『環境問題の嘘 令和版』(池田清彦)はCO2温暖化説を否定しているが…2021年05月01日

『環境問題の嘘 令和版』(池田清彦/Mdn新書/エムディーエヌコーポレーション)
 生物学者の池田清彦氏の次の新書本を読んだ。

 『環境問題の嘘 令和版』(池田清彦/Mdn新書/エムディーエヌコーポレーション)

 この新書は、ご隠居さんの奔放なおしゃべりを文字にした座談の趣があり、読みやすくて面白い。緻密な議論の書とは言い難いところもあり、著者の主張を検討するには関連資料を精査するべきだろう感じた。

 話題は多岐にわたり、メインはCO2温暖化説の否定である。CO2温暖化否定の本を読むのは久しぶりだ。5年前の 『地球はもう温暖化していない』(深井有) 以来だと思う。最近の新聞は「脱炭素」関連の記事であふれ、CO2温暖化はすでの世界の常識になったように見える。科学の問題ではなく政治・経済・社会の問題として走り出しているので、止めようがないのだ。著者は次のように述べている。

 《人為的地球温暖化論を推進しているのは、エコという正義の御旗を梃子にCO2削減のためのさまざまなシステムを構築して金もうけを企んでいる巨大企業と、それを後押しする政治権力で、反対しているのは何の利権もなく、データに立脚して物事を考える科学者なんだよね。》

 本書全般における著者の批判対象はグローバル資本主義である。それに対抗する道として、物々交換のローカリズムを提唱し、次の見解を提示している。

 《中産階級以下の人が優雅に生きようとするならば、短期的に利潤だけを追求するラットレースから降りて、貨幣に全面依存しないで生きられるような定常システムを構築して、ダンバー数(互いに密接な関係を築ける集団構成員数の上限)以下の信頼できるコミュニティの中で生活するのが一番いいと思う。》

 やや現実離れした夢物語に思えるのが、隠居の放談らしさかもしれない。最近、これと似た印象のビジョンに接した。『人新世の「資本論」』(斎藤幸平)である。斎藤幸平氏はCO2温暖化を全面的に肯定し、それを論拠としていた。地球温暖化に関しては真逆の立場の池田清彦氏と斎藤幸平氏のビジョンが似ているのが面白い。

遺跡発掘の興奮が伝わってくる『オリエント古代の探求』2021年05月03日

『オリエント古代の探求:日本人研究者が行く最前線』(清岡央・編/中央公論新社)
 子供の頃、いろいろな探検物語に接して血わき肉おどる思いで「探検」に憧れた。地球上から「秘境」が消滅しつつある現在、もはや「探検」という言葉は色あせつつあると感じていたが、次の本を読んで、そうでもないと思った。

 『オリエント古代の探求:日本人研究者が行く最前線』(清岡央・編/中央公論新社)

 海外で古代遺跡の発掘調査に携わっている研究者9人へのインタビューをまとめた本である。地表の「秘境」が消えても地中には未踏の遺跡が数多く眠っている。発掘という探求は過去に向かう限りなき探検だと気づいた。

 本書で紹介されている遺跡の場所は、アフガニスタン、エジプト、イスラエル。イラク、バハレーン、インド、パキスタン、シリア、キルギスなどである。現在も発掘作業が続いている遺跡がメインだが、バーミアンやパルミラのように「イスラム国」に破壊されて修復が課題になっている遺跡もある。

 現在、オリエント地域では二十を超える日本の調査団が活動しているそうだ。本書を読むと発掘現場の日々の苛酷さがわかり、それでも発掘を続ける研究者たちの探求心に感嘆する。彼らの話で面白いのは、新たな遺物を発見したときの興奮である。ときめきが伝わってくる。

 墳墓には「宝」が眠っていることが多いので、長い歴史のなかで大半が盗掘されている。だから、盗掘されていない墳墓を発見したときの喜びは格別である。そんなとき、まず警戒するのが盗掘だと知り、なるほどと思った。盗掘は過去のものではないのだ。

 人類の探求心が継続するのは喜ばしく、それが失われば人類は滅亡するだろうが、人々を盗掘にかりたてる欲望も消えることがないのか。

『レストラン「ドイツ亭」』は映画のようなアウシュヴィッツ小説2021年05月05日

『レストラン「ドイツ亭」』(アネッテ・ヘス/森内薫/河出書房新社)
 今年(2021年)1月に翻訳が出たアウシュヴィッツ絡みのドイツ小説を読んだ(原著は2018年刊行)。

