「わかっていないこと」の面白さ --- 世界に謎は尽きないが ― 2011年02月15日
次の2冊を続けて読んだ。
『物理学はこんなこともわからない』(川久保達之/PHPサイエンス・ワールド新書/2011.2)
『物理・こんなことがまだわからない』(大槻義彦/ブルーバックス/1998.8)
よく似たタイトルの新書である。最近出版された川久保氏の本の「まえがき」で大槻氏の本に言及していたので、大槻氏の本も入手して読んだ。
川久保氏が大槻氏の本の存在を知りながら、あえて似たタイトルにしたのは、他にタイトルのつけようがなかったからだろう。私がこの2冊を読んだのは、これらのタイトルに惹かれたからである。
「わかっていること」よりも「わかっていないこと」に惹かれるのは、ある種の野次馬根性であり、「へぇー!」と驚いてみたいからだと思う。謎がない世界よりは、謎に満ちた世界の方が面白いに決まっている。
物理学の世界に解明できていない問題がいろいろあることは承知している。「新書大賞2011」受賞の『宇宙は何でできているか』(村山斉/幻冬舎新書)は、現役の物理学者が素粒子物理学の現状をふまえて、まだ解明できていない謎を要領よく紹介した好著だ。『宇宙は何でできているか』で提示されている謎は「暗黒物質(ダークマター)」「消えた反物質」「暗黒エネルギー」などだ。どれも超弩級の「わかっていないこと」である。
『物理学はこんなこともわからない』『物理・こんなことがまだわからない』には、「暗黒物質」「消えた反物質」「暗黒エネルギー」などの話題はほとんど登場しない。これらは「こんなこと」などとは言えない大問題だからだ。
では、どんなことが「(わかっていない)こんなこと」なのか。
大槻氏の本では次のような話題を取り上げている。
・雷雲になぜ電気が発生するか
・「個体」が「液体」に濡れるという現象の詳細
・高分子が短時間で最適な形になるメカニズム
・地震の前兆といわれる電磁波
・粉粒体の物理
・渦、乱流、地球規模の大気の動きなどの複雑系
川久保氏の本では次のような話題を取り上げている。
・樹木がてっぺんまで水を吸い上げるしくみの詳細
・筋肉のこりと緩和に関する物理や化学
・ゾウリムシの走熱性の詳細
・渦流のメカニズムの詳細
・非平衡開放系における相転移現象の詳細
・生体分子エンジンの動作メカニズム
大槻氏の本と川久保氏の本は、タイトルやテーマは似ているが、記述スタイルはかなり異なっている。
大槻氏の『物理・こんなことがまだわからない』は、高校生を対象にした啓蒙物語のスタイルで、物理学が扱うさまざまなテーマを大雑把に紹介した概説書である。
川久保氏の『物理学はこんなこともわからない』も、若い人の興味を喚起することを目的としているが、研究現場からのレポートのようなスタイルになっている。現象を物理学的に解明していく実例がまことに教育的である。
これらの本を読んであらためて「わかる」と「わからない」のせめぎあいを思った。「わかっていないこと」に真の面白さを感じるのは、実は容易なことではない。
「わかっていること」も「わかっていないこと」も、その大半は他人の誰か(おそらく、立派な学者)が「わかった」「わからない」を判断したものを伝え聞いているだけで、自分で判断できているわけではない。それを、自身の頭を通さずに無批判に受け容れているだけでは「わかった」と「わからない」にさほどの違いを感ずることはできない。
「わかっていないこと」の面白さを堪能するには、「わかる」の快感が前提になるように思える。「わからない」が「わかる」に転換する快感、つまりは「勉強・学習」のようなものに喜びを見出すことができてこそ、「わかっていないこと=謎」を楽しむことができるのだ。しんどいことである。
『物理学はこんなこともわからない』(川久保達之/PHPサイエンス・ワールド新書/2011.2)
『物理・こんなことがまだわからない』(大槻義彦/ブルーバックス/1998.8)
よく似たタイトルの新書である。最近出版された川久保氏の本の「まえがき」で大槻氏の本に言及していたので、大槻氏の本も入手して読んだ。
川久保氏が大槻氏の本の存在を知りながら、あえて似たタイトルにしたのは、他にタイトルのつけようがなかったからだろう。私がこの2冊を読んだのは、これらのタイトルに惹かれたからである。
「わかっていること」よりも「わかっていないこと」に惹かれるのは、ある種の野次馬根性であり、「へぇー!」と驚いてみたいからだと思う。謎がない世界よりは、謎に満ちた世界の方が面白いに決まっている。
