経済の新書本を何冊か読んでみたが・・・ ― 2012年11月25日
◎経済も脳味噌も混迷する
書店の新書コーナーに経済関係の本が目につくのは気のせいだろうか。いつの時代でも経済は喫緊の課題であり、今の経済を読み解きたいというニーズは常に存在する。とは言え、リーマンショック後の現代は、常にも増して経済の混迷が深まっており、書店の棚はその反映だらう。
で、以下の8冊を立て続けに読んでみた。そして、頭の中の混迷がいっそう深まった。
(1)『本当の経済の話をしよう』(若田部昌澄、栗原裕一郎/ちくま新書)
(2)『もうダマされないための経済学講義』(若田部昌澄/光文社新書)
(3)『経済学の犯罪:希少性の経済から過剰性の経済へ』(佐伯啓思/講談社現代新書)
(4)『古典で読み解く現代経済』(池田信夫/PHPビジネス新書)
(5)『「通貨」はこれからどうなるのか』(浜矩子/PHPビジネス新書)
(6)『経済古典は役に立つ』(竹中平蔵/光文社新書)
(7)『日本経済「円」の真実』(榊原英資/中経出版)
(8)『ケインズはこう言った:迷走日本を古典で斬る』(高橋伸彰/NHK出版新書)
これらの本を読んでも、経済を見る目はクリアにはならないし、経済学がわかった気にもならない。困ったものだ。
私にとって面白かったのは『本当の経済の話をしよう』と『経済学の犯罪』だった。著者の若田部昌澄氏と佐伯啓思氏はまったく立場が異なり、二つの本の内容は対立している----というより、かみあっていない。『経済学の犯罪』は経済学批判の書であって現状の経済の分析ではないのでかみあわないのは当然かもしれない。だが、この二人の言ってることが、それなりに納得できそうに思えるのが困ったことだ。
もちろん、「困った」の対象は情けないわが脳味噌であり、もっと頭を鍛えれば困ったことにはならないかもしれない。
◎経済学に「正解」を求めるのは無理か
昔から、経済学に対しては割り切れない疑問がある。経済学者やエコノミストたちの見解はなぜバラバラなのだろうか。
それぞれの思想信条や価値観が多様なのは当然としても、現実の経済がかかえている課題の目指す所が大きく異なっているとは思えない。雇用が安定し、個人が豊かになればいいに決まっている。そのためには、企業の収益が上がるのがいいのは当然だ。国が豊かになって社会資本が充実し快適な生活環境が確保できれば申し分ない。
大多数の人々が共有できるであろう上記のような目標は明らかであり、それを達成するための政策・処方箋を見い出すのが経済学の課題の筈だ。
同じゴールを目指す処方箋がバラバラだとすれば、それは経済学が不完全だからであり、経済学が発展すればひとつの正解にたどり着くはずだ。それが叡智というものだ。かつては、そのように思っていた。
しかし、経済学が正解を見い出すであろうというプリミティブな考えは幻想だと思うようになってきた。経済学は物理学でも数学でもない。社会科学は「科学」と言い切れるほど生易しいものではなさそうだ。社会科学に高度な数学が浸透し、優秀な頭脳が社会科学の発展に貢献しているのは確かだろう。しかし、それでも経済学に自然科学的な「正解」を求めるのは原理的に無理なような気がしてきた。
だと言って、役に立たない無意味なものとして経済学を切り捨てることもできない。社会科学に対しては自然科学とは違ったつきあい方をしなければならないようだ。
◎世界を合理的に理解する「知的ツール」としての経済学
『本当の経済の話をしよう』と『もうダマされないための経済学講義』は、ほとんど同時期に出版された中堅経済学者・若田部昌澄氏(47歳)の入門書で、2冊でワンセットとして読める。「インセンティブ」「トレード・オフ」「トレード」「マネー」という4つのキー概念で経済学的な考え方を説いている。前者は人文系の評論家・栗原裕一郎氏との対談形式なので採り上げる話題に広がりがあって面白い。