 『レストラン「ドイツ亭」』(アネッテ・ヘス/森内薫/河出書房新社)

 オビの惹句だけでおよその展開が読める小説ではあるが、読み始めると引き込まれ、映画を観ているような感覚で一気に読了した。作者(女性)は1967年生まれの脚本家で、本書が最初の小説だそうだ。

 この小説は、強制収容所でのユダヤ人虐殺に関わった関係者を裁いたフランクフルト・アウシュビッツ裁判(1963年~1965年)を題材にしている。ニュルンベルク裁判やアイヒマン裁判の後、ドイツ人自身によってドイツ人を裁いた裁判である。

 史実をベースにしたフィクションで、時代設定は裁判開始前から結審までの1960年代前半、主人公はレストラン「ドイツ亭」の娘、ポーランド語とドイツ語の通訳である。急遽、裁判の通訳を依頼された主人公と婚約者や家族をめぐって過去が浮かび上がってくる。何も知らなかった主人公が、裁判における証言を通じてホロコーストの歴史に向き合っていく物語である。

 1960年代は冷戦時代で、ドイツは東西に分かれていて、アウシュヴィッツのあるポーランドは共産圏である。そんな時代に、この小説の裁判関係者たちはアウシュヴィッツ訪問を果たす。私は4年前にアウシュヴィッツ見学をしているので、このシーンは身に迫ってきた。

 フィクションではあるが、あり得たかもしれない市井人の苛酷な状況を描出したこの小説は、多くの若い人々に読み継がれるべきメッセージを提示している。

 とは言え、あざとい小説だなという気もする。この題材が提示しているものをノンフィクションとして読みたいという気分になる。フランクフルト・アウシュビッツ裁判に関する一般向けの本はないのだろうか。

カズオ・イシグロ『クララとお日さま』のやるせなさ2021年05月07日

『クララとお日さま』(カズオ・イシグロ/土屋政雄訳/早川書房)
 カズオ・イシグロのノーベル文学書受賞第一作を読んだ。話題作である。

 『クララとお日さま』(カズオ・イシグロ/土屋政雄訳/早川書房)

 童話のようなタイトルと装丁である。タイトルが暗示するとおりに、おとぎ話のような雰囲気の話で、それがSF仕立てになっている。

 2017年にカズオ・イシグロがノーベル文学書を受賞したとき、はじめてその小説を読み、その世界に引き込まれて続けて 何冊もの長編 を読んだ。あれから3年半、久々のイシグロ世界に接し、「相変わらずだな」という思いと「何か変わっているな」という思いが半々である。それを明確に表現できないのがもどかしい。

 静謐な一人称小説はイシグロ世界の定番だが、AF(人工親友)というアンドロイドの一人称で通しているところが不思議で、奇異でもある。機械に意識を発生させる「機械の意識」という先端科学テーマのSFというわけではなさそうだが、この一人称の意識は人間とは少し異なっているように見える。感情や心のありようを追究した文学だと思うが、そこにかすかなニヒリズムの悲哀を感じる。

 断片的に描かれた未来世界(異世界というべきか)の様子も基本的には荒涼としている。そのなかに暖かさや心地よさを見出そうとしているのが何ともやるせない。寓話のようでもあり、心象風景のようでもある。

STAP事件批判の告発本『反オカルト論』は説得力がある2021年05月09日

『反オカルト論』(高橋昌一郎/光文社新書
 私はオカルトに懐疑的で、超能力や超常現象はトリックか脳内現象だと思っている。先日読んだ 『フォン・ノイマンの哲学』 の著者・高橋昌一郎氏にオカルト批判の新書があると知り、入手して読んだ。

 『反オカルト論』(高橋昌一郎/光文社新書)

 週刊新潮に連載したコラムをベースにした2016年刊行の新書で、教授と助手(理系女性研究者)の会話という読みやすい形式だ。気軽な雑談風とは言え、全8章それぞれの末尾に「解説」に加えて読者に問う「課題」があり、教科書のようである。この問いに真面目に対応して答案を作るのは大変だと思った。それはオカルトに騙されない判断力を涵養するための課題になっている。