物理学の世界に解明できていない問題がいろいろあることは承知している。「新書大賞2011」受賞の『宇宙は何でできているか』(村山斉/幻冬舎新書)は、現役の物理学者が素粒子物理学の現状をふまえて、まだ解明できていない謎を要領よく紹介した好著だ。『宇宙は何でできているか』で提示されている謎は「暗黒物質(ダークマター)」「消えた反物質」「暗黒エネルギー」などだ。どれも超弩級の「わかっていないこと」である。
『物理学はこんなこともわからない』『物理・こんなことがまだわからない』には、「暗黒物質」「消えた反物質」「暗黒エネルギー」などの話題はほとんど登場しない。これらは「こんなこと」などとは言えない大問題だからだ。
では、どんなことが「(わかっていない)こんなこと」なのか。
大槻氏の本では次のような話題を取り上げている。
・雷雲になぜ電気が発生するか
・「個体」が「液体」に濡れるという現象の詳細
・高分子が短時間で最適な形になるメカニズム
・地震の前兆といわれる電磁波
・粉粒体の物理
・渦、乱流、地球規模の大気の動きなどの複雑系
川久保氏の本では次のような話題を取り上げている。
・樹木がてっぺんまで水を吸い上げるしくみの詳細
・筋肉のこりと緩和に関する物理や化学
・ゾウリムシの走熱性の詳細
・渦流のメカニズムの詳細
・非平衡開放系における相転移現象の詳細
・生体分子エンジンの動作メカニズム
大槻氏の本と川久保氏の本は、タイトルやテーマは似ているが、記述スタイルはかなり異なっている。
大槻氏の『物理・こんなことがまだわからない』は、高校生を対象にした啓蒙物語のスタイルで、物理学が扱うさまざまなテーマを大雑把に紹介した概説書である。
川久保氏の『物理学はこんなこともわからない』も、若い人の興味を喚起することを目的としているが、研究現場からのレポートのようなスタイルになっている。現象を物理学的に解明していく実例がまことに教育的である。
これらの本を読んであらためて「わかる」と「わからない」のせめぎあいを思った。「わかっていないこと」に真の面白さを感じるのは、実は容易なことではない。
「わかっていること」も「わかっていないこと」も、その大半は他人の誰か(おそらく、立派な学者)が「わかった」「わからない」を判断したものを伝え聞いているだけで、自分で判断できているわけではない。それを、自身の頭を通さずに無批判に受け容れているだけでは「わかった」と「わからない」にさほどの違いを感ずることはできない。
「わかっていないこと」の面白さを堪能するには、「わかる」の快感が前提になるように思える。「わからない」が「わかる」に転換する快感、つまりは「勉強・学習」のようなものに喜びを見出すことができてこそ、「わかっていないこと=謎」を楽しむことができるのだ。しんどいことである。
「ミシマダブル」で三島由紀夫の肉声を聞いた ― 2011年02月18日
シアターコクーンで『サド侯爵夫人』と『わが友ヒットラー』を観た。三島由紀夫の代表的な芝居である。演出は文化勲章の蜷川幸雄、役者は東山紀之、生田斗真、平幹二朗、木場勝己など。「ミシマダブル」というタイトルで、同じ役者が二つの芝居を交互に演ずる公演だ。
2作品とも発表当時の1960年代末に戯曲を読んだ記憶はある。舞台を観るのは初めてだ。かねがね機会があれば観たいと思っていたので、蜷川幸雄演出で上演されると知り、発売初日にチケットを入手した。予約専用電話は朝から話中で、2時間ほど電話をかけ続け、さほどよくはない席を入手できた。
蜷川幸雄の演出で『サド侯爵夫人』や『わが友ヒットラー』を観ていると、ついノスタルジックな感慨にとらわれる。
蜷川幸雄の芝居を初めて観たのは40年以上昔の学生時代だ。当時、新宿アートシアターで、映画上演後の夜の時間、清水邦夫作・蜷川幸雄演出の『想い出の日本一万年』『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』などを観た。「紅テント」や「黒テント」をはじめとする多様な「同時代演劇」が活気づいていた熱い時代だった。
そんな時代だったから、古臭い「新劇」の魅力は相対的に低下していた。三島由紀夫の新作戯曲は読んだが、あえて高い金を払って劇場まで行く気にはなれなかった。三島作品は戯曲を読むだけで十分という気分もあった。
あの頃、蜷川幸雄が文化勲章受章者になるとは夢にも思わなかった。蜷川幸雄も変貌しただろうが、日本の文化状況も変わったのだと思う。菅直人が落選を続けていた頃、彼が総理大臣になるとは予想できなかったことに似ている。60年以上生きているといろいろなことが起こる。
