうことはよくある。
それはさておき、『獨歩靑天』を通読することで新たな発見も多かった。その一つが女子美の理事長で世界的な微生物学者である大村智氏への言及だ。「エカキ校長退任の弁」という文章に出てくる。ノーベル賞受賞のニュースに接した直後にこの言及に遭遇したので、その偶然に驚いた。ただし、「エカキ校長退任の弁」を以前にも読んだのは確かで、今回は再読だった。前回読んだはずの大村智氏に関する件りは完全に失念していたのだ。だから、ノーベル賞受賞のニュースで「大村智ってだれ?」と思ったのだ。悲しいかな、この程度の記憶欠落はもはや日常茶飯事だ。
『獨歩靑天』の通読とほぼ並行して『大村智:2億人を病魔から守った化学者』を読んだ。科学上の業績や研究室運営の奮闘を描いた伝記だが、最後の方に「科学と芸術の共通性から女子美術大学の理事長へ」という章があり、大村智氏の美術への関わりも述べられている。入江観氏への言及はないが、大村智氏と入江観氏がいっしょに写っている写真が掲載されていて、何の関連もないと思っていた二つの本が呼応しているように感じられた。
まったく別の世界を扱った二つの本だが、思いがけない接点を発見したせいか、読後感に共通するものがある。大村智氏も入江観氏も同じ1935年生まれで、10歳で終戦をむかえ、同じ時代を生きてきた同世代だ。科学と美術、分野は異なるが若くして海外留学を体験し、日本の戦後復興、高度成長期に独自の世界を切り開いてきた生き方は共通していて、清々しさを感じる。科学者と芸術家は似た存在だとも思える。
「人まねをしていてはダメだ」という大村智氏の持論や「いかに感動の時間を多く持つかが人生の大事」という入江観氏の指摘には率直に納得できる。若い人に聞かせたいなどとも思ってしまうが、もちろん高齢者にとっても意義深い。
『獨歩靑天』(入江観/形文社)
『大村智:2億人を病魔から守った化学者』(馬場錬成/中央公論新社)
後者はノーベル医学・生理学賞受賞が決まった大村智氏の3年前に出版された伝記で、増刷されて本屋の店頭に積まれている。私はノーベル賞のニュースに接するまで大村智氏を知らなかったが、報道内容でこの学者の生き方に大きな興味を抱いたので本書を購入した。
前者の著者・入江観氏は春陽会の重鎮の洋画家で、女子美短大の教授を長く勤めた人だ。『獨歩靑天』は入江観氏が新聞・雑誌に発表した文章をまとめた画文集で、出版は7年前だ。
実は私は高校時代(半世紀ほど昔だ)に入江観氏の美術の授業を受けたことがある。フランス留学から帰ったばかりの若い画家は1年足らずの期間、高校の非常勤教師をやっていたのだ。そんな縁もあり、近年になって入江観氏の絵画を数点購入し『獨歩靑天』も入手した。
『獨歩靑天』は時おり拾い読みしていたのだが、先日、ちょっと確認したいことがあり、頭から通読した。昔、朝日新聞日曜版で現代画家たちが「おんな」という共通テーマで毎週作品を発表する企画があった。入江観氏がそのときの自作に言及している文章を読んだ記憶があり、その文章を確認したくて『獨歩靑天』をパラパラめくった。しかし、なかなか見つからない。ついに最初のページから最後まで通読してしまった。結局、私のさがしていた文章は見つからなかった。別の媒体で読んだのか、わが記憶の捏造なのか不明だ。年を取るとこういうことはよくある。
それはさておき、『獨歩靑天』を通読することで新たな発見も多かった。その一つが女子美の理事長で世界的な微生物学者である大村智氏への言及だ。「エカキ校長退任の弁」という文章に出てくる。ノーベル賞受賞のニュースに接した直後にこの言及に遭遇したので、その偶然に驚いた。ただし、「エカキ校長退任の弁」を以前にも読んだのは確かで、今回は再読だった。前回読んだはずの大村智氏に関する件りは完全に失念していたのだ。だから、ノーベル賞受賞のニュースで「大村智ってだれ?」と思ったのだ。悲しいかな、この程度の記憶欠落はもはや日常茶飯事だ。
『獨歩靑天』の通読とほぼ並行して『大村智:2億人を病魔から守った化学者』を読んだ。科学上の業績や研究室運営の奮闘を描いた伝記だが、最後の方に「科学と芸術の共通性から女子美術大学の理事長へ」という章があり、大村智氏の美術への関わりも述べられている。入江観氏への言及はないが、大村智氏と入江観氏がいっしょに写っている写真が掲載されていて、何の関連もないと思っていた二つの本が呼応しているように感じられた。
まったく別の世界を扱った二つの本だが、思いがけない接点を発見したせいか、読後感に共通するものがある。大村智氏も入江観氏も同じ1935年生まれで、10歳で終戦をむかえ、同じ時代を生きてきた同世代だ。科学と美術、分野は異なるが若くして海外留学を体験し、日本の戦後復興、高度成長期に独自の世界を切り開いてきた生き方は共通していて、清々しさを感じる。科学者と芸術家は似た存在だとも思える。