 オビに「STAP事件は現代のオカルト!」とあり、あれが何故オカルトなのかピンとこなかったが、本書を読み終えて納得した。STAP事件をめぐる学界やメディアの対応への告発こそが本書のメインテーマのようにも思える。

 第1章はスピリチュアリズムの起源から始まる。それは、19世紀のフォスター姉妹(14歳と11歳)のイタズラによる「怪奇現象」であり、イタズラが大人たちの思惑によって社会現象にエスカレートしていくさまを紹介している。また、妖艶なミナ夫人の「霊能力」に優秀な科学者たちが容易に騙されていく話も描いている。

 続いてSTAP事件に話題が移っていく。著者は小保方晴子氏をミナ夫人らのような欺瞞の人と見なしている。欺瞞には自己欺瞞もあり、著者は彼女をコミュニケーション能力にに長けた「抜群に世渡りの上手な人物」とし、彼女を中心に関係者の思惑が現代科学の最先端の場でオカルトを発生させたという見解である。

 本書全体のおよそ三分の二が、スピリチュアリズムの解明とSTAP事件の分析に当てられている。「なぜ騙されるのか」「なぜ妄信するのか」「なぜ不正を行うのか」「なぜ自己欺瞞に陥るのか」「なぜ嘘をつくのか」という視点から、STAP事件がスピリチュアリズムと同様のオカルトだと追究していく展開に迫力がある。辛辣な小保方晴子氏批判、学界批判であり、私は納得・賛同できた。

歴史の概説書と思って読んだら「研究史」の概説書だった2021年05月11日

『歴史世界としての東南アジア』(桃木至朗/世界史リブレット/山川出版社)
 今年の3月から4月にかけて読んだ『世界史との対話』(全3冊)の『第28講 東南アジアからみた「大航海時代」』(中巻収録)は、かつて「地理上の発見」と言われた時代が実は「発見」などではなく、すでに東南アジアの海では交易が盛んだったことを描いていて興味深かった。

 あの時代、東南アジアの海岸には「港市国家」という独特の国家が発達していたそうだ。もう少し詳しく知りたくなり、第28講の末尾のブックガイドを眺めた。紹介された24点のなかから、最も手軽に読めそうな次のブックレットを入手して読んだ。

 『歴史世界としての東南アジア』(桃木至朗/世界史リブレット/山川出版社)

 この本は私の想定した内容とは大きく異なっていた。東南アジアの「港市国家」の姿を知りたくて読んだが、東南アジアの交易時代を概説する啓蒙書ではなく、「研究史」の概説書だった。少々面食らったが、こんな内容になった事情は納得できた。

 インドシナ半島からインドネシアやフィリピンなどの島嶼部までをカバーする東南アジアを総合的にとらえる「東南アジア史」研究は、実はかなりややこしいようだ。そのややこしさを伝えるため、著者はあえて、研究者たちが「東南アジア史をどのようにとらえてきたか」を概説する研究史という形をとっている。

 というわけで、私には未知の研究者たちの学説紹介の展開を読むことになった。話は歴史学だけでなく文化人類学・社会学・考古学などに広がる。門外漢の私が著者の議論を十分に理解できたわけではないが、研究者たちの甲論乙駁は面白い。歴史研究の現場の雰囲気が少しわかった気がした。

冒険小説『北京の星』を読み、1971-72年を回顧2021年05月13日

『北京の星』(伴野朗/光文社文庫)
 私より一世代若い知人と中国に関する雑談をしていて周恩来が話題になり、伴野朗の『北京の星』という小説が面白いと教えらえた。さっそく、古書で入手して読んだ。

 『北京の星』(伴野朗/光文社文庫)

 半世紀前の衝撃的な米中接近時代の政治・外交を題材にしたエンタメ冒険小説で、当時の世の中の雰囲気を懐かしく思い出した。

 作家・伴野朗は中国語に通じた元新聞記者でサイゴン支局長や上海支局長などを経験している。この小説の主人公は香港支局長の新聞記者で、時代は1971年。キッシンジャーが隠密訪中で周恩来と会談し、ニクソン大統領の訪中計画を発表して世界を驚かせた年である。