「ミシマダブル」の特徴は同じ役者が2本を交互に演ずる点にある。『サド侯爵夫人』は女性6人だけの芝居、『わが友ヒットラー』は男性4人だけの芝居だ。役者は全員男性だから『サド侯爵夫人』では男性が女性を演ずることになる。
どんな芝居になるかと思っていたが、意外に違和感はなかった。平幹二朗も東山紀之もフランス貴婦人の衣装とカツラで登場する。歌舞伎の女形のように声音を変えるわけではないが、不思議なことに男の声でも女性に見えてきた。
むしろ『わが友ヒットラー』の生田斗真(ヒトラー)や東山紀之(レーム)に、女性がヒトラーやレームを演じているような違和感を憶えた。これは『サド侯爵夫人』を先に観たせいではなく、ヒトラーやレームのように元々芝居がかった強烈な人物を美形タレントが演ずるのが難しいということかもしれない。
いずれにしても、舞台俳優の平幹二朗、木場勝己らの芝居に貫録と余裕が感じられたのに対して、東山紀之や生田斗真は長広舌の膨大な科白をこなすが精一杯という印象だ。よくやっているとは思うが。
『サド侯爵夫人』と『わが友ヒットラー』を同じ役者で交互に演ずることには、二つを重ね合わせて一つの世界を浮かび上がらせる効果があるのだと思う。おぼろげに見えるその世界が何であるかは表現しにくい。華麗な科白で紡ぎあげる演劇空間であることは確かだが。
3幕ずつの二つの芝居、計6幕が共通の一つのセットで違和感なく上演できるというのは発見だった。
私は『サド侯爵夫人』→『わが友ヒットラー』の順で別々の日に観た。これは三島由紀夫の執筆順でもある。しかし、セットで観るとしたら『わが友ヒットラー』→『サド侯爵夫人』が正解のようだ。
マチネーの日の昼と夜の組み合わせも、日によって違うので順番をつける意図はないかもしれない。しかし、演出には『わが友ヒットラー』→『サド侯爵夫人』という順番の意図があるように思えた。
そう考えた理由の一つは、最終場面の背景音の違いである。
この二つの芝居は、二つとも開始場面と最終場面に面白い同じ仕掛けがある。芝居の始まる前、舞台上にセットはなく、舞台奥の大扉が明け放たれている。そこからは、楽屋のさらに奥の外界が見えている。人通りや車の出入りも見える。その状態から、セットが組まれ幕が降りたり上がったりして芝居の空間が作られて行く。
芝居の最終場面では、役者が舞台に立っている状態で開始場面の逆が繰り返される。役者の世界と外界が地続きになって行くのだ。
芝居とは観客を異世界にさらって行くものである。開始時と終了時の風変わりな演出は、その「さらわれ感」をことさら強調することで、逆に芝居空間と日常現実空間を通底させようとしているように思える。
で、『サド侯爵夫人』の最終場面では、セットが片付けられて外界と地続きになって行く中で、騒音のようなざわめきが流れる。それは、三島由紀夫の最後の演説である。市ヶ谷の自衛隊のバルコニーで甲高い声で叫んでいた声が途切れ途切れに聞こえてくる。
これは、芝居空間をさらに別の空間に変えようとする演出であり、三島由紀夫へのオマージュかもしれない。
ただし、私はこの最終場面で少々鼻白んだ。何年か前に蜷川幸雄が三島由紀夫の「近代能楽集・弱法師」を演出したとき、同じテを使っていたからだ。あの時は、その効果にびっくりし、感心した。今度は「またかよ」という気がした。
『わが友ヒットラー』も同じテを使うかと思っていたら、こちらの最終場面の効果音は「ジーハイル」のうねりのような歓声だった。
『わが友ヒットラー』と『サド侯爵夫人』を比べたとき、前者の方がわかりやすいが、戯曲としての完成度は後者の方が高い。
『わが友ヒットラー』は、1970年11月25日に割腹自殺した三島由紀夫の世界への一つの入口であり、『サド侯爵夫人』は三島由紀夫が築きあげた華麗な伽藍であり、三島演劇の真打である。だから、この順番が正解で、最終場面に三島由紀夫の肉声を出したのだと思う。
三島由紀夫が『わが友ヒットラー』を書いたとき、すでに「盾の会」を結成していた。「三島由紀夫の兵隊ごっこ」と揶揄された私兵である。『わが友ヒットラー』では、主人公である突撃隊幕僚長レームを「三度の飯より兵隊ごっこが好き」と揶揄する科白がある。レームの軍服や兵隊へのこだわりかたには「盾の会」を連想させる箇所が多い。しかし、この芝居においてヒトラーに粛清されるレームに三島由紀夫が感情移入しているようには見えない。作者はあくまで冷徹である。
ということは、自身で「盾の会」を主催しながら、その自分を客観視する劇作家の目も備えていたのである。
