ピケティは「ロックスターのような経済学者」か2015年02月01日

トマ・ピケティの記者会見(2015.1.31)
 来日中のトマ・ピケティの記者会見に行った(2015.1.31)。『21世紀の資本』はとりあえず読了したし、ピケティ関係の雑誌記事もいくつか目を通しているので、およその彼の主張は想像できる。にもかかわらず、本人をナマで観たいと思った。「ロックスターのような経済学者」と言われる人物の雰囲気を確認したかったのだ。

 およそ1時間30分の逐次通訳の英語会見だから、それほど多くのことを語ったわけではないが、語り口は明解で力強い。「ロックスターのような経済学者」と呼ばれる理由がわかる気がした。

 私がこの会見で印象深かったのは、「経済のグローバル化」や「経済成長」への肯定的な見解だ。21世紀の格差拡大に警鐘を鳴らしているピケティは、「資本主義の終焉」のようなことを語っているのではなく、経済をコントロールする政治を語っているのだと思った。

 『21世紀の資本』は経済理論の本ではなく、膨大なデータの分析結果を述べた本である。経済理論と膏薬はどこにでも付くと言われるように、現状を説明する理屈は多様だが、その理屈通りに今後の経済が動くわけではない。ピケティは「データを分析すれば現状はこうなっています」という強力なメッセージを発信し、現状への処方箋は「政策」だと述べている。それは「経済政策」と呼ばれるようなチマチマしたものではなく、大きな政治課題のようなものだと思われる。

 そんな印象を与えるところにピケティのスター性がありそうだ。彼は、いつまでも「ロックスターのような経済学者」のままでいくのだろうか。経済学者の殻を破って新たな転身があるのではなかろうか。ナマのピケティを観ての感想である。

エコノミストと社会学者の新書4冊読んで霧の中へ2015年01月25日

『資本主義の終焉と歴史の危機』(水野和夫/集英社新書)、『資本主義という謎』(水野和夫、大澤真幸/NHK出版新書)、『社会学入門』(見田宗介/岩波新書)、『不可能性の時代』(大澤真幸/岩波新書)
 水野和夫氏の『資本主義の終焉と歴史の危機』という新書が売れていると聞いていたが、なかなか手にする気がしなかった。タイトルだけで内容の推測がつき、経済書というよりはざっくりとしたキワモノ文明論のような気がして、読むまでもなかろうと見過ごしていた。

 だが、ピケティの『21世紀の資本』を読んだのを機に『資本主義の終焉と歴史の危機』を読んだ。ピケティが主に19世紀から21世紀の近代を分析しているのに対し、水野和夫氏は15世紀後半から21世紀までの長い期間を考察している。ピケティの本以上に歴史の本である。現状認識はかなりシビアだが、その主張に納得できたわけではない。もう少し理解を深められればと考え、続いて関連新書を3冊読んだ。

 まとめて読んだ4冊を発行年月順に並べると以下の通りだ(読んだ順は④①②③)。

①『社会学入門』(見田宗介/岩波新書/2006.4)
②『不可能性の時代』(大澤真幸/岩波新書/2008.4)
③『資本主義という謎』(水野和夫、大澤真幸/NHK出版新書/2013.2)
④『資本主義の終焉と歴史の危機』(水野和夫/集英社新書/2014.3)

 水野和夫氏はエコノミスト(リフレ派の経済学者からは「反経済学」の人と見られている)、見田宗介氏と大澤真幸氏は社会学者だが、この4冊は次のように関連している。④の1年前に出版された③は水野氏と大澤氏の対談本で、④で展開される水野氏の見解はすでに③でほぼ語られている。大澤氏のツッコミが入っているぶん、こちらの方が面白いし幅がある。この③で展開される大澤氏の現代社会把握のベースになっているのが②であり、②のベースになっているのが大澤真幸氏の先生にあたる見田宗介氏の①である。実は④にも①を援用している箇所がある。

 エコノミストと社会学者の新書がこのようにからみあっているのは、ここで展開されているテーマがあまりにもマクロでつかみ所がないからだ。「資本主義は終わろうしているのか」「近代は終わろうとしているのか」という漠然とした問題に取り組むには、いろいろな切り込み方が必要なのだろう。

 私は社会学の門外漢であり、社会学とは何かがよくわかってはいない。①で見田氏は社会学者たちを「領域を横断する知性たち」と呼び、彼らの探究は結果として「越境する知」になると述べている。そう言われても、何事にでも言及してしまうこの学問にいささかの胡乱さを感じることがないわけでもない。しかし、②や③で大澤真幸氏が、この世界の来し方と行く末を、経済学や歴史学や文学などを横断する学識を手掛かりに果敢に解明しようとしている姿勢には感嘆せざるを得ない。衒学的コジツケや知的アクロバットに見える箇所があるにせよ、社会学者の「知の挑戦」恐るべしと思う。

 で、この4冊はそれなりに刺激的だった。だが、4冊の新書を読んで何らかの回答が得られたわけではない。「資本主義」や「近代」が行き詰まりつつあることは了解できても、この先どうなるのか、どうするべきなのかは霧の中だ。そもそも、経済活動の定常状態、ゼロ成長の持続ということがあり得るのか、それはどんな社会なのか、そういったことが私の当面の関心事だが、これは回答のない設問なのかもしれない。

