探検の時代の西域にはスパイがいっぱい2025年08月28日

『西域 探検の世紀』(金子民雄/岩波新書/2002.3)
 先日読んだ『中亜探検』(橘瑞超)は意外に面白かった。あの文庫本に詳しい解説を書いていた金子民雄氏による次の新書を入手して読んだ。

 『西域 探検の世紀』(金子民雄/岩波新書/2002.3)

 19世紀末から20世紀初めにかけての二十数年、西域探検が華やかだった。ヘディンスタインが活躍した時代である。その頃の西域の状況を描いた本書は、大谷探検隊(第一次~第三次)に焦点をあてている。橘瑞超の『中亜探検』は第三次隊の記録だったが、本書によって第一次と第二次の概要がわかった。また、英露などの諸国が絡んだあの時代の西域の雰囲気や国際情勢を知ることができた。

 本書のキーワードは「グレイト・ゲーム」である。1907年にノーベル文学賞を受賞した英国の作家キプリングが1901年に発表した小説『キム』に出てくる言葉で、当時、欧米では流行語になったそうだ。英領インドのイギリス人孤児キムが少年スパイとして活躍する物語らしい。本書は随所で『キム』に言及している。いずれこの小説を読んでみたい、という気分にさせられる。

 1900年前後の西域は、英露のスパイが諜報活動をくり広げるグレイト・ゲームの舞台だった。そこに乗り込んだ大谷探検隊(西本願寺西域探検隊)は、しばしば日本のスパイと見なされたが、実際には諜報活動に携わってはいなかったようだ。

 アラビアのロレンスのように考古学者で諜報員という存在は珍しくない。西域で伝道活動をしている英国の宣教師の多くは諜報活動も担っていたそうだ。僧侶だからスパイでないと信頼されることはない。

 当時の西域探検・発掘は各国の競争の場だった。クチャに一番乗りしたのは第一次大谷探検隊である。近くまで来ていたドイツ探検隊に先駆けて貴重は遺物を発掘する。著者は次のように述べている。

 「日本ではまだ考古学の調査方法が十分確立していなかったので、西本願寺隊も壁画、仏像、古文書、古銭や古物品を熱心に集めたものの、記録と整理に不備があって、発掘品の正確な出土地が不明になるものが多かった。これは前後三回の探検を通しての共通した欠陥だった。(…)すばらしいものを発見、将来したものの、十分な成果が発表されたとは言い難かった。」

 先日読んだ『西域』(羽田明)に、大谷探検隊がクチャのキジル千仏洞の実測図を紛失した話があった。この件について、本書は次のように述べている。

 「せっかく測量したのに、堀賢雄のキジル千仏洞の実測図は紛失してしまった。一番肝心なものを失くしてしまったことになる。外国の探検家がよく失くすのが測量図で、これはまず人為的事故と見なすのが普通である。ヘディンの場合、同じものを三枚は作り、別々に保管した。」

 他国に先駆けて作成した測量図は盗難にあった可能性が高いようだ。まさに諜報戦の世界だ。

 大谷光瑞は第二次隊に18歳の橘瑞超を抜擢する。「頭も切れ、豪胆・健康だから」という理由である。著者は、光瑞が小説『キム』を読んでいて、若い瑞超の起用を思いついたのではと想像している。第一次の隊員は体験も学力もある常識人だった。無謀で突飛な発想力には欠けていた。光瑞は若い瑞超の決断力と突破力に賭け、瑞超の第三次隊はその期待に応えようとしたのかもしれない。

 瑞超の第三次隊はタクラマカン砂漠の縦断に成功する。現地に踏み込んだことがある著者は「どんな探検家でも、こんな無謀なことはまずしない。(…)風に吹かれたらまず助からない」と評している。