だから、この芝居は三島由紀夫世界への入口になり得るのだ。
『サド侯爵夫人』は、科白の多い芝居だ。三島美学の反映のような修辞を延々としゃべる場面も多い。役者は大変だろう。男性が演じてもあまり違和感を感じなかったのは、所作を観るより科白を聞く方に神経が行くからかもしれない。いずれにしても、芝居は「芝居がっかっている」方が面白いし、「決め科白」が多い方が楽しい。
そんなことを考えながら、「ミシマダブル」を観ていると、あらためて、あの芝居がかった三島事件こそが三島由紀夫作・演出・主演の三島演劇だったのだと感じられた。集大成とか総決算と言えるほどの芝居ではなかったかもしれないが、芝居という媚薬に魅せられた劇作家は劇作家にとどまることができなかったのだろう。
2作品とも発表当時の1960年代末に戯曲を読んだ記憶はある。舞台を観るのは初めてだ。かねがね機会があれば観たいと思っていたので、蜷川幸雄演出で上演されると知り、発売初日にチケットを入手した。予約専用電話は朝から話中で、2時間ほど電話をかけ続け、さほどよくはない席を入手できた。
蜷川幸雄の演出で『サド侯爵夫人』や『わが友ヒットラー』を観ていると、ついノスタルジックな感慨にとらわれる。
蜷川幸雄の芝居を初めて観たのは40年以上昔の学生時代だ。当時、新宿アートシアターで、映画上演後の夜の時間、清水邦夫作・蜷川幸雄演出の『想い出の日本一万年』『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』などを観た。「紅テント」や「黒テント」をはじめとする多様な「同時代演劇」が活気づいていた熱い時代だった。
そんな時代だったから、古臭い「新劇」の魅力は相対的に低下していた。三島由紀夫の新作戯曲は読んだが、あえて高い金を払って劇場まで行く気にはなれなかった。三島作品は戯曲を読むだけで十分という気分もあった。
あの頃、蜷川幸雄が文化勲章受章者になるとは夢にも思わなかった。蜷川幸雄も変貌しただろうが、日本の文化状況も変わったのだと思う。菅直人が落選を続けていた頃、彼が総理大臣になるとは予想できなかったことに似ている。60年以上生きているといろいろなことが起こる。
「ミシマダブル」の特徴は同じ役者が2本を交互に演ずる点にある。『サド侯爵夫人』は女性6人だけの芝居、『わが友ヒットラー』は男性4人だけの芝居だ。役者は全員男性だから『サド侯爵夫人』では男性が女性を演ずることになる。
どんな芝居になるかと思っていたが、意外に違和感はなかった。平幹二朗も東山紀之もフランス貴婦人の衣装とカツラで登場する。歌舞伎の女形のように声音を変えるわけではないが、不思議なことに男の声でも女性に見えてきた。
むしろ『わが友ヒットラー』の生田斗真(ヒトラー)や東山紀之(レーム)に、女性がヒトラーやレームを演じているような違和感を憶えた。これは『サド侯爵夫人』を先に観たせいではなく、ヒトラーやレームのように元々芝居がかった強烈な人物を美形タレントが演ずるのが難しいということかもしれない。
いずれにしても、舞台俳優の平幹二朗、木場勝己らの芝居に貫録と余裕が感じられたのに対して、東山紀之や生田斗真は長広舌の膨大な科白をこなすが精一杯という印象だ。よくやっているとは思うが。
『サド侯爵夫人』と『わが友ヒットラー』を同じ役者で交互に演ずることには、二つを重ね合わせて一つの世界を浮かび上がらせる効果があるのだと思う。おぼろげに見えるその世界が何であるかは表現しにくい。華麗な科白で紡ぎあげる演劇空間であることは確かだが。
3幕ずつの二つの芝居、計6幕が共通の一つのセットで違和感なく上演できるというのは発見だった。
私は『サド侯爵夫人』→『わが友ヒットラー』の順で別々の日に観た。これは三島由紀夫の執筆順でもある。しかし、セットで観るとしたら『わが友ヒットラー』→『サド侯爵夫人』が正解のようだ。
マチネーの日の昼と夜の組み合わせも、日によって違うので順番をつける意図はないかもしれない。しかし、演出には『わが友ヒットラー』→『サド侯爵夫人』という順番の意図があるように思えた。
そう考えた理由の一つは、最終場面の背景音の違いである。
この二つの芝居は、二つとも開始場面と最終場面に面白い同じ仕掛けがある。芝居の始まる前、舞台上にセットはなく、舞台奥の大扉が明け放たれている。そこからは、楽屋のさらに奥の外界が見えている。人通りや車の出入りも見える。その状態から、セットが組まれ幕が降りたり上がったりして芝居の空間が作られて行く。