「人まねをしていてはダメだ」という大村智氏の持論や「いかに感動の時間を多く持つかが人生の大事」という入江観氏の指摘には率直に納得できる。若い人に聞かせたいなどとも思ってしまうが、もちろん高齢者にとっても意義深い。
66年前に焼けた法隆寺金堂壁画を見たい ― 2015年11月12日
私は朝日新聞と日経新聞を購読している。さほど熱心に新聞を読むわけではないが、毎朝、新聞に目を通すのは子供の頃から刷りこまれた習慣だ。わが団塊世代の大半に共通だろう。われわれの子の世代からは新聞離れが進んでいるようだが……
それはさておき、本日(2015年11月12日)の朝刊では心地良いビックリ体験をした。朝食をとりながら、いつものように日経新聞終面の「私の履歴書」に目を通す。今月は画家の絹谷幸二氏で、本日は芸大時代の卒業制作の話だ。火災にあった法隆寺金堂の壁画を画学生として特別に見学させてもらった体験が綴られている。1949年に焼けた壁画を1964年に見学した感動を次のように述べている。
「柱はすっかり炭化し、壁画の色は失われ、わずかに輪郭線を残すのみ。しかし、劫火をくぐり抜けた壁画の異様な様相は、紙やカンバスに描かれたどんな絵も吹き飛ばしてしまうほどの迫力があった。人間ひとりが持つ時間など超越して存在し続けるのが壁画なのだと直感した」
この一節を読んだとき、その焼けた壁画がどんなものなのか見たいと思った。その願望は、わずか数秒後に達成された。日経新聞に続いて朝日新聞に目を通すと、何と66年前に焼けた法隆寺金堂壁画の写真がドーンと掲載されているではないか。これには驚いた。
朝日新聞の1面トップは「法隆寺金堂壁画初の科学調査」という見出しの記事で、66年前に焼損した壁画の総合調査が始まるというニュースである。社会面には一般人には見ることのできない焼けた壁画の写真も掲載されている。このニュースは、「私の履歴書」が掲載されている日経新聞には載っていない。総合調査をする「保存活用委員会」に朝日新聞社も参加するそうなので、朝日新聞だけに掲載されたニュースのようだ。
絹谷幸二氏の「私の履歴書」の法隆寺金堂壁画の話が朝日新聞のニュースと同日掲載になったのが単なる偶然かどうかはわからない。2紙を併読している読者にはうれしい連動だったのは確かだ。別の事象に見える事柄のあいだ何らかの繋がりを発見するのは刺激的で心地よい体験である。それは、さまざまな事項が一覧的並列的に掲載されている新聞を読んでいるときに得られることが多い。
それにしても、写真から伝わってくる焼け残ったモノトーンの壁画の不気味な迫力には圧倒される。私が生まれた直後の66年前に焼損した壁画が、今回の調査を経て一般公開されることを期待する。
それはさておき、本日(2015年11月12日)の朝刊では心地良いビックリ体験をした。朝食をとりながら、いつものように日経新聞終面の「私の履歴書」に目を通す。今月は画家の絹谷幸二氏で、本日は芸大時代の卒業制作の話だ。火災にあった法隆寺金堂の壁画を画学生として特別に見学させてもらった体験が綴られている。1949年に焼けた壁画を1964年に見学した感動を次のように述べている。
「柱はすっかり炭化し、壁画の色は失われ、わずかに輪郭線を残すのみ。しかし、劫火をくぐり抜けた壁画の異様な様相は、紙やカンバスに描かれたどんな絵も吹き飛ばしてしまうほどの迫力があった。人間ひとりが持つ時間など超越して存在し続けるのが壁画なのだと直感した」
この一節を読んだとき、その焼けた壁画がどんなものなのか見たいと思った。その願望は、わずか数秒後に達成された。日経新聞に続いて朝日新聞に目を通すと、何と66年前に焼けた法隆寺金堂壁画の写真がドーンと掲載されているではないか。これには驚いた。
朝日新聞の1面トップは「法隆寺金堂壁画初の科学調査」という見出しの記事で、66年前に焼損した壁画の総合調査が始まるというニュースである。社会面には一般人には見ることのできない焼けた壁画の写真も掲載されている。このニュースは、「私の履歴書」が掲載されている日経新聞には載っていない。総合調査をする「保存活用委員会」に朝日新聞社も参加するそうなので、朝日新聞だけに掲載されたニュースのようだ。
絹谷幸二氏の「私の履歴書」の法隆寺金堂壁画の話が朝日新聞のニュースと同日掲載になったのが単なる偶然かどうかはわからない。2紙を併読している読者にはうれしい連動だったのは確かだ。別の事象に見える事柄のあいだ何らかの繋がりを発見するのは刺激的で心地よい体験である。それは、さまざまな事項が一覧的並列的に掲載されている新聞を読んでいるときに得られることが多い。