 瑞超はチベット踏破には失敗する。著者は、瑞超が試みたのとほぼ同じ崑崙の山にとりつく所までは行ってみたそうだ。「家畜を連れての旅はまったく無理と思えた」と述べている。隊員の逃亡もあり、失敗すべくして失敗した。著者は、清国政府による妨害が絡んでいた可能性を示唆している。チベット踏破は当初の計画にはなく、瑞超が独断で決行した。瑞超がホータンから崑崙山脈を越えてチベットへ向かっていると知った清国政府は日本政府へ抗議の通告をしている。まさに諜報戦の時代、瑞超の無謀な行動を見張っている眼があったようだ。

6年前と似た動機で『西域』(羽田明)を再読2025年08月24日

『西域(世界の歴史10)』(羽田明/河出書房新社/1969.2)
 6年前に読んだ西域の歴史の概説を再読した。

 『西域(世界の歴史10)』(羽田明/河出書房新社/1969.2)

 6年前、「幻のソグディアナ タジキスタン紀行」というツアーへの参加を決め、その事前勉強の一環で本書を読んだ。

 来月、(2025年9月)、「西域シルクロード紀行~カシュガル・ホータン・クチャとタクラマカン砂漠縦断」というツアーに参加する予定だ。その準備として、内容をほとんど失念している本書を再読した。

 本書の刊行は半世紀以上昔である。もっと新しいシルクロード概説書が何冊もあり、そのいくつかは私も読んできた。だが、西域旅行に先立って読み返したいと思ったのは本書である。『西域』というタイトルに惹かれたのかもしれない。

 再読とは言え内容をほとんど憶えていないので、新鮮な気分で「ヘェー」と思いながら読み進めた。1回読んだだけで歴史概説書の内容が頭に入るとは思っていないが、わが忘却力を追認する読書体験だった。

 タジキスタン旅行準備中の6年前は、パミール山塊の西側のソグディアナに注目して読んだと思う。今回のツアーはパミール山塊の東側のタリム盆地(タクラマカン砂漠)周辺なので、この地域に重点を置いて読んだ。

 本書には、先日読んだばかりの大谷探検隊の橘瑞超も登場する。18歳で第二次隊として派遣された瑞超を「世界探検史上にもまれな少年探検家だった」と紹介している。私が来月訪問予定のクチャのキジル千仏洞は、大谷探検隊が「ドイツよりもさきに、ということはどの国の調査隊よりもさきに、実測図をつくったりした」そうだ。だが、その資料はその後なくってしまい、内容はわからないという。

 本書で再認識したのは、東西文化交流の歴史の古さだ。著者の羽田氏は、アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世の事蹟を刻んだ巨大なベヒストゥーン石碑(前6世紀末)が前3世紀のアショカ王や始皇帝の碑文に影響を及ぼした可能性を指摘している。ペルシアからインドや中国への文化波及は、張騫らがシルクロードを拓く以前の時代からあったと考えるのが自然なようだ。

 タリム盆地周辺の歴史は、周囲の諸勢力のせめぎあいの歴史であり、かなり複雑で頭に入りにくい。今回の再読で、ウイグル族の西走が大きなポイントだと思った。モンゴリアで突厥帝国のあとを継いだウイグル帝国はキルギス・トルコ族の襲撃で瓦解、ウイグル族は西走する。それによって、アーリア系だった西域の住民のトルコ化が進む。ウイグル族の人々の容貌はアーリア化していく。トルキスタンの誕生である。西域で活躍した西ウイグルについては不明な事項も多いそうだ。

 西ウイグルやトルコ系のさまざまな部族について、あらためて整理・勉強してみたくなった。

筒井康隆自選恐怖小説集『鍵』で至福の読書時間2025年08月19日

『鍵:筒井康隆自選恐怖小説集』(筒井康隆/星海社)
 先月(2025年7月)新装版で出た筒井康隆氏の次の短篇集を読んだ。

 『鍵:筒井康隆自選恐怖小説集』(筒井康隆/星海社)