芝居の最終場面では、役者が舞台に立っている状態で開始場面の逆が繰り返される。役者の世界と外界が地続きになって行くのだ。
芝居とは観客を異世界にさらって行くものである。開始時と終了時の風変わりな演出は、その「さらわれ感」をことさら強調することで、逆に芝居空間と日常現実空間を通底させようとしているように思える。
で、『サド侯爵夫人』の最終場面では、セットが片付けられて外界と地続きになって行く中で、騒音のようなざわめきが流れる。それは、三島由紀夫の最後の演説である。市ヶ谷の自衛隊のバルコニーで甲高い声で叫んでいた声が途切れ途切れに聞こえてくる。
これは、芝居空間をさらに別の空間に変えようとする演出であり、三島由紀夫へのオマージュかもしれない。
ただし、私はこの最終場面で少々鼻白んだ。何年か前に蜷川幸雄が三島由紀夫の「近代能楽集・弱法師」を演出したとき、同じテを使っていたからだ。あの時は、その効果にびっくりし、感心した。今度は「またかよ」という気がした。
『わが友ヒットラー』も同じテを使うかと思っていたら、こちらの最終場面の効果音は「ジーハイル」のうねりのような歓声だった。
『わが友ヒットラー』と『サド侯爵夫人』を比べたとき、前者の方がわかりやすいが、戯曲としての完成度は後者の方が高い。
『わが友ヒットラー』は、1970年11月25日に割腹自殺した三島由紀夫の世界への一つの入口であり、『サド侯爵夫人』は三島由紀夫が築きあげた華麗な伽藍であり、三島演劇の真打である。だから、この順番が正解で、最終場面に三島由紀夫の肉声を出したのだと思う。
三島由紀夫が『わが友ヒットラー』を書いたとき、すでに「盾の会」を結成していた。「三島由紀夫の兵隊ごっこ」と揶揄された私兵である。『わが友ヒットラー』では、主人公である突撃隊幕僚長レームを「三度の飯より兵隊ごっこが好き」と揶揄する科白がある。レームの軍服や兵隊へのこだわりかたには「盾の会」を連想させる箇所が多い。しかし、この芝居においてヒトラーに粛清されるレームに三島由紀夫が感情移入しているようには見えない。作者はあくまで冷徹である。
ということは、自身で「盾の会」を主催しながら、その自分を客観視する劇作家の目も備えていたのである。
だから、この芝居は三島由紀夫世界への入口になり得るのだ。
『サド侯爵夫人』は、科白の多い芝居だ。三島美学の反映のような修辞を延々としゃべる場面も多い。役者は大変だろう。男性が演じてもあまり違和感を感じなかったのは、所作を観るより科白を聞く方に神経が行くからかもしれない。いずれにしても、芝居は「芝居がっかっている」方が面白いし、「決め科白」が多い方が楽しい。
そんなことを考えながら、「ミシマダブル」を観ていると、あらためて、あの芝居がかった三島事件こそが三島由紀夫作・演出・主演の三島演劇だったのだと感じられた。集大成とか総決算と言えるほどの芝居ではなかったかもしれないが、芝居という媚薬に魅せられた劇作家は劇作家にとどまることができなかったのだろう。
カフカは近代産業の内幕を把握した有能な官吏だった ― 2011年02月28日
8年前、ネット句会でこんな句を作ったことがある。
短日のカフカの街の子犬かな
題詠の題が「子犬」で、苦しみまぎれにエイヤっと作った句だ。「道に迷ってさまよう子犬」を想像し、それがカフカのイメージに重なった。プラハに行ったことはなかったが、頭の中で未知のプラハを幻視していた。以来、いつかはプラハに行きたいと思っていた。
来月、中欧観光旅行でプラハを訪れる予定だ。それを機会に『カフカの生涯』(池内紀/白水社)を読んだ。面白い評伝だった。評伝が引き金になって『失踪者』(カフカ/池内紀訳/カフカ小説全集1/白水社)も読んだ。
カフカを読んだのはかなり昔だ。『変身』『審判』『城』などの代表作は読んだが、長編『アメリカ』は未読だった。『カフカの生涯』を読んで、『アメリカ』も読もうと思った。かつて『アメリカ』というタイトルだった長編は、現在は『失踪者』というタイトルで出版されていた。
生前は無名作家だったカフカは3つの長編を残した。『審判』『城』『アメリカ→失踪者』である。3作とも未完で、カフカの死後、友人のブロートが原稿ノートを整理して出版した。『アメリカ』が『失踪者』に変わったのは、1968年にブロートが亡くなってカフカのノートが「解禁」になり、カフカの手稿の研究が進んだせいだそうだ。
ブロートが亡くなった1968年と言えば、私がカフカを読んでいた頃だ。私にとって、カフカは「二十世紀の古典」のような存在で、「世界名作」の範疇に入る作家だった。しかし、カフカの評伝を読んで、思っていた以上に私たちと年代の近い作家だと気付いた。