『21世紀の資本』のとりあえずの読後感2015年01月11日

『21世紀の資本』(トマ・ピケティ/山形浩生ほか訳/みすず書房)、『ゴリオ爺さん』(バルザック/平岡篤頼訳/新潮文庫)、『マンスフィールド・パーク』(オースティン/大島一彦訳/中公文庫)
◎『21世紀の資本』と小説2冊を並行読み

 話題の『21世紀の資本』(トマ・ピケティ/山形浩生ほか訳/みすず書房)を読了した。並行して『ゴリオ爺さん』(バルザック/平岡篤頼訳/新潮文庫)と『マンスフィールド・パーク』(オースティン/大島一彦訳/中公文庫)も読んだ。こんな並行読書になったのは、『21世紀の資本』がぶ厚い大判のハードカバー(約700ページ)で、重いからだ。持ち歩くのはしんどいので自宅で読むことにした。旅行や外出の時には文庫本の小説を読み、3冊並行して読み進めることになった。

 と言っても、この3冊はバラバラではなく関連本である。年末に『21世紀の資本』の「はじめに」(これだけで38ページある)を読んだ後で年末年始旅行に出たのだが、その長文の「はじめに」ではいくつかの古典小説に言及していた。その中の『ゴリオ爺さん』が気になった。20年以上前に購入した文庫本を読まずに放置しているのを思い出してしまったのだ。この機会に19世紀の世界名作を繙くのも一興だと思い、色褪せた新潮文庫の『ゴリオ爺さん』を旅行に持参した。

 旅行中に『ゴリオ爺さん』を読了し、年明けの帰宅後は『21世紀の資本』に取り組んだ。「第3章 資本の変化」で『マンスフィールド・パーク』に言及しているのが気になり、この小説をネットで購入した。外出時の電車の中では『マンスフィールド・パーク』、自宅では『21世紀の資本』を読んだ。そして、大部の『21世紀の資本』読了の翌日、文庫本としてはやや厚いこの小説を読了した。並行して読んだ3冊は私の頭の中では混然となっている。この状況はピケティの意図にもかなっているのではと、勝手に推測している。この厚い経済書の魅力の一つは、トリビアルな事項の積み重ねにあると思われるからだ。

◎ピケティは5分でわかるか

 それにしても、いまピケティが有卦に入っている。新聞やテレビでくり返し取り上げられ、本屋の店頭の雑誌にはピケティ関連の記事が目白おしだ。米国で50万部を超えるベストセラーになり、先月始めに刊行された日本語版もすでに13万部だそうだ。ぶ厚い経済書がこれだけ売れるのは異常らしい。今月末、本人が来日するそうなので、さらにブームが広がるかもしれない。

 「1時間でわかる」とうたう解説本や「5分でわかる」と銘打った雑誌記事も目にする。この大著を読了したうえで、それらの記事のいくつかにも目を通し、たしかに『21世紀の資本』の要点を5分で把握するのは可能だろうとは思った。

 一回通読しただけでの感想だが、本書の概要は数ページに圧縮できそうな気がする。私は本書に取り組む前からテレビや新聞の情報で本書の要点は知っていた気がする。そもそも「はじめに」の中で本書の要点は開示されている。それは概ね次のようなことだ。

 ・300年にわたるデータ分析により、格差が拡大してことがわかった。
 ・格差が拡大するのは「資本収益率>経済成長率」という状況が持続するからだ。
 ・20世紀に格差縮小が見られたのは世界大戦ショックによる一時的傾向だった。
 ・このままでは、21世紀は19世紀と似た格差社会になる可能性が高い。
 ・格差拡大抑制には世界的な資本への累進課税がいい。現状では困難だが。

 では、「はじめに」だけを読めば、残りの数百ページは読まなくてもいいのか。もちろん、そんなことはない。大長編小説の醍醐味はダイジェストで得ることができない。それと同じで、本書には数百ページを読んで得られる魅力と感興がある。それを要約するのは難しい。量は質なりだ。

◎読みにくくはない

 『21世紀の資本』は読みにくい専門書ではない。経済理論の本でもない。経済がテーマだが歴史書のようでもある。また、福祉国家ではなく「社会国家」という概念を提示し、政治的な提言も盛り込まれている。ピケティは巻末で「政治歴史経済学」を提唱している。本書はそのような世界へ読者を誘う一般書だと見なせる。 
 
 経済の現在を論じる本の多くの視野は、せいぜい50~60年前までのように思えるが、本書では常に19世紀から21世紀までの長い期間を考察している。西暦0年からの2000年にわたる考察もある。この時間感覚が経済の本としては新鮮である。歴史に学ぼうとするなら、少なくともこのぐらいの時間は頭に入れておかねばならないということだろう。

 本書を読んでいると、頭の回転の速いやや早口な人の長広舌を聞いているような気分になる。脱線気味のトリビアに思える話題も面白いし、それが脱線でなく視界が開ける仕掛けだったりもする。くり返しが多いように思えるが、その分、頭には入りやすい。ページ数が多いので読むのに多少の時間がかかるのはいたしかたないが、さほど長さを感じなかった。