 本書の原本は1994年に角川ホラー文庫として刊行された自選恐怖小説集である。筒井康隆ファンの私は、筒井氏の小説はほぼすべて読んでいると思う。本書収録の小説は、わが本棚の単行本・文庫本・全集のいずれかに載っているはずである。だから、この文庫本が出たときにはスルーした。

 今回、新装版を入手したのは、自選恐怖小説集を1冊の本の形でまとめて読みたい気分になったからであり、何よりもタイトルに惹かれたからである。

 筒井氏には膨大な短篇があり、そのなかのどれを「推し」に選ぶかは容易でなく、ファンにとっては楽しい迷いである。私も大いに迷うが、最も惹かれた短篇のひとつが『鍵』なのは間違いない。古い鍵が昔の記憶を呼び起こし、その鍵を使うことによって、さらに昔の鍵が出てきて……という繰り返しによって、遠い昔のおぞましい記憶が次々によみがえってくるという恐ろしい話だった。

 その『鍵』がタイトルになった短篇集によって、久々に筒井ワールドに浸りたくなったのだ。この自選恐怖小説集の収録作は『鍵』『佇む人』『無限効果』『公共伏魔殿』『池猫』『死にかた』『ながい話』『都市盗掘団』『衛星1号』『未来都市』『怪段』『くさり』『ふたりの印度人』『魚』『母子像』『二度死んだ少年の記憶』の16篇である。

 表題を見て内容をほぼ想起できる作品が6篇、表題は憶えているが内容を失念している作品が5篇、表題も内容も忘れている作品が5篇である。この16篇を頭から順番に読んでいった。至福の読書時間だった。

 内容を失念している作品でも、読み進めると次第に思い出してくることが多い。だが、結末まではなかなか思い出せない。読んでいる場面に既視感があっても、その先が思い出せず、読みながら徐々に記憶がよみがえってくるのだ。そんな読書をしていると、これは『鍵』の主人公のスリリングな体験に似ているではないかと思いあたった。冒頭に『鍵』を据えた配列の妙を感じる。

 この短篇集の真ん中にある『都市盗掘団』は、表題の記憶があるだけで内容は忘れていた。読み進めていても、結末を思い出すことができず、唐突な終わり方にドキッとした。

 この『都市盗掘団』には「時さん」という女性が登場する。その名前にかすかな記憶がある。最近読んだ短篇で見た気がする。調べると、2023年10月刊行の短篇集『カーテンコール』に『お時さん』という短篇があった。発表は2021年5月だ。『都市盗掘団』(1989年3月発表)に登場する「時さん」は大きな屋敷に住むお譲さん、『お時さん』は飲み屋の女将だから別人である。だが、数十年の時を経た同じ人物のように思えた。

若き橘瑞超の『中亜探検』は面白かった2025年08月17日

『中亜探検』(橘瑞超/中公文庫/1989.6)
◎大谷探検隊とは

 先日読んだスタインの『中央アジア踏査記』に、ミーラン遺跡の壁画を破損した「若い日本人旅行者」の話があった。ネットで調べて、その日本人が大谷探検隊の橘瑞超だと判明し、何年か前に古書で入手して積んだままの『中亜探検』の著者が橘瑞超だと思い出した。スタインを読んだのを機にこの本も読んだ。かなり面白かった。

 『中亜探検』(橘瑞超/中公文庫/1989.6)

 本書巻末に金子民雄(歴史学者)による約50ページの解説と詳細な年譜がある。名前のみしか知らなかった大谷探検隊の概要を知ることができた。

 へディンやスタインが中央アジアを探検した20世紀初頭、大谷探検隊は1902年から1914年にかけて3回実施された。指揮したのは浄土真宗本願寺派(西本願寺)法主の家系に生まれた大谷光瑞(妻は大正天皇の皇后の姉)である。ロンドンに滞在していた光瑞は西域探検を計画、1902年に5名でロンドンから西域に向かう(第1回探検)。光瑞は26歳、他のメンバーも20代だった。翌年、父が死去し、光瑞は27歳で第22世法主となる。

