江戸の遺産のうえに成立した『「明治」という国家』 ― 2015年09月01日
『明治維新という過ち』(原田伊織/毎日ワンズ)という武士道精神をベースにしたややエキセントリックな反薩長本を読んだのをきっかけに、同書で言及していた『「明治」という国家(上)(下)』(司馬遼太郎/NHKブックス)を読んだ。
原田伊織氏の『明治維新という過ち』には「吉田松陰と司馬史観の罪」という章があり、司馬遼太郎氏の明治維新評価を否定している。坂本龍馬、吉田松陰、勝海舟を高く評価し、桜田門外ノ変を肯定的にとらえ、日露戦争以降から太平洋戦争までの歴史を「不連続」と見る司馬史観に大きな疑義を呈している。にもかかわらず、著者は司馬遼太郎氏の知性を高く評価し「心から尊敬し、大きな影響を受けてきた」と述べている。この屈折が不思議で、『明治維新という過ち』を読んでみたくなった。
司馬遼太郎という「国民作家」は、日本の多くの人の歴史観にかなりの影響を及ぼしていると思われる。私自身はさほどいい読者ではない。いくつかの作品を面白く読んできたが未読の作品も多い。幕末維新モノでは『翔ぶがごとく』『花神』『胡蝶の夢』などは未読だ。だが、巷間言われる「司馬史観」なるものを確認したいとは思っている。
『「明治」という国家』はテレビ番組でしゃべった内容をまとめたものだ。余談の多い講義調で、読みやすくて面白い。具体的な事例をいろいろ披露しながら、ざっくりと鳥瞰的に「国家」の姿を示す手法はあざやかだ。該博な知識にも圧倒される。
本書の冒頭で、これまで幕末から明治にかけての小説をずいぶん書いてきたが、今後はもう書かないだろうから、自分が得た「明治国家」の像を話すことにしたという趣旨のことを述べている。司馬遼太郎氏の小説にはエッセイの趣きもあるので、語りたいことがある限りは小説を書けるのではないかとも思えるが、歴史小説の作者にとって「小説」と「エッセイ」の間には大きな隔たりがあるらしい。そこを興味深く感じた。
本書全体の印象は『坂の上の雲』に似ている。明治を希望に満ちた青少年のようにとらえている点だ。こういう肯定的で優しいとらえ方は「正しい」とか「間違っている」と評価できるものではなく、多様な視角のひとつだと思える。本書を読んでいて、その視角が好ましく思えてくるのは、私が単純だからか。
近代化、進歩をどう見るかは実は簡単なことではないが、それを否定するのは難しい。司馬遼太郎氏も近代化や進歩を是とする考えをベースにしているように思える。だから、江戸幕府を倒して新たな時代になったことを評価し、「明治維新はおこらざるをえない革命だった」と述べている。ただし、その革命の内実や過程についての話は少なく、革命の必然性が説得的に語られているわけではない。
むしろ、本書で印象深いのは「明治という国家」が江戸時代のさまざまな遺産のうえに成立しているという指摘だ。幕臣だった勝海舟、小栗忠順、福沢諭吉らを「明治の父」「新時代の設計者」とし、西郷隆盛たちが作った新たな国家には青写真がなかったと指摘している。青写真がない故に無垢で初々しい魅力があったと言えるかもしれないが、おかしな話ではある。
また、江戸日本がプロテスタンティズムに似ていたという指摘には驚いた。武士道、農民の勤勉さ、大商人の家訓、町人の心学などによる倫理的風土が明治期の近代化を進めるバックボーンになっていたというのだ。
本書では勝海舟を高く評価していて、次のような記述もある。
「勝海舟は、日本史上、異常な存在でした。異様とは、みずからを架空の存在にしたことです。架空の存在とは、みずからを“国民”にしてしまったことです。“国民”がたれひとり日本に存在しない時代においてです。」
その勝海舟が真の国民1号として育てようとしたのが坂本龍馬で、幕末の志士の中で革命後の青写真、設計図をもった人は坂本龍馬だけだったとの考えも述べている。『竜馬がゆく』の作家のひいき目に感じられる。
明治維新の最大の功労者は、西郷隆盛や木戸孝允などではなく、徳川慶喜と勝海舟であるという逆説的な見解は興味深い。
このように勝海舟を高く評価している司馬遼太郎氏だが、勝海舟のもっていた「えぐさ」がにがてだと述べているのが面白い。勝海舟を主人公にした長編小説を書かなかった理由かもしれない。
本書で高く評価している徳川慶喜、勝海舟、小栗忠順、福沢諭吉らはいずれも幕府側の人物で、それぞれがかなり的確な世界認識と将来見通しをもった優秀な人材だった。しかし、この4人の関係はあまりよくない。彼らが協働してひとつの目標に邁進するということはなかった。優秀な人材がまとまるのが難しいのは常のことだが、長く続いた幕藩体制の制度疲労が協働を阻んだようだ。