 キッシンジャーの隠密訪中を巡る台湾や中国国内の諸勢力の暗躍を描いていた小説である。殺人事件や派手な活劇を盛り込んだフィクションではあるが、周恩来、林彪、王洪文、キッシンジャー、ニクソンなど実在の人物が登場し、彼らの動向はおおむね史実をベースにしていると思われる。タイトルの「北京の星」は周恩来を指す。

 小説を読みながら1971年という時代を確認したくなり、『朝日新聞に見る日本のあゆみ(昭和46年-47年)』や歴史年表をめくった。

 当時、私は大学生だった。あの頃、中国は門戸の狭い謎の国で、文革はまだ終わってなく、ベトナム戦争も続いていた。突然の米中接近には私も驚いた。キッシンジャーの隠密訪中が1971年7月で、当時の朝日新聞の見出しには「日本政府を頭越し 困惑深刻、自身失う」とある。3カ月後の1971年10月、国連でアルバニア案が可決され中国の国連参加が決まり、台湾は国連脱退を表明する。ニクソン訪中は翌1972年2月で、そのとき日本は、あさま山荘事件の真っ最中だった。テルアビブ空港乱射事件はその3カ月後である。1960年代末の騒乱の残り火で、時代はまだ騒然としていた。

 あれから半世紀、中国、香港、台湾をめぐる状況は大きく変わった。あの頃、こんな未来になるとは思いも及ばなかった。

オスマン帝国のイスラムは融通無碍で習合主義的だった2021年05月15日

『オスマン帝国:繁栄と衰亡の600年史』(小笠原弘幸/中公新書)
 先日読んだ 『オスマン帝国500年の平和』(林佳世子) の記憶が蒸発してしまう前にオスマン関係の本をもう1冊と思い、次の新書を読んだ。

 『オスマン帝国:繁栄と衰亡の600年史』(小笠原弘幸/中公新書)

 1974年生まれの若い(私に比べて)研究者が2018年に出した新書である。オビに「樫山純三賞受賞」とあり、未知の人名なので検索した。オンワード樫山の創業者の名で「国際的視野にたった社会有益な図書を表彰」する賞だとわかった。

 概説書を2冊読むと、これまであまり馴染みのなかったオスマン帝国のイメージがかなりくっきりしてきた。

 オスマン帝国には600年(14世紀~20世紀)の歴史があり、『オスマン帝国500年の平和』は18世紀までの500年を中心に描いていた。本書は600年の全史を次の四つの時代区分に沿って要領よく概説している。

 (1)封建的侯国の時代(1299年頃-1453年):《辺境の信仰戦士》
 (2)集権的帝国の時代(1453年-1574年):《君臨する「世界の王」》
 (3)分権的帝国の時代(1574年-1808年):《組織と党派のなかのスルタン》
 (4)近代帝国の時代(1808年-1922年):《専制と憲政下のスルタン=カリフ》

 この帝国にはオスマン1世に始まる36人のスルタンがいる。コンスタンティノープルを陥落させたメフメト2世のような有名人もいれば、在位の短い無名のスルタンや無力な傀儡スルタンもいる。本書は歴代スルタン全員に言及し、その肖像画(近代は写真)も掲載している。私のような門外漢には親しみやすい記述スタイルである。

 オスマン帝国600年を大雑把に言えば、イスラム教以外にも寛容で多民族共生を謳歌していた帝国が、長い時間を経て、民族主義・国民国家の潮流によって解体していく歴史である。帝国主義が優れているわけではないが、歴史の悲哀と矛盾を感じる。

 オスマン帝国のイスラムは、もともと融通無碍で習合主義的性格をもっていた。クルアーン(コーラン)の文言より現実を優先させていたという指摘が興味深い。この帝国が長続きしたのには「柔構造」という要素があったのだ。

 そんな「柔らかいイスラム」への批判として台頭してくるのが厳格主義で、それはポピュリズム的手法を活用したという指摘が示唆に富んでいる。宗教意識は古代のものではない。近代になって宗教意識が強調されるのであり、「想像の共同体」というナショナリズムの発生に連動している(日本も同じ)。