単なる理論解説ではなく、現実経済の分析が折り込まれているので納得しやすい(納得させられやすい?)。合理精神をバックボーンとした知的ツールとしての経済学を解説した本である。日銀批判や反TPP批判にも説得力があり、比較優位説などにもナルホドと思ってしまう。
『もうダマされないための・・・』というタイトルが標的にしている「トンデモ経済学」「俗流経済学」が何を指すかは必ずしも明確ではないが、具体的な一例として100年デフレやポスト近代を説く水野和夫氏がやり玉に上がっている。
著者が批判しているのは反経済学的な考えのようだ。変化を肯定するのが経済学的な考え方であるという指摘は興味深い。
しかし、ツールとしての経済学の有効性がどの程度のものかはよくわからない。経済を解明する理屈はどこにでも付く後知恵の膏薬ではないかという疑念は消えない。
◎現代の経済学が資本主義経済をおかしくしたのか
若田部氏より一回り以上年長で私(63歳)と同世代の佐伯啓思氏の近著『経済学の犯罪』は、まさに反経済学の書である。新自由主義に基づく市場中心主義を批判し、数学化に走りすぎた現代経済学を否定している。若田部氏から見ればトンデモ本の一つかもしれない。
しかし、私は佐伯氏の主張の大半に共感できる。かつては多様性があった経済学がシカゴ学派の勝利によってつまらない学問に収れんしてしまったことへの苛立ちに同世代的共感もある。本書には経済学を超えた文明論的な面白さを感じる。新手の保守ナショナリズムに見えるのが私にとっては難点だが、迫力のある本だ。
◎経済古典は役に立つのか
私は経済学を正規に勉強したことはなく、『国富論』も『資本論』も『一般理論』も読んだことはない。今さらこれらの古典に挑戦しようという意欲もない。関心の対象はあくまで現代の実体経済である。
ところが、現代の課題を主な題材としている新書本の世界において、経済の分野では古典を取り上げたものが目につく。今回読んだもの以外にも何点か目についた。混迷の時代には古典に立ち返ってみようということだろうか。
池田信夫氏の『古典で読み解く現代経済』でとりあげているのは『国富論』(アダム・スミス)、『資本論』(マルクス)、『リスク・不確実性・利潤』(フランク・ナイト)、『雇用、利子および貨幣の一般理論』(ケインズ)、『個人主義と経済秩序』(ハイエク)、『資本主義と自由』(フリードマン)の6点である。
竹中平蔵氏の『経済古典は役に立つ』はアダム・スミス、マルサス、リカード、マルサス、ケインズ、シュムペーター、ハイエク、フリードマンについて解説している。
高橋伸彰氏の『ケインズはこう言った』は、ケインズのツールではなく思想を現状の経済に適用しようとしたユニークな試みだ。
『経済学の犯罪』でもアダム・スミスは市場原理主義の教祖ではないという視点でかなりのページを割いたスミス解説を展開している。
これらの本を読んで感じたのは、経済古典の解説とは結局のところそれぞれの解説者の主張の裏つけとしての読解と解説だということだ。いかようにも読めるところが、古典の深さであり古典の古典たる所以だろう。今のところ、自分で確かめる元気はないが。
それにしても、竹中平蔵氏が古典を語っているのは意外だった。読んでみると、見事におのれに引き寄せて解説している。新自由主義、市場原理主義と批判されるのが腹にすえかねるようで、現実の経済政策は「経済思想」とは無縁だというような主張もある。本音だろうが身も蓋もない。
竹中平蔵氏らを不倶戴天の敵と見る小泉構造改革批判者である高橋伸彰氏の『ケインズはこう言った』は反市場原理主義の警世の書の趣がある。自らの経済理論と現実の経済が食い違っているとき、理論を検証しようとするのではなく、現実を理論に合わせるための施策をとるのは愚かだという主張には聴くべきところがある。
そんなこんなで、いろいろな見方・考え方があるのだなというバカみたいな感慨を得るだけに終わってしまった。個々の経済政策について私なりの考えがないわけではないが、それをつきつめる論拠がよく見えてこない。困ったものだ。