 第2回探検(1908~1909年)は橘瑞超、野村栄三郎の二人が派遣される。このとき、橘瑞超は18歳。成績優秀だった瑞超は15歳で得度、光瑞の側近となっていた。「少年探検隊」の瑞超は楼蘭に到達し、重要な発掘をする。

 第3回探検(1910~1914)の前半は橘瑞超(20歳)、後半は吉川小一郎が担う。ロンドンからロシア経由で西域に入った橘瑞超は、タクラマカン砂漠縦断やチベット探索などを行うが、日本から連絡が取れなくなる。辛亥革命で騒然となった時期であり、瑞超捜索のため、吉川小一郎が派遣される。トルコ人に変装して探査行を続けていた瑞超は敦煌で吉川小一郎と劇的な出会いを果たす。瑞超は1912年に帰国(6月、京都着)。吉川小一郎は1914年まで調査を続行する。

 本書『中亜探検』は瑞超による第3回探検の記録(口述筆記)である。帰国から半年後の1912年の12月、瑞超22歳のときに刊行されている。

 本書刊行の翌々年の1914年、西本願寺の疑獄事件が起きる。第1回探検に参加した光瑞の側近も収監され、光瑞は38歳で法主を辞任、伯爵を返上、隠退生活に入る。反光瑞派からは西域探検の散財も問題にされる。探検を終えた吉川小一郎はひっそりと帰国する。その後、大谷探検隊の発掘品はばらばらになり、民間に流出して所在不明になったものもあるそうだ。

 ……と、ここまでが本書の背景説明である。本書の著者紹介には「光瑞の法王辞任後は隠棲して多くを語らず、謎多き人生でもあった。1968年死去、78歳」とある。

◎隊長は20歳

 本書で印象深いのは20歳という橘瑞超の若さと、探検隊の財力だ。若い瑞超には不撓不屈の探究心がある。金もある。だが無謀に思える場面もある。

 若干20歳で探検隊を率いる瑞超にどれほどの学識があったかは不明だが、英語・中国語・トルコ語ができ、西域に関わる史書も読み込んでいるようだ。本書によれば、第3回探検のロンドン出発前の1909年、大谷光瑞と共に英国でスタイン、ストックホルムでヘディンに会い「シッカリ遣るべし」と奨励されている。

 ミーランの壁画を破損した件について、瑞超は本書で触れていない。金子民雄の解説はこの件を次のように記述している。

 「瑞超師はアブダルからミーランに行き、先年、スタインが発見して持ち帰れなかった壁画を取り外そうとしたが、これはあまりに大きすぎてうまくいかず、一部砕いてしまった。とても無理と思って瑞超師も途中で作業を中止したようであるが、この情報は前年、スタインから知らされたものだった。スタインは自分の発見物だからといって先取権を主張しなかったのであろう。スタインは不満をもらしてはいるが、全部失ったわけではない。こうしたことはよくあることであり、この断片の一部は現在どうもソウルの博物館にあるようである。」

 若い瑞超は考古学への情熱はあっても、十分な技術が備わっていなかったようだ。身近に練達の技術者もいなかった。

 本書で驚いたのはタクラマカン砂漠の縦断だ。南から北へ、チェルチェンからブルクまで22日余をかけて縦断している。ヘディンもスタインも成し遂げていない壮挙である。暴挙に近いかもしれない。最後の数日は水が尽きた瀕死の状態だった。瑞超はトルコ人(1934年以降は古い名称復活で「ウイグル人」と呼ばれる人々)の部隊を率いての旅を次のように記述している。

 「私は僧侶の身でありますから、かかる場合に際会しての覚悟はすでに定っております。(…)私自身においては既に死の問題が解決されているのです。(…)けれどもただ金の力に引かれて、私に従ってきたトルコ人は、今や金の力も何の効力も奏せない、この大沙漠に立ったので、俄に発心し遥に西方メッカに向かって頻に礼拝するようになった。」