カフカと同年齢(1983年生まれ)の著名人を調べると、志賀直哉、北一輝、ムッソリーニ、ユトリロなどが出てくる。意外に最近の人だと再認識した。カフカは1924年に40歳で亡くなっている。カフカが生き延びていれば、私が生まれた1948年には65歳。私から見れば祖父の世代だったのだ。
カフカが死んだ1924年はヒトラーのミュンヘン一揆の翌年である。カフカはナチスの台頭や第二次世界大戦を見ることなく生涯を終えている。若くして死んでいるから、昔の人のような気がしていたのだ。カフカがもっと生きていれば、その家族たちのようにアウシュビッツで命を落としていたかもしれない。そうなっていれば、作家カフカのイメージも多少違ってきただろう。
『カフカの生涯』の「はじめに -- カフカの肖像」は、わずか3頁でカフカという人物の奇妙な魅力をざっくりと印象的に描写している。この作家の生涯をたどりたくなる気分を盛り上げてくれる秀逸なプロローグだ。
本編はこのプロローグの敷衍である。本書を読み終えて感じたのは、カフカのあの奇妙な作品群は、結局は彼の境涯を綴った「私小説」だったのではないかという想いだ。これは、カフカ小説全集の翻訳者でもある池内紀氏が、彼自身の作品解釈をふまえてこの評伝を書いているからに他ならない。カフカの超現実的で奇妙な世界が現実の生活を反映している、というのは考えてみれば当然のことかもしれない。説得力のある読み解きだと思った。
半官半民の労働者障害保険協会の職員としての仕事の合間に小説を書いていたカフカにとって、小説を書くことは決して余技ではなかった。彼は小説を書くことを生活のメインにしていた。となると、職場では鬱屈しているサラリーマンのようにも見えるが、実はなかなか有能な職員だったようだ。それなりに出世もしている。
池内紀氏は、職場での業績も残しているカフカについて次のように述べている。
「カフカは数多くの出張を通して近代産業の内幕というものをよく知っていた。その点、二十世紀の作家たちのなかで、ただ一人の例外だった。」
「(大工場経営者たちが)いかなる素姓の者であり、どのような労働条件のもとに短期間で財をなしたか、カフカはよく知っていた。やがて「プロレタリア作家」とよばれて登場した者たちよりも、よリひろく、よりくわしく知っていた。(略)ただ彼は小説を書くにあたり、ついぞプロレタリア作家のようなリアリズムのスタイルはとらなかった。」
カフカの世界には、専業小説家(?!)では捉えることができなかった近代産業の実態があるという指摘は、カフカという作家の特異性と普遍性を裏付けるものだろう。
かつて、ある先輩が「カフカばりの小説なんて誰にでもすぐに書ける。ぼくが書きたいのは、人情味のある話だ」と語るのを聞いて、人情話はともかく、前段の指摘にはうなづける気がしたことがある。寓話の一つや二つは、だれでもひねり出せそうな気がする。しかし、多くの読者をそんな気にさせるところが、じつはカフカの普遍性なのだ。その世界には、リアリズム作家以上に切実でリアルな現実世界の把握という裏付けがあり、それは頭の中だけで獲得できるものではなかったようだ。
そんなところに、カフカが大きな影響力をもつ作家になった秘密のひとつがあるのだろう。
また、『カフカの生涯』によって、二十世紀ヨーロッパにおける「ユダヤ人」についての認識が少し深まった。日本に住む私たちには実感しにくい問題だが、「ユダヤ人」という存在は当のユダヤ人たちにとっても、やっかいで奇妙な問題だったようだ。
カフカの死後、カフカを世に広めた友人ブロートは、プラハ大学で1年後輩のユダヤ人で、シオニストだった。カフカより早く世に出て売れっ子作家になったブロートは後にイスラエルに移住する。カフカ自身はシオニズムとは一定の距離をとっていたらしい。
ブロートが編集した『アメリカ』が、手稿版の『失踪者』に改訂されるにあたって、物語の終わり方が異なっている。というか、元々は未完のノートなので、残された断片をどのような形で発表するかという問題である。
池内紀氏の解説によると、ブロートは「新大陸で行きくれた主人公が、最後には救済を見つける」形にしたのだ。「熱烈なシオニストであり、みずからもいち早く『約束の地』イスラエルへ移り、また友人カフカに一人のメシアを見ようとしたブロートには、物語は救済で終わらなくてはならない。」という考えがあった。
そのようなブロートのフィルターを除いて、ノートのままの形にしたのが『失踪者』である。