書店の新書コーナーに経済関係の本が目につくのは気のせいだろうか。いつの時代でも経済は喫緊の課題であり、今の経済を読み解きたいというニーズは常に存在する。とは言え、リーマンショック後の現代は、常にも増して経済の混迷が深まっており、書店の棚はその反映だらう。
で、以下の8冊を立て続けに読んでみた。そして、頭の中の混迷がいっそう深まった。
(1)『本当の経済の話をしよう』(若田部昌澄、栗原裕一郎/ちくま新書)
(2)『もうダマされないための経済学講義』(若田部昌澄/光文社新書)
(3)『経済学の犯罪:希少性の経済から過剰性の経済へ』(佐伯啓思/講談社現代新書)
(4)『古典で読み解く現代経済』(池田信夫/PHPビジネス新書)
(5)『「通貨」はこれからどうなるのか』(浜矩子/PHPビジネス新書)
(6)『経済古典は役に立つ』(竹中平蔵/光文社新書)
(7)『日本経済「円」の真実』(榊原英資/中経出版)
(8)『ケインズはこう言った:迷走日本を古典で斬る』(高橋伸彰/NHK出版新書)
これらの本を読んでも、経済を見る目はクリアにはならないし、経済学がわかった気にもならない。困ったものだ。
私にとって面白かったのは『本当の経済の話をしよう』と『経済学の犯罪』だった。著者の若田部昌澄氏と佐伯啓思氏はまったく立場が異なり、二つの本の内容は対立している----というより、かみあっていない。『経済学の犯罪』は経済学批判の書であって現状の経済の分析ではないのでかみあわないのは当然かもしれない。だが、この二人の言ってることが、それなりに納得できそうに思えるのが困ったことだ。
もちろん、「困った」の対象は情けないわが脳味噌であり、もっと頭を鍛えれば困ったことにはならないかもしれない。
◎経済学に「正解」を求めるのは無理か
昔から、経済学に対しては割り切れない疑問がある。経済学者やエコノミストたちの見解はなぜバラバラなのだろうか。
それぞれの思想信条や価値観が多様なのは当然としても、現実の経済がかかえている課題の目指す所が大きく異なっているとは思えない。雇用が安定し、個人が豊かになればいいに決まっている。そのためには、企業の収益が上がるのがいいのは当然だ。国が豊かになって社会資本が充実し快適な生活環境が確保できれば申し分ない。
大多数の人々が共有できるであろう上記のような目標は明らかであり、それを達成するための政策・処方箋を見い出すのが経済学の課題の筈だ。
同じゴールを目指す処方箋がバラバラだとすれば、それは経済学が不完全だからであり、経済学が発展すればひとつの正解にたどり着くはずだ。それが叡智というものだ。かつては、そのように思っていた。
しかし、経済学が正解を見い出すであろうというプリミティブな考えは幻想だと思うようになってきた。経済学は物理学でも数学でもない。社会科学は「科学」と言い切れるほど生易しいものではなさそうだ。社会科学に高度な数学が浸透し、優秀な頭脳が社会科学の発展に貢献しているのは確かだろう。しかし、それでも経済学に自然科学的な「正解」を求めるのは原理的に無理なような気がしてきた。
だと言って、役に立たない無意味なものとして経済学を切り捨てることもできない。社会科学に対しては自然科学とは違ったつきあい方をしなければならないようだ。
◎世界を合理的に理解する「知的ツール」としての経済学
『本当の経済の話をしよう』と『もうダマされないための経済学講義』は、ほとんど同時期に出版された中堅経済学者・若田部昌澄氏(47歳)の入門書で、2冊でワンセットとして読める。「インセンティブ」「トレード・オフ」「トレード」「マネー」という4つのキー概念で経済学的な考え方を説いている。前者は人文系の評論家・栗原裕一郎氏との対談形式なので採り上げる話題に広がりがあって面白い。
単なる理論解説ではなく、現実経済の分析が折り込まれているので納得しやすい(納得させられやすい?)。合理精神をバックボーンとした知的ツールとしての経済学を解説した本である。日銀批判や反TPP批判にも説得力があり、比較優位説などにもナルホドと思ってしまう。