 その後、瑞超はホータンから南へ向かい、崑崙山脈の彼方のチベットを目指す。発掘だけでなく地図の空白を埋める探検への関心が強かったようだ。だが、この探検では多くの駱駝や荷物を失い、金で雇った隊員のほとんどが逃亡してしまう。瑞超に従って行けば命がないと思われたのだろう。探検は失敗に帰する。

 瑞超の行動は無謀に近い。駱駝に山道は難しいと知りながら駱駝を使うという判断は疑問だ。瑞超の冒険心や胆力には感嘆するが、隊員たちの人心を掌握して統率する力は、若さ故にまだ培われていなかったように思える。

玄奘はオーレル・スタインの「守護聖人」2025年08月14日

『中央アジア踏査記』(スタイン/沢崎順之助訳/白水社/2004.5)
 シルクロード関連の本を読んでいると、ヘディンとスタインの名の並記に出会うことが多い。2カ月前、ヘディンの『さまよえる湖』などを読み終えたとき、数年前に古書で入手したまま積んでいるスタインの本が気がかりになった。ヘディンだけではスタインに申し訳ないので、意を決して次の本を読んだ。

 『中央アジア踏査記』(スタイン/沢崎順之助訳/白水社/2004.5)

 2段組のやや小さい活字で約300頁。読みにくそうに思えたが、読み始めると意外に面白く、引き込まれた。オーレル・スタインは1862年ハンガリー生まれのイギリスの考古学者・東洋学者である。ヘディンより3歳年長の同時代人だ。二人とも中央アジア探検で有名だが、ヘディンは地理学者、スタインは考古学者なので、業績は重なるようで多少異なる。

 スタインは中央アジアを3回探査している。①1900~1902年、②1906~1908年、③1913~1916年の3回である。本書の原著は1933年刊行。一連の探査から十数年後に過去3回の探査をふり返って地域別に記述している。本書は1966年に出た訳書を改版したものである。

 巻末に挟み込みの地図があり、口絵などにかなりの数の写真を収録している。だが、本書を読み進めながら、これだけでは物足りないと思った。本文で言及する地名や遺物に地図や写真が対応しきれていないのが残念だ。

 本書には玄奘やマルコポーロへの言及が多い。彼らの足跡とスタインの探査地域が重なるからである。『大唐西域記』『東方見聞録』からの引用もあり、この二つの書を読んだばかりの私にとっては楽しい読書時間だった。スタインは玄奘の記録の正確性を称賛し、玄奘を「私の守護聖人」と述べている。

 本書のメインは壁画・木簡・絹絵などを発掘した際の現場報告である。有名な遺物の数々がスタインによって発掘されたことをあらためて認識した。遺跡の多くはタクラマカン砂漠の僻地にあり、そこに辿り着くまでが大変である。多くの作業員・ラクダ・資材などを調達する一大プロジェクトだ。山道や砂漠を行く旅では、スタインも徒歩が多かったようだ。タフな人だと感心した。

 ミーラン遺跡の壁画が日本人によって破損されたとの記述には驚いた。スタインは第2回の探査でフレスコ画を発見し、それを安全にとりはずすには周到な準備が必要と判断し、そのままにする。その後の第3回の探査で壁画に対面した場面をスタインは次のように語っている。

 「わたしの発見が報ぜられた数年後、考古学への情熱に見合うだけの準備も、専門的技術も経験もない若い日本の旅行者がやって来て、拙劣な方法でフレスコ画をはぎとろうとしたのだ。その企てが、ただ破損をまねくばかりであるのは当然だった。」