それにしても、写真から伝わってくる焼け残ったモノトーンの壁画の不気味な迫力には圧倒される。私が生まれた直後の66年前に焼損した壁画が、今回の調査を経て一般公開されることを期待する。
山小屋に薪置き場を作った ― 2015年11月19日
今週始め、約1カ月ぶりに八ヶ岳山麓の山小屋に行った。わが山小屋の標高は900メートルほどで、極端に寒冷なわけではない。まだ、電気ストーブでも大丈夫と思ったが、今回は薪ストーブを使った。薪ストーブを焚くと小さな小屋の室温は30度近くになった。窓から外気を入れて暑さをしのぎながらストーブを焚くというアホな状況で、東京より薄着ですごした。
今回の山小屋行きの主目的は薪置き場の制作である。ストーブ用の薪は物置小屋の前に積んでいる。庇が大きいので雨に濡れる心配はない。しかし、この薪置き場にはいくつかの問題があった。
薪は切り出してから最低1年以上は乾燥させなければならない。だから、薪置き場とは薪を乾燥させる場所でもある。新しい薪は乾燥するのを待ち、古い薪から消費していくのが望ましい。先入れ先出しである。しかし、軒下に積み上げただけの薪置き場では先入れ先出しが難しい。下の方に積まれた古い薪はいつまでも使われず、その上に積んだ新しい薪から使ってしまう後入れ先出しになりがちだ。
また、庇が大きいので雨水が直接当たることはないのだが、雨が降るとテラスの脇から雨水が流れてくる。テラスに直接薪を積んでいるので、一番下の脇の薪は雨水で湿って苔が生えてくる。これはよろしくない。
それに、単に薪を積み上げるのでは、山の形に積み上げることになり、あまり大量の薪を置くことはできない。
そんなわけで、以前から薪置き場制作の必要性を感じ、近所の家の薪置き場を観察しながら構想を練っていた。そして今回、ついに薪置き場作りを敢行したのだ。当初は3ブロックの薪置き場と考えたが、材料費や手間を考慮して2ブロックに設計変更した。2ブロックあれば「消費用」と「乾燥用」に分けられる。また、薪置き場はレンガの上に置くので、テラスに流れてくる雨水が薪を濡らす問題も解消する。
作業にあたって、想定外の苦労がいくつかあった。大きな工作物を一人で作るのは段取りが大変だったし、テラスが水平でないのは誤算だった。しかし、何とか1日で完成したことに私は満足している。
写真の薪置き場は、作業場所を確保するために積み下ろした薪を、新しい薪置き場にそのまま積み上げただけで、薪の分類はできていない。時間がなかったので、分類は次回の作業になる。
今回の山小屋行きの主目的は薪置き場の制作である。ストーブ用の薪は物置小屋の前に積んでいる。庇が大きいので雨に濡れる心配はない。しかし、この薪置き場にはいくつかの問題があった。
薪は切り出してから最低1年以上は乾燥させなければならない。だから、薪置き場とは薪を乾燥させる場所でもある。新しい薪は乾燥するのを待ち、古い薪から消費していくのが望ましい。先入れ先出しである。しかし、軒下に積み上げただけの薪置き場では先入れ先出しが難しい。下の方に積まれた古い薪はいつまでも使われず、その上に積んだ新しい薪から使ってしまう後入れ先出しになりがちだ。
また、庇が大きいので雨水が直接当たることはないのだが、雨が降るとテラスの脇から雨水が流れてくる。テラスに直接薪を積んでいるので、一番下の脇の薪は雨水で湿って苔が生えてくる。これはよろしくない。
それに、単に薪を積み上げるのでは、山の形に積み上げることになり、あまり大量の薪を置くことはできない。
そんなわけで、以前から薪置き場制作の必要性を感じ、近所の家の薪置き場を観察しながら構想を練っていた。そして今回、ついに薪置き場作りを敢行したのだ。当初は3ブロックの薪置き場と考えたが、材料費や手間を考慮して2ブロックに設計変更した。2ブロックあれば「消費用」と「乾燥用」に分けられる。また、薪置き場はレンガの上に置くので、テラスに流れてくる雨水が薪を濡らす問題も解消する。
作業にあたって、想定外の苦労がいくつかあった。大きな工作物を一人で作るのは段取りが大変だったし、テラスが水平でないのは誤算だった。しかし、何とか1日で完成したことに私は満足している。
写真の薪置き場は、作業場所を確保するために積み下ろした薪を、新しい薪置き場にそのまま積み上げただけで、薪の分類はできていない。時間がなかったので、分類は次回の作業になる。
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