いずれにしても、カフカ自身が途中で放棄した小説なので、宙ぶらりんなのはいたしかたない。やはり『審判』や『城』の方が面白いと思えた。
『カフカの生涯』には、1967年に著者が留学中のウィーン大学の講演会で、イスラエルから来たブロートを目撃した話が出てくる。この目撃談は印象的だ。少し引用してみる。
「八十四歳で死んだとき、ブロートの著作は八十三冊に達していた。(略)にもかかわらず『カフカの作品の編集者』が、そのすべてを忘れさせた。マックス・ブロートの名は、ひとえにカフカの名と結びついて後世にのこった。(略)死の前年、ウィーンで見かけた老人に、どこかしら受難者めいた面影があったのは、自分が引き受けた役回りに殉じたせいだったかもしれない。」
カフカには孤独で内向的な受難者のような面影が感じられるが、実は、かけがいのない友人や女性たちに恵まれ、ひたすら小説と手紙を書き続けることができた、やや身勝手で幸福な人だったようにも思える。
久々にカフカの小説を読みながら感じたのは、物語を読んでる気分ではなく他人の思弁的な日記帳を読んでいる気分だった。断片だけを味わいながら読み進めることができた、とも言える。こんな気分になるのは『カフカの生涯』読了直後に小説を読んだからかもしれないが。
アメリカを見ることなく新大陸を放浪する青年を描いたカフカ、その作家が暮らした街プラハへ、プラハを見ることなく駄句を詠んだ私が赴こうとしている。カフカの小説のように、いつまで経っても到達できな場所ではないだろう。
短日のカフカの街の子犬かな
題詠の題が「子犬」で、苦しみまぎれにエイヤっと作った句だ。「道に迷ってさまよう子犬」を想像し、それがカフカのイメージに重なった。プラハに行ったことはなかったが、頭の中で未知のプラハを幻視していた。以来、いつかはプラハに行きたいと思っていた。
来月、中欧観光旅行でプラハを訪れる予定だ。それを機会に『カフカの生涯』(池内紀/白水社)を読んだ。面白い評伝だった。評伝が引き金になって『失踪者』(カフカ/池内紀訳/カフカ小説全集1/白水社)も読んだ。
カフカを読んだのはかなり昔だ。『変身』『審判』『城』などの代表作は読んだが、長編『アメリカ』は未読だった。『カフカの生涯』を読んで、『アメリカ』も読もうと思った。かつて『アメリカ』というタイトルだった長編は、現在は『失踪者』というタイトルで出版されていた。
生前は無名作家だったカフカは3つの長編を残した。『審判』『城』『アメリカ→失踪者』である。3作とも未完で、カフカの死後、友人のブロートが原稿ノートを整理して出版した。『アメリカ』が『失踪者』に変わったのは、1968年にブロートが亡くなってカフカのノートが「解禁」になり、カフカの手稿の研究が進んだせいだそうだ。
ブロートが亡くなった1968年と言えば、私がカフカを読んでいた頃だ。私にとって、カフカは「二十世紀の古典」のような存在で、「世界名作」の範疇に入る作家だった。しかし、カフカの評伝を読んで、思っていた以上に私たちと年代の近い作家だと気付いた。
カフカと同年齢(1983年生まれ)の著名人を調べると、志賀直哉、北一輝、ムッソリーニ、ユトリロなどが出てくる。意外に最近の人だと再認識した。カフカは1924年に40歳で亡くなっている。カフカが生き延びていれば、私が生まれた1948年には65歳。私から見れば祖父の世代だったのだ。
カフカが死んだ1924年はヒトラーのミュンヘン一揆の翌年である。カフカはナチスの台頭や第二次世界大戦を見ることなく生涯を終えている。若くして死んでいるから、昔の人のような気がしていたのだ。カフカがもっと生きていれば、その家族たちのようにアウシュビッツで命を落としていたかもしれない。そうなっていれば、作家カフカのイメージも多少違ってきただろう。
『カフカの生涯』の「はじめに -- カフカの肖像」は、わずか3頁でカフカという人物の奇妙な魅力をざっくりと印象的に描写している。この作家の生涯をたどりたくなる気分を盛り上げてくれる秀逸なプロローグだ。
本編はこのプロローグの敷衍である。本書を読み終えて感じたのは、カフカのあの奇妙な作品群は、結局は彼の境涯を綴った「私小説」だったのではないかという想いだ。これは、カフカ小説全集の翻訳者でもある池内紀氏が、彼自身の作品解釈をふまえてこの評伝を書いているからに他ならない。カフカの超現実的で奇妙な世界が現実の生活を反映している、というのは考えてみれば当然のことかもしれない。説得力のある読み解きだと思った。