◎『ゴリオ爺さん』を読んで正解

 なお、「はじめに」の後、本編に入る前に『ゴリオ爺さん』を読了したのは正解だった。ピケティは文学への関心も高いようで、本書には多くの小説が登場する。中でも『ゴリオ爺さん』の登場頻度が高い。労働所得と相続所得の比較に関するこの小説のエピソードがくり返し引用されるのだ。もちろん、小説を読んでいなくても本書の理解に支障はない。しかし、読んでおいた方がピケティが論じる世界に感情移入しやすくて楽しめる。

 『マンスフィルド・パーク』は、ピケティが19世紀の海外資産に関連して引用しているのを見て読み始めた。だから、ピケティの言説を想起しながら小説を読み進める按配だった。「18世紀、 19世紀の小説には、お金がいたるところに登場する」などのピケティの指摘もあらためて確認できた。これも楽しい読書体験だった。

 ちなみに『21世紀の資本』に登場するその他の文学作品を洗いだしてみると、次の通りだ。

 『ジェルミナール』(ゾラ)、『オリバー・ツイスト』(ディケンズ)、『レ・ミゼラブル』(ユーゴー)、『分別と多感』『説得』(オースティン)、『スワン家の方へ』(プルースト)、『モンテ・クリスト伯』、『風と共に去りぬ』、『セザール・ビロトー』(バルザック)、『ワシントン・スクエア』(ヘンリー・ジェイムス)、『戦争と平和』、『イビスカス』(アレクセイ・N・トルストイ)

 もれがあるかもしれない。私にとっては大半が未読で、知らない作品もいくつかある。これら文学作品への言及が必然的なものか単なる文学趣味かはどうでもいい。ページを増やす一因になっているかもしれないが、楽しい本にしているのはたしかだ。

 ベストセラー『21世紀の資本』の影響でバルザックなど19世紀文学の文庫本の売上に経済効果が波及すれば、同慶の至りだ

久しぶりの路地裏経済学は壮大な文明論だった2013年08月19日

『経済学の忘れもの』(竹内宏/日経プレミアシリーズ/2013.2)
 竹内宏氏の新著『経済学の忘れもの』(日経プレミアシリーズ)の新聞広告を見て、すでに過去のエコノミストだと思っていたが人がまだ元気に本を書いているのだと驚き、すぐに購入した。半年近く前のことだ。奥付によれば竹内氏は1930年生まれ。今年83歳になる。

 竹内氏の著書を最後に読んだのは『長銀はなぜ敗れたか』(PHP研究所/2001年5月)だった。調査畑とは言え、長銀の専務取締役にまでなった人だから、長銀の破綻にはそれなりの責任を負う人だと思っていたが、被害者意識の強い内容の本で少しがっかりした記憶がある。優秀なエコノミストが将来を見通せるわけでも、政策に影響力を行使できるわけでもないことは、よくわかった。

 290ページほどの新書『経済学の忘れもの』は、読了するのにずいぶん時間を費やしてしました。空いた時間や他の読書の合間に少しずつ読み進めるチョボチョボダラダラ読みになったので、時間がかかったのだ。

 一気読みに誘われるほどエキサイティングな内容ではないが、つまらなかったわけではない。つまらなければ、途中で投げ出している。かなり面白い内容である。しかし、いろいろな内容が詰まっていて中身が濃すぎるので一気に読めなかったのだ。教科書や参考書の一気読みが難しいのに似ている。

 『経済学の忘れもの』の「はしがき」で竹内氏は次のように述べている。

 「私の過去の仕事を大まかに分析すると、産業調査15年、マクロ経済調査15年、地域調査5年、海外調査20年になる。20年間で約40カ国の現地調査を行った。こうした体験から、国の経済の成長や衰退は、宗教や倫理と深い関係にあるという確信を持っている。」

 人間、年を取って枯れてくると抹香臭くなって「宗教や倫理」に関心が移っていくのかとも思われるが、そんな視点で本書を読むのは失礼だろう。
 かつて、竹内氏は「経済学は、社会科学の一種とされ、科学の装いをしているが、私は、本来、経済学とは文学だと思っている。大学でも経済学とは、文学部のセクションに属するべきものだというのが、私の意見だ」と述べたことがある(『経済とつきあう法』新潮文庫/1984.11)。
 現場感覚を重視する路地裏経済学の竹内氏にとって、経済活動の分析は人間の思考と行動の考察に他ならず、文学や宗教や倫理の援用に至るのは必然なのだろう。

 『経済学の忘れもの』は「宗教や倫理」という視点で世界各国の歴史と現状を総括した本であり、新書ではあるがその内容は壮大だ。路地裏の虫の目と時空を俯瞰する鳥の目と戦後日本経済史に重なる竹内氏の自分史がないまぜになっている。
 1冊の新書にアメリカ、ロシア、中国、中東諸国および日本の文明史を宗教にからめて詰め込んでいるのだから、教科書のように圧縮された内容にならざるを得ない。と言って、概説本ではなく、竹内氏の「思い」が随所に散りばめられている。
 本書を呼んでいると、歴史にも海外事情にも詳しい路地裏横町のご隠居さんの遺言めいた警世講義を聞いているような気分になる。