 ミーラン遺跡は普通の旅行者が行ける場所ではない。この「日本の旅行者」について調べると、大谷探検隊の橘瑞超のようだ。

 スタインは多くの遺物を大英博物館やインド(当時は英国領)に運び出している。清朝末期のこの時代、貴重な遺物を持ち出すのを当然と考えていた。放置すれば破壊・盗難・散逸のおそれがあると判断したのだろう。敦煌で発見された大量の文書や絵画は道教の僧侶が管理していた。スタインはその管理者と交渉を重ねて巧みに説得し、寄進と引き換えに大量の遺物を入手する。興味深い話である。

 だが、探検隊が発掘物を容易に持ち出せる時代は終わりつつあった。辛亥革命で中華民国がスタートし、次第に外国人による発掘が制限されていく。1930年、スタインは第4回の探査を試みるが果たせなかた。

かなり古い岩波新書『玄奘三蔵』をやっと読了2025年08月08日

『玄奘三蔵:史実西遊記』(前嶋信次/岩波新書/1952.7 第1刷、1966.11 第21刷)
 岩波新書の『玄奘三蔵、シルクロードを行く』に続いて次の岩波新書を読んだ。

 『玄奘三蔵:史実西遊記』(前嶋信次/岩波新書/1952.7 第1刷、1966.11 第21刷)

 73年前(!)に出た岩波新書である。私が入手したのは半世紀以上前の学生時代だと思う。読了しないまま書架に眠っていた。『玄奘三蔵、シルクロードを行く』の「あとがき」と『玄奘三蔵:西域・インド紀行』の「解題」の両方が、この新書を「名著」と言及していた。かすかな記憶を頼りに書棚を探索し、本書を発見した。

 著者・前嶋信次(1903-1983)はイスラム学者、東洋史家である。私は数年前に著者の『イスラム世界』『イスラムの陰に』を読み、その独特の語り口に不思議な魅力を感じた。

 本書冒頭で、著者は西暦600年頃を激動の時代としている。聖徳太子、ムハンマド、唐の太宗、玄奘らの時代である。日本への仏教渡来を「このややどぎつい、深みのある文化を、われらの祖先たちは、おそれたり、あこがれたりしていた」と表現し、600年頃を次のように描写している。

 「世界史の流れは俄にすさまじい勢を示し、さかまき、うずまき、天地をどよもし、無邊際に巨浪をつらねて流れ出したかのような感をあたえる。それでいて決して暗い感じではない。」

 そして、玄奘を次のように紹介している。

 「大きな期待に何となく胸の高鳴るをおぼえる黎明の時に、黄河の南、中原のかたほとりに眉目うるわしく、健やかな男の子が生まれ出て本篇の主人公となるのである。」

 高揚感あふれる前嶋節の玄奘伝への期待が高まる。だが、本編は『大慈恩寺三蔵法師伝』『大唐西域記』、『続高僧伝』をベースにしたオーソドックスの玄奘の伝記だった。「生い立ち」「旅立ち」「往路」「インドでの勉強と周遊」「帰路」「帰国後の訳経事業」をバランスよく記述している。

 往路で玄奘がバクトラ(かつてのバクトリア王国の中心地)を訪問したときの記述で、この地が後の『千夜一夜物語』に関連していると指摘している。あの長大な物語の翻訳者でもある著者らしい挿話で楽しい。

 本書で印象に残ったのは、インドでは仏教が衰退期にあることへの玄奘への嘆きである。『大唐西域記』にも荒廃した寺院の記述は多いが、描写は抑制的でヒンズー教への具体的な言及はない。本書は、それをきちんと描き、次のように記述している。

 「佛滅後千五百年で大釋迦ムニの教は、インドから消え去るであろうと云う豫言が行われていた。その徴候を玄奘は各地で見ているのである。」

 仏陀ゆかりの地を巡る旅は廃墟巡りに近い。祇園精舎は荒れはて、菩提樹の下で玄奘は次のように嘆く。

 「今萬里の異域からはるばるとここに辿りついて見れば、佛法はその發祥の地で衰え、観音像は砂中に沈もうとしている。この玄奘は何の故にかくも罪業が深いのであろうか……」