半官半民の労働者障害保険協会の職員としての仕事の合間に小説を書いていたカフカにとって、小説を書くことは決して余技ではなかった。彼は小説を書くことを生活のメインにしていた。となると、職場では鬱屈しているサラリーマンのようにも見えるが、実はなかなか有能な職員だったようだ。それなりに出世もしている。
池内紀氏は、職場での業績も残しているカフカについて次のように述べている。
「カフカは数多くの出張を通して近代産業の内幕というものをよく知っていた。その点、二十世紀の作家たちのなかで、ただ一人の例外だった。」
「(大工場経営者たちが)いかなる素姓の者であり、どのような労働条件のもとに短期間で財をなしたか、カフカはよく知っていた。やがて「プロレタリア作家」とよばれて登場した者たちよりも、よリひろく、よりくわしく知っていた。(略)ただ彼は小説を書くにあたり、ついぞプロレタリア作家のようなリアリズムのスタイルはとらなかった。」
カフカの世界には、専業小説家(?!)では捉えることができなかった近代産業の実態があるという指摘は、カフカという作家の特異性と普遍性を裏付けるものだろう。
かつて、ある先輩が「カフカばりの小説なんて誰にでもすぐに書ける。ぼくが書きたいのは、人情味のある話だ」と語るのを聞いて、人情話はともかく、前段の指摘にはうなづける気がしたことがある。寓話の一つや二つは、だれでもひねり出せそうな気がする。しかし、多くの読者をそんな気にさせるところが、じつはカフカの普遍性なのだ。その世界には、リアリズム作家以上に切実でリアルな現実世界の把握という裏付けがあり、それは頭の中だけで獲得できるものではなかったようだ。
そんなところに、カフカが大きな影響力をもつ作家になった秘密のひとつがあるのだろう。
また、『カフカの生涯』によって、二十世紀ヨーロッパにおける「ユダヤ人」についての認識が少し深まった。日本に住む私たちには実感しにくい問題だが、「ユダヤ人」という存在は当のユダヤ人たちにとっても、やっかいで奇妙な問題だったようだ。
カフカの死後、カフカを世に広めた友人ブロートは、プラハ大学で1年後輩のユダヤ人で、シオニストだった。カフカより早く世に出て売れっ子作家になったブロートは後にイスラエルに移住する。カフカ自身はシオニズムとは一定の距離をとっていたらしい。
ブロートが編集した『アメリカ』が、手稿版の『失踪者』に改訂されるにあたって、物語の終わり方が異なっている。というか、元々は未完のノートなので、残された断片をどのような形で発表するかという問題である。
池内紀氏の解説によると、ブロートは「新大陸で行きくれた主人公が、最後には救済を見つける」形にしたのだ。「熱烈なシオニストであり、みずからもいち早く『約束の地』イスラエルへ移り、また友人カフカに一人のメシアを見ようとしたブロートには、物語は救済で終わらなくてはならない。」という考えがあった。
そのようなブロートのフィルターを除いて、ノートのままの形にしたのが『失踪者』である。
いずれにしても、カフカ自身が途中で放棄した小説なので、宙ぶらりんなのはいたしかたない。やはり『審判』や『城』の方が面白いと思えた。
『カフカの生涯』には、1967年に著者が留学中のウィーン大学の講演会で、イスラエルから来たブロートを目撃した話が出てくる。この目撃談は印象的だ。少し引用してみる。
「八十四歳で死んだとき、ブロートの著作は八十三冊に達していた。(略)にもかかわらず『カフカの作品の編集者』が、そのすべてを忘れさせた。マックス・ブロートの名は、ひとえにカフカの名と結びついて後世にのこった。(略)死の前年、ウィーンで見かけた老人に、どこかしら受難者めいた面影があったのは、自分が引き受けた役回りに殉じたせいだったかもしれない。」
カフカには孤独で内向的な受難者のような面影が感じられるが、実は、かけがいのない友人や女性たちに恵まれ、ひたすら小説と手紙を書き続けることができた、やや身勝手で幸福な人だったようにも思える。
久々にカフカの小説を読みながら感じたのは、物語を読んでる気分ではなく他人の思弁的な日記帳を読んでいる気分だった。断片だけを味わいながら読み進めることができた、とも言える。こんな気分になるのは『カフカの生涯』読了直後に小説を読んだからかもしれないが。
アメリカを見ることなく新大陸を放浪する青年を描いたカフカ、その作家が暮らした街プラハへ、プラハを見ることなく駄句を詠んだ私が赴こうとしている。カフカの小説のように、いつまで経っても到達できな場所ではないだろう。
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