 要は、宗教や倫理があれば人間は強くなり、その国の人間が強くなければ経済は発展せず、国家は衰退する、というのが竹内氏の考えである。間違った考えではないと思う。
 そして、竹内氏は今後の世界は宗教(キリスト教、ロシア正教、イスラム教、中国の儒教・陰陽思想など)の影響がいっそう強くなっていくと見ている。やや不気味な見解だが、そうかもしれないという気がしてくる。私には明るい未来とは思えないが。

 本書で面白いのは、世界三大宗教のうちのキリスト教とイスラム教についてはかなり論じているのに、仏教についてはあまり論じていない点だ。インドも中国も日本も仏教思想を基盤にした国家ではない。竹内氏は「日本の仏教は、人生の悩みに答えたり、貧しい人を救ったりはしてくれない。生きている人に関心はないのだ」と切り捨てている。

 で、竹内氏が見る日本を支えてきた宗教は「イエ宗教」であり、衰退過程に入った日本経済を再興させるには「イエ宗教」の復活が必要なのだと説いている。
 「日本の強みは、国民にイエ国家の一員であるという潜在意識があり、危機のとき、それが蘇ることである。」とうのが竹内氏の見解だ。
 用語はともかく、考え方の大筋にはあまり違和感がない。これが本当の処方箋なのかどうかは不明だが、身近な生活実感をベースに経済をとらえる竹内流路地裏経済学の魅力(魔力?)は健在なようた。

 本書を読んで、やや違和感をもつのは、中国を「儒教・陰陽思想」でとらえようとしている独特の視点だ。文化大革命によって儒教の倫理が断絶しているのが現代中国の問題点だという中国人エコノミストの意見を聞いたこともある。大国への道の精神的よりどころが何なのか、興味深いテーマではある。

 それにしても、キリスト教やイスラム教に対抗する日本の倫理が「イエ宗教」というのは、チマチマしていて情けない気がしないではない。本書では、日本におけるマルクス主義の影響について次のように述べている。

 「それ(マルクス主義)は、哲学から歴史、経済、芸術まで、すべての社会的活動を唯物論に基づく運動体系として把握した壮大な思想である。西田哲学や白樺派は、マルクス主義と比較すると、まるで私小説のような小型の思想である。私たち日本人は、マルクス主義のスケールの大きさに圧倒された。」

 竹内氏のいう「イエ宗教」とは、まさに私小説のような小型の宗教であり、そこに基盤を求めるところが路地裏経済学の真骨頂だと思われた。

経済の新書本を何冊か読んでみたが・・・2012年11月25日

『経済学の犯罪:希少性の経済から過剰性の経済へ』(佐伯啓思/講談社現代新書)、『ケインズはこう言った:迷走日本を古典で斬る』(高橋伸彰/NHK出版新書)、『経済古典は役に立つ』(竹中平蔵/光文社新書)、『古典で読み解く現代経済』(池田信夫/PHPビジネス新書)、『「通貨」はこれからどうなるのか』(浜矩子/PHPビジネス新書)、『日本経済「円」の真実』(榊原英資/中経出版)、『本当の経済の話をしよう』(若田部昌澄、栗原裕一郎/ちくま新書)、『もうダマされないための経済学講義』(若田部昌澄/光文社新書)
◎経済も脳味噌も混迷する

 書店の新書コーナーに経済関係の本が目につくのは気のせいだろうか。いつの時代でも経済は喫緊の課題であり、今の経済を読み解きたいというニーズは常に存在する。とは言え、リーマンショック後の現代は、常にも増して経済の混迷が深まっており、書店の棚はその反映だらう。
 で、以下の8冊を立て続けに読んでみた。そして、頭の中の混迷がいっそう深まった。

(1)『本当の経済の話をしよう』(若田部昌澄、栗原裕一郎/ちくま新書)
(2)『もうダマされないための経済学講義』(若田部昌澄/光文社新書)
(3)『経済学の犯罪:希少性の経済から過剰性の経済へ』(佐伯啓思/講談社現代新書)
(4)『古典で読み解く現代経済』(池田信夫/PHPビジネス新書)
(5)『「通貨」はこれからどうなるのか』(浜矩子/PHPビジネス新書)
(6)『経済古典は役に立つ』(竹中平蔵/光文社新書)
(7)『日本経済「円」の真実』(榊原英資/中経出版)
(8)『ケインズはこう言った:迷走日本を古典で斬る』(高橋伸彰/NHK出版新書)

 これらの本を読んでも、経済を見る目はクリアにはならないし、経済学がわかった気にもならない。困ったものだ。
 私にとって面白かったのは『本当の経済の話をしよう』と『経済学の犯罪』だった。著者の若田部昌澄氏と佐伯啓思氏はまったく立場が異なり、二つの本の内容は対立している----というより、かみあっていない。『経済学の犯罪』は経済学批判の書であって現状の経済の分析ではないのでかみあわないのは当然かもしれない。だが、この二人の言ってることが、それなりに納得できそうに思えるのが困ったことだ。
 もちろん、「困った」の対象は情けないわが脳味噌であり、もっと頭を鍛えれば困ったことにはならないかもしれない。