 オスマン帝国600年の歴史を概観するだけで、人類の歴史の典型的な側面が見える気がする。

『コンスタンティノープルの陥落』は多角的視点の歴史小説2021年05月17日

『コンスタンティノープルの陥落』(塩野七生/新潮文庫)
  『オスマン帝国500年の平和』 (林佳世子)、 『オスマン帝国』 (小笠原弘幸)の2冊を読み、塩野七生氏の海戦三部作(『コンスタンティノープルの陥落』『ロードス島攻防記』『レパントの海戦』)を思い出した。そのうち読もうと購入したままだったが、頭がオスマン帝国モードになっているいまこそが読む時だと思った。三海戦ともオスマン帝国とキリスト教国との戦いである。

 まずは、1453年のコンスタンティノープル陥落の物語を読んだ。

 『コンスタンティノープルの陥落』(塩野七生/新潮文庫)

 読みやすい歴史小説である。陥落させる側はオスマン帝国の「若者」メフメト2世(本書ではマホメッド2世と表記)、敗れる側はビザンチン帝国(東ローマ帝国)最後の皇帝「敬愛される」コンスタンティヌス11世である。と言っても、この二人を中心にした記述にはなっていない。多角的視点の「見てきたような」描写で臨場感のある物語を紡いでいる。

 この歴史小説には陥落を体験・目撃した「現場証人」が多く登場する。コンスタンティノープル側の人物は、ヴェネツィア艦隊の指揮官、軍医、フィレンツェの商人、ローマ教会から派遣された枢機卿、修道士、イタリアからの留学生、ジェノヴァの代官、皇帝の秘書などである。オスマン側はスルタンの小姓やセルビアの指揮官らが登場する。この多様な登場人物たちの視点で、場面転換をくり返しながら物語が進行する。陥落する側の「現場証人」が多いことからもあきらかなように、千年以上続いた都市が滅亡するさまを描いた悲劇である。

 やや長めのエピローグが私には興味深かった。「現場証人」たちの後日談によって、これらの登場人物たちが何らかの形で陥落の記録を残した人々だと判明する。中には長く埋もれていて19世紀になって明らかになった記録もあるそうだ。

 本書はオスマン帝国を「トルコ」と表記している。最近になって「オスマン帝国はトルコとは言えない」と知ったので、少し気になる。だが、私も長いあいだ「トルコ」と認識していたし、いままでに読んだ本の大半は「トルコ」と記述して、抵抗なくそれら接していた。気にしてもしょうがないが、オスマン帝国を指す「トルコ」に頭の中でカッコを付ける気分で読んだ。

『ロードス島攻防記』で聖ヨハネ騎士団の「その後」を知った2021年05月19日

『ロードス島攻防記』(塩野七生/新潮文庫)
 塩野七生氏の海戦三部作の2作目は、聖ヨハネ騎士団の拠点ロードス島がオスマン帝国に奪われる物語である。

 『ロードス島攻防記』(塩野七生/新潮文庫)

 11世紀に結成された聖ヨハネ騎士団は十字軍で活躍しイェルサエムに拠点を得る。しかし、13世紀末のイスラム勢の攻勢に敗北し、難民となってキプロス島に逃れる。その後、14世紀初めにロードス島を征服し、ここに拠点を築く(1308年)。本書が描く攻防戦によってロードス島を失うのは、それから200年以上後の1522年である。再び難民となった騎士団はマルタ島に拠点を移す。

 今年初めに読んだ 『十字軍物語』(塩野七生) で聖ヨハネ騎士団の活躍に接していたので、彼らの後日談を語るこの歴史小説を興味深く読むことができた。

 また、私は10年以上前に マルタ島観光 をしたことがあり、聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)の武具などを展示した博物館や紺碧の海を臨む城砦を見学した。そのとき、この島を築いた聖ヨハネ騎士団についてもっと知りたいと思いつつ年月が経過した。本書によって、昔の宿題を果たした気分である。

 マルタ島は小さな島だった。ロードス島はその5倍以上の面積で、沖縄本島より少し広い。この攻防戦は海戦の部分もあるがメインは陸戦である。この歴史小説で興味深かったのは城壁建築の技師に着目している点だ。騎士の物語だが、騎士と同等あるいはそれ以上に活躍するのが技師なのが面白い。

 本書のエピローグによって、聖ヨハネ騎士団は18世紀末にナポレオンによってマルタ島を追放され、現在もローマ市内に治外法権の拠点があり、医療活動をしていると知って驚いた。マルタ島観光をした私は、そこに住む人々は騎士団の末裔だと思っていたが、早とちりだったようだ。