こんな人がいたとは知らなかった2024年09月14日

『奪還:日本人難民6万人を救った男』(城内康伸/新潮社)
 朝日新聞の書評(2024.8.17)で保坂正康氏が紹介していた『奪還』を読んだ。「引き揚げの神様」と呼ばれた民間人・松村義士男という人物に関するノンフィクションである。

 『奪還:日本人難民6万人を救った男』(城内康伸/新潮社)

 敗戦後の満州からの引き揚げの悲惨な苦労話はいろいろ読んだ気がする。だが、本書の内容は私にとっては初耳だった。こんな人物がいたのかと驚いた。

 舞台は北朝鮮である。私はうかつにも38度線は朝鮮戦争停戦によって定められた境界だと思っていた。この境界は朝鮮戦争以前の敗戦直後から存在していたのである。

 広島への原爆投下から2日後の1945年8月8日、ソ連が日本に宣戦布告し満州に侵攻する。そのため、敗戦後は38度線以北はソ連の管轄、38度線以南は米国の管轄となる。ソ連の撤収は北朝鮮が「独立」する1948年末である。

 当時、北朝鮮地域には約25万人の一般邦人が住んでいた。そこに満州から約7万人の避難民もなだれ込んで来た。南朝鮮地域にいた邦人は比較的スムーズに日本への引き揚げることができたが、38度線が事実上封鎖されていたため、北朝鮮地域には約32万人の邦人難民があふれる状況になった。食糧不足や厳寒のために命を落とす人も少なくなかった。

 なぜ、そんな事態になったのか。いろいろ理由はあるだろうが、ソ連軍が在留日本人の生活を無視して放置したからである。日本人送還の条件(費用負担など)に関して米ソがなかなか合意しなかったということもあった。北朝鮮地域でコレラの発生もあった。

 敗戦は1945年8月、その年の冬を生き延びた難民たちは、居住環境や装備品の悪化などで1946年の冬を越えるのは困難だとの焦りがあった。そんな難民の南朝鮮への脱出に尽力した「引き揚げの神様」が松村義士男である。

 労働運動に関わっていた松村は治安維持法違反で2回検挙されている。だが1940年頃には釈放され、朝鮮にある建設会社「西松組」で働いていた。敗戦3カ月前の1945年5月に33歳で召集され、敗戦時にはソ連軍の捕虜になる。そして、捕虜になった直後に脱走する。もし脱走しなければ、労働力としてシベリア送りになったはずだ。機転のきく人だったのだろう。

 脱走した後、現地で日本人難民救済のための組織を立ち上げ、多くの日本人を38度線の南へ脱出させる。そのために、ソ連軍や北朝鮮当局と事前に交渉して「黙認」を取り付ける。そんな微妙な交渉ができたのは、治安維持法違反で投獄されていたときの朝鮮人投獄者との「人脈」を活用したようだ。みずから「共産党員」と僭称したこともある。それにしても、脱走した捕虜がソ連軍と堂々と交渉できたのが面白い。修羅場に強い胆力の人である。

 ソ連が正式に日本人引き揚げを公認したのは1946年12月、すでに冬だった。それまでに、松村らの尽力によって大半の日本人が脱出していて、北朝鮮に残っていたのは8千人にすぎなかった。

 脱出事業完了後、松村は帰国して工務店を立ち上げる。だが、その工務店は人手にわたる。北朝鮮での脱出事業のために借り入れた資金の返済が破綻の原因らしい。1967年(敗戦後22年)に55歳で病死しているが、それまでの生活は不明である。

 敗戦後79年に出た本書を読んで、その時間の長さを感じる。空白の多い伝記にならざる得ない。事情を知る関係者の多くは存命でないので、人々が書き残した記録の渉猟がメインになる。それでも、著者は存命の引き揚げ者何人かにインタビューしている。16歳でソ連の侵攻を体験した94歳の女性は、ロシアのウクライナ侵攻のニュースに接して「あのときと全く一緒だわ。今も同じようなことが起きているなんて!」と語ったそうだ。