◎経済学に「正解」を求めるのは無理か

 昔から、経済学に対しては割り切れない疑問がある。経済学者やエコノミストたちの見解はなぜバラバラなのだろうか。
 それぞれの思想信条や価値観が多様なのは当然としても、現実の経済がかかえている課題の目指す所が大きく異なっているとは思えない。雇用が安定し、個人が豊かになればいいに決まっている。そのためには、企業の収益が上がるのがいいのは当然だ。国が豊かになって社会資本が充実し快適な生活環境が確保できれば申し分ない。
 大多数の人々が共有できるであろう上記のような目標は明らかであり、それを達成するための政策・処方箋を見い出すのが経済学の課題の筈だ。

 同じゴールを目指す処方箋がバラバラだとすれば、それは経済学が不完全だからであり、経済学が発展すればひとつの正解にたどり着くはずだ。それが叡智というものだ。かつては、そのように思っていた。

 しかし、経済学が正解を見い出すであろうというプリミティブな考えは幻想だと思うようになってきた。経済学は物理学でも数学でもない。社会科学は「科学」と言い切れるほど生易しいものではなさそうだ。社会科学に高度な数学が浸透し、優秀な頭脳が社会科学の発展に貢献しているのは確かだろう。しかし、それでも経済学に自然科学的な「正解」を求めるのは原理的に無理なような気がしてきた。

 だと言って、役に立たない無意味なものとして経済学を切り捨てることもできない。社会科学に対しては自然科学とは違ったつきあい方をしなければならないようだ。

◎世界を合理的に理解する「知的ツール」としての経済学

 『本当の経済の話をしよう』と『もうダマされないための経済学講義』は、ほとんど同時期に出版された中堅経済学者・若田部昌澄氏(47歳)の入門書で、2冊でワンセットとして読める。「インセンティブ」「トレード・オフ」「トレード」「マネー」という4つのキー概念で経済学的な考え方を説いている。前者は人文系の評論家・栗原裕一郎氏との対談形式なので採り上げる話題に広がりがあって面白い。
 単なる理論解説ではなく、現実経済の分析が折り込まれているので納得しやすい(納得させられやすい?)。合理精神をバックボーンとした知的ツールとしての経済学を解説した本である。日銀批判や反TPP批判にも説得力があり、比較優位説などにもナルホドと思ってしまう。
 『もうダマされないための・・・』というタイトルが標的にしている「トンデモ経済学」「俗流経済学」が何を指すかは必ずしも明確ではないが、具体的な一例として100年デフレやポスト近代を説く水野和夫氏がやり玉に上がっている。 
 著者が批判しているのは反経済学的な考えのようだ。変化を肯定するのが経済学的な考え方であるという指摘は興味深い。
 しかし、ツールとしての経済学の有効性がどの程度のものかはよくわからない。経済を解明する理屈はどこにでも付く後知恵の膏薬ではないかという疑念は消えない。

◎現代の経済学が資本主義経済をおかしくしたのか

 若田部氏より一回り以上年長で私(63歳)と同世代の佐伯啓思氏の近著『経済学の犯罪』は、まさに反経済学の書である。新自由主義に基づく市場中心主義を批判し、数学化に走りすぎた現代経済学を否定している。若田部氏から見ればトンデモ本の一つかもしれない。
 しかし、私は佐伯氏の主張の大半に共感できる。かつては多様性があった経済学がシカゴ学派の勝利によってつまらない学問に収れんしてしまったことへの苛立ちに同世代的共感もある。本書には経済学を超えた文明論的な面白さを感じる。新手の保守ナショナリズムに見えるのが私にとっては難点だが、迫力のある本だ。

◎経済古典は役に立つのか

 私は経済学を正規に勉強したことはなく、『国富論』も『資本論』も『一般理論』も読んだことはない。今さらこれらの古典に挑戦しようという意欲もない。関心の対象はあくまで現代の実体経済である。
 ところが、現代の課題を主な題材としている新書本の世界において、経済の分野では古典を取り上げたものが目につく。今回読んだもの以外にも何点か目についた。混迷の時代には古典に立ち返ってみようということだろうか。

 池田信夫氏の『古典で読み解く現代経済』でとりあげているのは『国富論』(アダム・スミス)、『資本論』(マルクス)、『リスク・不確実性・利潤』(フランク・ナイト)、『雇用、利子および貨幣の一般理論』(ケインズ)、『個人主義と経済秩序』(ハイエク)、『資本主義と自由』(フリードマン)の6点である。
 竹中平蔵氏の『経済古典は役に立つ』はアダム・スミス、マルサス、リカード、マルサス、ケインズ、シュムペーター、ハイエク、フリードマンについて解説している。
 高橋伸彰氏の『ケインズはこう言った』は、ケインズのツールではなく思想を現状の経済に適用しようとしたユニークな試みだ。
 『経済学の犯罪』でもアダム・スミスは市場原理主義の教祖ではないという視点でかなりのページを割いたスミス解説を展開している。

 これらの本を読んで感じたのは、経済古典の解説とは結局のところそれぞれの解説者の主張の裏つけとしての読解と解説だということだ。いかようにも読めるところが、古典の深さであり古典の古典たる所以だろう。今のところ、自分で確かめる元気はないが。