司馬遼太郎氏は、日露戦争までの明治と太平洋戦争に突き進んだ昭和の間に不連続があるとしているが、『「明治」という国家』は、江戸日本と「革命」後の明治日本の不連続ではなく連続性を述べた本だ。
原田伊織氏の『明治維新という過ち』には「吉田松陰と司馬史観の罪」という章があり、司馬遼太郎氏の明治維新評価を否定している。坂本龍馬、吉田松陰、勝海舟を高く評価し、桜田門外ノ変を肯定的にとらえ、日露戦争以降から太平洋戦争までの歴史を「不連続」と見る司馬史観に大きな疑義を呈している。にもかかわらず、著者は司馬遼太郎氏の知性を高く評価し「心から尊敬し、大きな影響を受けてきた」と述べている。この屈折が不思議で、『明治維新という過ち』を読んでみたくなった。
司馬遼太郎という「国民作家」は、日本の多くの人の歴史観にかなりの影響を及ぼしていると思われる。私自身はさほどいい読者ではない。いくつかの作品を面白く読んできたが未読の作品も多い。幕末維新モノでは『翔ぶがごとく』『花神』『胡蝶の夢』などは未読だ。だが、巷間言われる「司馬史観」なるものを確認したいとは思っている。
『「明治」という国家』はテレビ番組でしゃべった内容をまとめたものだ。余談の多い講義調で、読みやすくて面白い。具体的な事例をいろいろ披露しながら、ざっくりと鳥瞰的に「国家」の姿を示す手法はあざやかだ。該博な知識にも圧倒される。
本書の冒頭で、これまで幕末から明治にかけての小説をずいぶん書いてきたが、今後はもう書かないだろうから、自分が得た「明治国家」の像を話すことにしたという趣旨のことを述べている。司馬遼太郎氏の小説にはエッセイの趣きもあるので、語りたいことがある限りは小説を書けるのではないかとも思えるが、歴史小説の作者にとって「小説」と「エッセイ」の間には大きな隔たりがあるらしい。そこを興味深く感じた。
本書全体の印象は『坂の上の雲』に似ている。明治を希望に満ちた青少年のようにとらえている点だ。こういう肯定的で優しいとらえ方は「正しい」とか「間違っている」と評価できるものではなく、多様な視角のひとつだと思える。本書を読んでいて、その視角が好ましく思えてくるのは、私が単純だからか。
近代化、進歩をどう見るかは実は簡単なことではないが、それを否定するのは難しい。司馬遼太郎氏も近代化や進歩を是とする考えをベースにしているように思える。だから、江戸幕府を倒して新たな時代になったことを評価し、「明治維新はおこらざるをえない革命だった」と述べている。ただし、その革命の内実や過程についての話は少なく、革命の必然性が説得的に語られているわけではない。
むしろ、本書で印象深いのは「明治という国家」が江戸時代のさまざまな遺産のうえに成立しているという指摘だ。幕臣だった勝海舟、小栗忠順、福沢諭吉らを「明治の父」「新時代の設計者」とし、西郷隆盛たちが作った新たな国家には青写真がなかったと指摘している。青写真がない故に無垢で初々しい魅力があったと言えるかもしれないが、おかしな話ではある。
また、江戸日本がプロテスタンティズムに似ていたという指摘には驚いた。武士道、農民の勤勉さ、大商人の家訓、町人の心学などによる倫理的風土が明治期の近代化を進めるバックボーンになっていたというのだ。
本書では勝海舟を高く評価していて、次のような記述もある。
「勝海舟は、日本史上、異常な存在でした。異様とは、みずからを架空の存在にしたことです。架空の存在とは、みずからを“国民”にしてしまったことです。“国民”がたれひとり日本に存在しない時代においてです。」
その勝海舟が真の国民1号として育てようとしたのが坂本龍馬で、幕末の志士の中で革命後の青写真、設計図をもった人は坂本龍馬だけだったとの考えも述べている。『竜馬がゆく』の作家のひいき目に感じられる。
明治維新の最大の功労者は、西郷隆盛や木戸孝允などではなく、徳川慶喜と勝海舟であるという逆説的な見解は興味深い。
このように勝海舟を高く評価している司馬遼太郎氏だが、勝海舟のもっていた「えぐさ」がにがてだと述べているのが面白い。勝海舟を主人公にした長編小説を書かなかった理由かもしれない。
本書で高く評価している徳川慶喜、勝海舟、小栗忠順、福沢諭吉らはいずれも幕府側の人物で、それぞれがかなり的確な世界認識と将来見通しをもった優秀な人材だった。しかし、この4人の関係はあまりよくない。彼らが協働してひとつの目標に邁進するということはなかった。優秀な人材がまとまるのが難しいのは常のことだが、長く続いた幕藩体制の制度疲労が協働を阻んだようだ。
司馬遼太郎氏は、日露戦争までの明治と太平洋戦争に突き進んだ昭和の間に不連続があるとしているが、『「明治」という国家』は、江戸日本と「革命」後の明治日本の不連続ではなく連続性を述べた本だ。
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