 そんなインドではあるが、玄奘はナーランダー寺院で戒賢から5年にわたって学び、さらには4年かけて南インドを周遊してナーランダー寺院に戻る。所期の目的をほぼ果たした玄奘は、膨大な経典を持って帰国の途につくのである。仏教が廃れつつあっても、なおインドには仏教の本場としての底力があった。底知れぬ国だと思う。

『玄奘三蔵、シルクロードを行く』は著者の肉声が聞こえてくる2025年08月04日

『玄奘三蔵、シルクロードを行く』(前田耕作/岩波新書/2010.4)
 『大唐西域記』玄奘の伝記を続けて読んだのを機に、次の新書を再読した。

 『玄奘三蔵、シルクロードを行く』(前田耕作/岩波新書/2010.4)

 本書を読んだのは11年前だが、読後感メモは残していない。玄奘の壮大な旅に中央アジアの魅力を感じた記憶がかすかに残っている。11年前、私はカルチャーセンターの講義で初めて著者に接した。その後、いくつかの講義を受講し、著者同行の海外旅行へも参加し、いろいろお話を聞く機会を得た。だから、著者を「先生」と呼ばないとしっくりこない。

 前田耕作先生は2022年12月に89歳で亡くなり、先生の業績を偲ぶシンポジジウムも開催された。

 本書の対象は『大唐西域記』全12巻のうちの巻1と巻2であり、先生の広範な学識と東西を見はるかす洞察に裏打ちされた魅力あふれる講義である。本書を再読していると、先生の肉声が聞こえてくる気がする。

 前田先生は若い頃からバーミアン遺跡の調査に携わっていた。バーミアン大仏破壊後の現地調査にも赴いている。バーミアンの歴史の現存する最古の記録が『大唐西域記』である。本書はバーミアンを含むアフガニスタンに多くのページを割いている。玄奘の記録をベースにした近代の発掘史は興味深い。7世紀の玄奘の旅を辿りつつも記述は現場レポートのように瑞々しい。先生が玄奘に憑依して語っているように感じられる箇所もある。

 本書「第1章 不東の旅立ち」では、『大唐西域記』には記述のない玄奘の生い立ちから密出国までを語っている。玄奘の青少年時代は隋朝末期から唐朝初期に移る動乱の時代だ。知的向上心の強い玄奘は模索する哲学青年だった。若き玄奘を描く前田先生は、自身の青年時代と青年玄奘を重ねているように思える。

 戦後の騒然とした時代に哲学科に入学した前田先生は、大学の授業とは別に在野の学者の勉強会に参加して鍛えられたそうだ。マルクス主義から現象学へ脱出する格闘だったらしい。同時に奈良の古寺を巡り、各地の遺跡発掘にも携わる。激烈な紆余曲折の青春だったという。先生は青年期の玄奘を次のように表現している。

 「活力にみなぎった青年期の玄奘の知の糧が、真諦の訳した諸経にあったことは、時代の流れもあろうが明らかであった。無著・世親の斬新な教学こそ、若き玄奘にとっては緻密に読み返すべき「精神現象学」であったにちがいない。」

 前田先生は知の探究者であると同時に行動する学者だった。古跡を巡る旅行では、そこに何も残っていなくても現場に立って何かを感じることが大事だと述べていた。玄奘も行動する学者である。先生が描く「旅する玄奘」は求法の僧であると同時に文化人類学者であり、異文化交流研究者である。先生の想いが玄奘に投影されているようにも感じられる。

 本書のメインはバクトリアとバーミアン、つまり現在のアフガニスタンであり、玄奘がハッダを後にしてガンダーラに向かう場面で終わる。結語は「ガンダーラ巡拝についてはいつの日か改めて語るとしよう」である。