 それにしても、竹中平蔵氏が古典を語っているのは意外だった。読んでみると、見事におのれに引き寄せて解説している。新自由主義、市場原理主義と批判されるのが腹にすえかねるようで、現実の経済政策は「経済思想」とは無縁だというような主張もある。本音だろうが身も蓋もない。

 竹中平蔵氏らを不倶戴天の敵と見る小泉構造改革批判者である高橋伸彰氏の『ケインズはこう言った』は反市場原理主義の警世の書の趣がある。自らの経済理論と現実の経済が食い違っているとき、理論を検証しようとするのではなく、現実を理論に合わせるための施策をとるのは愚かだという主張には聴くべきところがある。

 そんなこんなで、いろいろな見方・考え方があるのだなというバカみたいな感慨を得るだけに終わってしまった。個々の経済政策について私なりの考えがないわけではないが、それをつきつめる論拠がよく見えてこない。困ったものだ。

われわれ自身の中のニヒリズムにどうむきあうか2012年05月02日

『反・幸福論』(佐伯啓思/新潮新書/2012.1)、『資本主義はニヒリズムか』(佐伯啓思・三浦雅士/新書館/2009.10)
 『反・幸福論』(佐伯啓思/新潮新書/2012.1)
 『資本主義はニヒリズムか』(佐伯啓思・三浦雅士/新書館/2009.10)

 タイトルに惹かれて『反・幸福論』(佐伯啓思/新潮新書)を読んだ。「人はみな幸せになるべきなんて大ウソ」「日本の伝統精神のなかには、人の幸福などはかないものだ、という考えがありました」などのオビの惹句にも興味をそそられた。

 読み終えると、少し気分が鬱してきた。行き詰まった世界に生きているような暗い気分になる。その気分を再確認したいと思ったわけではないが、続いて『資本主義はニヒリズムか』(佐伯啓思・三浦雅士/新書館)も読んだ。数年前に購入し、冒頭部分を読んだだけでそのままになっていたので、この機会に読んでおこうと思ったのだ。

 『反・幸福論』は東日本大震災の体験をふまえて、「末世」にも似た現代社会におけるわれわれの精神状況を述べている。
 『資本主義はニヒリズムか』は、リーマンショックによって発生した金融危機を背景に出版された本だ。タイトルは疑問文だが、内容は「現代の金融資本主義はニヒリズムでしかありえない」と言い切っている。

 佐伯啓思氏は現代社会の根底にあるニヒリズムに深い関心をもつ研究者だ。自身が虚無主義者というわけではないだろうがニヒリズムへの言及が多い。以前に読んだ『現代文明論』では、「西欧近代の帰結である現代文明はニヒリズム状態に気付かない究極のニヒリズムに到達している」と指摘していた。

 今回読んだ二つの本もニヒリズム状態を論じた現代文明論だ。その指摘が間違っているとは思わないが、それをどうすべきかは見えない。

 『反・幸福論』を読み始める前、この本は現代の世相を批判して新たな生き方を提示している内容かなと思っていた。しかし、超然とした境地を説く痛快な人生訓・処世訓の書ではなかった。

 「人は幸福でなければならない」という強迫観念が不幸をもたらすという指摘やポジティブ・シンキング批判には共感できる。佐伯氏は、このような現代人の「不幸な」精神状況のよってきたるゆえんを、自由・平等・幸福追求などを至上とする西欧的近代化の必然の帰結と見なしている。それゆえに根が深く、克服が難しいのだという。この指摘が正しいか否か、私には早急には判断できないが、一定の説得力はある。

 現代のニヒリズム状態を克服する思想の萌芽として佐伯氏が提示している概念は「徳」「善」「死生観」「宮沢賢治の自然観」「法然の他力本願・悪人正機説」などである。至高な精神性の追究のようだが、私にはわからない。まだ、ついて行けない。

 『資本主義はニヒリズムか』は、佐伯啓思氏、三浦雅士氏の論文と二人の対談で構成されている。経済学者と文芸評論家という組み合わせを意外に感じたが、二人とも「思想界」の論客なので話はかみあっている。特に「資本主義はニヒリズムか」というタイトルの対談が面白かった。
 
 この対談で、三浦氏から「司馬遼太郎については…」と尋ねられた佐伯氏が司馬遼太郎史観を批判した指摘は興味深かった。明治の日露戦争まではよかったが、その後の昭和の軍部が間違えたという司馬史観を否定しているのだ。昭和を擁護するのかなと思ったら、そもそもの明治のスタート(特に大久保利通)から間違えたのだという説だった。傾聴に値する。