『もうダマされないための・・・』というタイトルが標的にしている「トンデモ経済学」「俗流経済学」が何を指すかは必ずしも明確ではないが、具体的な一例として100年デフレやポスト近代を説く水野和夫氏がやり玉に上がっている。
著者が批判しているのは反経済学的な考えのようだ。変化を肯定するのが経済学的な考え方であるという指摘は興味深い。
しかし、ツールとしての経済学の有効性がどの程度のものかはよくわからない。経済を解明する理屈はどこにでも付く後知恵の膏薬ではないかという疑念は消えない。
◎現代の経済学が資本主義経済をおかしくしたのか
若田部氏より一回り以上年長で私(63歳)と同世代の佐伯啓思氏の近著『経済学の犯罪』は、まさに反経済学の書である。新自由主義に基づく市場中心主義を批判し、数学化に走りすぎた現代経済学を否定している。若田部氏から見ればトンデモ本の一つかもしれない。
しかし、私は佐伯氏の主張の大半に共感できる。かつては多様性があった経済学がシカゴ学派の勝利によってつまらない学問に収れんしてしまったことへの苛立ちに同世代的共感もある。本書には経済学を超えた文明論的な面白さを感じる。新手の保守ナショナリズムに見えるのが私にとっては難点だが、迫力のある本だ。
◎経済古典は役に立つのか
私は経済学を正規に勉強したことはなく、『国富論』も『資本論』も『一般理論』も読んだことはない。今さらこれらの古典に挑戦しようという意欲もない。関心の対象はあくまで現代の実体経済である。
ところが、現代の課題を主な題材としている新書本の世界において、経済の分野では古典を取り上げたものが目につく。今回読んだもの以外にも何点か目についた。混迷の時代には古典に立ち返ってみようということだろうか。
池田信夫氏の『古典で読み解く現代経済』でとりあげているのは『国富論』(アダム・スミス)、『資本論』(マルクス)、『リスク・不確実性・利潤』(フランク・ナイト)、『雇用、利子および貨幣の一般理論』(ケインズ)、『個人主義と経済秩序』(ハイエク)、『資本主義と自由』(フリードマン)の6点である。
竹中平蔵氏の『経済古典は役に立つ』はアダム・スミス、マルサス、リカード、マルサス、ケインズ、シュムペーター、ハイエク、フリードマンについて解説している。
高橋伸彰氏の『ケインズはこう言った』は、ケインズのツールではなく思想を現状の経済に適用しようとしたユニークな試みだ。
『経済学の犯罪』でもアダム・スミスは市場原理主義の教祖ではないという視点でかなりのページを割いたスミス解説を展開している。
これらの本を読んで感じたのは、経済古典の解説とは結局のところそれぞれの解説者の主張の裏つけとしての読解と解説だということだ。いかようにも読めるところが、古典の深さであり古典の古典たる所以だろう。今のところ、自分で確かめる元気はないが。
それにしても、竹中平蔵氏が古典を語っているのは意外だった。読んでみると、見事におのれに引き寄せて解説している。新自由主義、市場原理主義と批判されるのが腹にすえかねるようで、現実の経済政策は「経済思想」とは無縁だというような主張もある。本音だろうが身も蓋もない。
竹中平蔵氏らを不倶戴天の敵と見る小泉構造改革批判者である高橋伸彰氏の『ケインズはこう言った』は反市場原理主義の警世の書の趣がある。自らの経済理論と現実の経済が食い違っているとき、理論を検証しようとするのではなく、現実を理論に合わせるための施策をとるのは愚かだという主張には聴くべきところがある。
そんなこんなで、いろいろな見方・考え方があるのだなというバカみたいな感慨を得るだけに終わってしまった。個々の経済政策について私なりの考えがないわけではないが、それをつきつめる論拠がよく見えてこない。困ったものだ。
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