 先生との雑談のなかで私が本書に触れたとき「あれは、続きを書かなければ…」とつぶやかれた。その思いを果たすことなく逝ってしまわれた。

旅の経緯を描いた『玄奘三蔵:西域・インド紀行』は面白い2025年08月02日

『玄奘三蔵:西域・インド紀行』(慧立・彦悰/長澤和俊訳/講談社学芸文庫)
 玄奘の『大唐西域記』に目を通し、その消化不良を補うために『西域記:玄奘三蔵の旅』を読み、『大慈恩寺三蔵法師伝』への興味がわいた。玄奘の弟子が同時代に書いた伝記である。

 『西域記:玄奘三蔵の旅』の著者・桑山正進氏は、この伝記(『大慈恩寺…』)が世に出る経緯を興味深く推理していた。『大唐西域記』の訳者・水谷真成氏は解説で「もし玄奘法師の行実の躍如たるを求むるならば、本書(『大唐西域記』)よりはむしろ『大慈恩寺三蔵法師伝』十巻をこそ選ぶべきであろう」と語っている。

 そんな記述に誘われて『大慈恩寺三蔵法師伝』の日本語訳である次の本を読んだ。

 『玄奘三蔵:西域・インド紀行』(慧立・彦悰/長澤和俊訳/講談社学芸文庫)

 シルクロード関連の著書が多い長澤和俊氏は若い頃、『大慈恩寺三蔵法師伝』全十巻の全訳を上梓している。その前半五巻を改訳したのが講談社学芸文庫版の本書である。前半五巻は玄奘が西域へ旅立ってから帰国するまで、後半五巻は帰国後の経典翻訳の話だそうだ。私にとっては前半だけで十分である。

 本書は『大唐西域記』より読みやすい。出国時や帰国時の経緯もいろいろ書いてあって興味深い。仏教に関する討論試合などの記述も、単に勝敗だけでなく討論の内容にまで立ち入って記述している。だが、仏教思想に無知な私は哲学的談義について行けない。残念である。玄奘が巡った国々の地誌や故事に関する記述には『大唐西域記』との重複を感じる箇所もある。

 玄奘は求法のためにインドに行きたいと上奏するが、国外旅行はダメとの詔が下る。よって、密出国することになる。苦労のうえ玉門関を突破する場面は面白い。その後の砂漠の旅については「空には飛ぶ鳥もなく、地上には走る獣もなく、また水草もない。あたりをみまわしても、ただ一つ自分の影があるのみである」と表現している。過酷な旅だったようだ。

 だが、砂漠を抜けて伊吾(ハミ)に到達して以降は、おとぎ話のようなトントン拍子で、大名行列に近い旅になる。懇意になった高昌国王は玄奘のために、さまざまな物資と共に少年僧4人、手力(クーリー)25人、馬30匹、道案内などを提供、先々の国への封書や贈物も持たせてくれる。

 とは言っても、天山山脈を越える山旅は大変だったようだ。「キャラバンのうち、凍病死した者が十人のうち三、四人もあり、牛馬はそれ以上だった」と記述している。玄奘の旅に巻き込まれて落命した人は少なくない。

 帰国の旅も、北インドを支配するハルシャヴァルダナ王(戒日王)の支援を受けて象に乗った大行列になる。大量の経典や仏像を持ち帰るには象が必須だ。しかし、途中で象が溺死してかなりの経典を失う。クスタナ(ホータン)まで帰ってきた玄奘は皇帝に上奏文を送り、皇帝からは歓迎の返書が届く。沿道の諸国には、玄奘に人夫や馬を提供するようにとの勅令も出る。密出国したにもかかわらず、大歓迎を受けるのだ。

 この伝記を読むと、玄奘という人物の大きさが伝わってくる。探究心や向学心が旺盛な優れた学者であると同時に現場に赴くことを重視する行動の人であり、並外れた政治力やコミュニケーション力をそなえた人物だったと思える。

 本書で面白く思ったのは、ソグド商人に関する記述である。さほどソグド商人が登場するわけではないが、その多くが悪人だ。たまたまなのか、そんなイメージが一般的だったのか、よくわからない。