 また、1980年代に経済学のパラダイム・チェンジがあったという話も興味深かった。いまごろにになって「そうだったのか」と納得した。
 私は経済学の門外漢で、社会人になって「経済学を勉強しておかなければ…」という強迫観念でいくつか本を読んだ。1970年代の終わりで、サムエルソン、ガルブレイスなどが花形だった。佐伯氏によれば、1970年代には「シカゴ学派」「ケインズ主義経済学」「新古典派経済学」「ラディカル・エコノミクス」「制度学派」「ケンブリッジ学派」などが並立していた。まさに、私が経済学の「お勉強」をしていた頃の懐かしき経済学群だ。
 ところが、1980年前後には市場競争万能のシカゴ学派だけが残ったそうだ。いちばん科学的に見えたのが勝因だという。世の中の状況を眺めれば、確かに市場競争万能のようには見える。だが、うかつにも、経済学者にきちんと指摘されるまでは、経済学の世界がそんなに乱暴なことになっているとは知らなかった。
 いま、大学生はどのような経済学の教科書を使っているのだろうか。版を重ねていたサムエルソンの『経済学』はもう古くなっているのだろうか。

 佐伯啓思氏は私と同じ団塊世代だが、同世代意識を振りまわすような軽薄な人ではない。頭脳は明晰で、該博な知識をベースに自分自身の思想を紡いでいる人だと思う。
 私はその思想に必ずしも共感しているわけではないが、『反・幸福論』の「あとがき」を読んでニヤリとさせられた。あがた森魚の「赤色エレジー」について語っているのだ。
 「赤色エレジー」は林静一のマンガで、その世界を歌にしたのがあがた森魚だった。かすれ声で「幸子の幸はどこにある」という印象的なフレーズを嫋々と歌いあげる下駄ばきジーンズ姿は印象的だった。そんな歌を取り上げるところに、どうしようもない同世代を感じてしまう。当時から、陰々滅々とした暗さで話題だったあの歌を、佐伯教授は学生とのカラオケで披露したそうだ。そして、あまりの受けの悪さに、二度と歌うことをやめたそうだ。

 この「あとがき」を読みながら、吉本隆明が引用していた太宰治の『右大臣実朝』の次の一節が頭に浮かんだ。

 アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。

『虚像』(高杉良)を読んで経済小説の魅力について考えてみた2011年12月27日

『虚像(上)(下)』(高杉良/新潮社)
 高杉良氏の『虚像』(新潮社)を読んだ。高杉氏の小説を読むのは久しぶりだ。以前、高杉氏の経済小説にハマったことがあった。

 『虚像』はオリックスの宮内義彦氏をモデルにした経済小説だ。オビには次のように書かれている。

  男はいかに「政商」にのし上がり
  なぜ、表舞台から消えたのか―。
  紳士然たる風貌に隠された
  非情、恫喝、果てなき欲望。
  経済小説の第一人者が、
  「財界の寵児」の見えざる罪と罰に迫る!

 正直言って、このな惹句につられて読んだ。この「男」が宮内義彦氏であることはすぐにわかり、どんなことが書かれているのか興味をもった。
 上下2巻を一気に読了したのだから、つまらなかったわけではない。しかし、あまり面白くはなかった。これまでに読んだいくつかの高杉良氏の小説と比較しても、生彩を欠いているように思えた。

 なぜ面白くなかったのだろうか。

 『虚像』はオリックスと思われる企業の成長から金融危機で破綻寸前になるまでの物語である。テーマは宮内批判だろうが、物語の主人公は一人の社員だ。一流大学を卒業した主人公が、当時は彼の大学から行くような人がいなかったその会社に入社し、エリート社員として出世して経営幹部の執行役員になるまでの物語である。主人公の二十代から五十代までのかなり長い時間を扱っている。ただし、この主人公の視点からだけ描いているわけではなく、この間の経済事象や財界騒動などが多く盛り込まれている。

 本書読了後、元オリックス社員の知人に本書を貸した。彼の感想では「内容は概ね事実だ。人事の内実については真偽不明。主人公に該当する人物はわからない。架空の人物だと思う」とのことだった。

 本書で扱っている経済事件などが概ね事実であることは、多くの読者にとっても自明だろう。登場人物にも、それとわかる命名が多い(竹中平蔵→竹井平之助、ホリエモン→マルエモンなど)。
 登場人物の多くがモデルが誰だかわかってしまうので、週刊誌の記事を読むような感覚で興味深く読み進めることができる。ただし、全体として周知の経済事件をなぞっているだけの内容が多く、びっくりするような真実が暴かれているわけではない。本書がモノ足りないのは、そのせいだと思う。

 高杉良氏が宮内義彦氏や竹中平蔵氏を批判していることはわかる。しかし、彼らのどこがどのように「悪」なのか、宮内義彦氏がなぜ「虚像」なのかが伝わってこない。ノンバンクという事業が虚業だと指摘するだけでは迫力がない。
 本書は米国型の経営モデルや金融経済のうろんさを批判しているようでもあるが、評論ではなく小説でそれを表現するのは難しい。批判対象の人物を単に悪役風に描写するだけでは批判のカラ回りになってしまう。

 本来、宮内義彦批判、竹中平蔵批判はノンフィクションで表現するべきものだろう。しかし、私はそのようなノンフィクション本には食指が動きそうにない。どんな内容か想像できてしまうからだ。

 経済小説にはノンフィクションとは異なる魅力が必要である。
 経済や企業の実態を知りたいという「情報小説」的な要素は経済小説の魅力のひとつだが、それだけでは面白くない。ノンフィクションではアプローチが困難な舞台裏の様子を大胆な推理力と想像力で表現することが小説の利点である。そこに描かれた内容が真実か否かは不明だとしても、十分な説得力があれば「ひとつの見方」として面白く読むことができる。
 そして、経済小説の大きな魅力は、経済や企業という舞台で展開される人間ドラマを通して、社会的存在である人間の考え方、感じ方、行動を追体験することであり、それがどのように企業や経済を動かしていくのかを知ることだろう。

 その点、経済小説は歴史小説に似ている。しかし歴史小説と異なり、経済小説の登場人物の多くは読者にとって、より身近である。高杉良氏の読者は「こんな人イルイル。こんなことアルアル。こんな気持ちよくワカル。ウチの会社だけじゃなく他の会社もコウなんだ。」という感慨をいだくことが多いのではないだろうか。

 高杉良氏の読者の大半はサラリーマンだと思っていた。しかし、以前、経済や経営などにはほとんど関心がなさそうなバイトの主婦が高杉良ファンだと知って、少し驚いたことがある。現代の企業社会に生きる人々の生々しい人間模様の物語が経済小説だとすれば、読者層が広いのは当然なのかもしれない。

『デフレの正体』で、わが事の「高齢化社会」を考えた2011年01月23日

『デフレの正体』(藻谷浩介/角川ONEテーマ21)
 『デフレの正体』(藻谷浩介/角川ONEテーマ21)という新書本が売れていると新聞に載っていた。書店に行くと、新書本の棚の前にうず高く平積みになっていた。オビには25万部突破とある。つい手に取り、買ってしまった。

 読んでみて、売れる理由がわかる気がした。講演調のやや攻撃的な語り口は読みやすい。データを提示しながらの説明は具体的で分かりやすい。そして、推理小説のように「意外な事実の提示」や「謎解き」によってストーリーが展開し、後半には、わが国が採るべき施策の提言もある。

 そんな本書は、サブタイトル(経済は「人口の波」で動く)と目次を眺めるだけでおよその内容がつかめるようになっている。そこが推理小説とは異なる。親切な作り方と言える。以下に、目次のタイトルを抜粋してみる。

 第2講 国際経済競争の勝者・日本
 第3講 国際競争とは無関係に進む内需の不振
 第5講 地方も大都市も等しく襲う「現役世代の減少」と「高齢者の激増」
 第7講 「人口減少は生産性上昇で補える」という思い込みが対処を遅らせる
 第9講 ではどうすればいいのか①高齢富裕層から若者への所得移転を
 第10講 ではどうすればいいのか②女性の就労と経営参加を当たり前に
 第11講 ではどうすればいいのか②労働者ではなく外国人観光客・短期定住者の受入を

 この目次から推測できるように、本書では、日本経済の大問題の要因を高齢化の進行ととらえている。そして、モノが売れないのは、購買意欲のある現役世代の人口が減少し、購買意欲のない高齢者の人口が増えているからだと説明する。対処方法としては、上記目次の第9講、第10講、第11講の内容が提言されている。

 私は、著者のこのような考えには概ね納得できた。と言うか、本書の語り口は攻撃的で刺激的だが、その内容の骨子は常識的なものに思える。しかし、著者の主張によれば、多くの経済学者たちは経済の要因としての人口構成問題を軽視しているという。それは本当なのだろうか。
 すでに20年以上前から「やがて労働人口が増え続ける時代が終わり、高齢化社会を迎えることになる。その準備をしなけばならない」と言われ続けてきたように思う。目新しい視点でないのにベストセラーになるのは、だれもが直視してこなかったからだろうか。
 
 著者は経済学者でもエコノミストでもない。肩書は日本政策投資銀行参事役で、「あとがき」には「私の本業は、市街地活性化や観光振興、企業経営など、地域振興に関する具体的な分野で、具体的な地域や企業の方を相手に講演やアドバイスをして歩くことです」とある。
 そのような体験をふまえた語り口が本書の独特な魅力になっているようだ。理論から入るのではなく、現場の実情を積み上げて論理を構築しようとしている。演繹ではなく帰納だ。
 そのような論旨展開を読んでいて、かつて『路地裏の経済学』『感覚的日本経済論』『柔構造の日本経済』など現場重視の著作で一世を風靡したエコノミスト・竹内宏氏を思い起こした。

 ネットで検索してみると、当然のことながら『デフレの正体』には賛否両論あり、著者がマクロ経済学を理解していないという批判もあった。購買意欲のない高齢者の人口増は個別商品の値崩れを起こすだけであり、それはデフレとは別だという主張もあった。そうかもしれない。

 そもそも、経済学は正解がありそうで、なかなか正解をつかむことができないナマコのような学問である。竹内宏氏は「現実の経済は生き物であって、経済学で解明しきれるものでない」「理屈と膏薬はどこにでもつく。どのような経済現象でも自由自在に理屈づけられ、まったく正反対の結論さえ、いとも容易に導き出せる」などと書いていた。

 「デフレとは何か? デフレの正体は何か?」を追求することはどうでもいい問題であり、20年以上前からわかっていながら、未だに準備不足状況の高齢化社会への対応について具体的な施策を実施することが大事なのだと思う。高齢化社会を招く「犯人」である団塊世代の一人として、本書によってその認識を新たにした。