『騙し絵の牙』が想定通り大泉洋主演で映画化2021年04月05日

 先週から公開中の映画『騙し絵の牙』を観た。 原作の小説 を読んだのは3年以上前で、構造不況の出版業界を描いた面白い話だと思った。この小説で驚いたのは、主人公を俳優・大泉洋にアテガキしていることだった。表紙には大泉洋が主人公に扮した写真が載っていた。役者をアテガキする戯曲はあるが小説は珍しい。

 この小説が刊行された頃、大泉洋がどこかで「この小説が映画化されるとき、ぼくが主人公じゃなかったら騙しですよね」と語っていた。小説が売れないことをネタにしたこの小説がどれほど売れたかは知らないが、無事、大泉洋主演で映画化されたのはご同慶の至りである。

 映画の展開は小説とは少し異なっている。大手文芸出版社という舞台設定は同じだ。雑誌、特に文芸雑誌が売れなくなってきた時代への対応を迫られている出版社の話は興味深い。小説で描かれていたパチンコ業界やゲーム業界との絡みは映画では省かれている。そのかわり、というのも変だが、町の本屋の苦境が取り上げられている。

 映画は小説以上に「騙し合い」をメインにしたエンタメになっていて、それなりに楽しめた。出版不況への対応策を提示しているわけではないが、現代の問題を提示しているのは確かだ。

 どうせなら「小説の映画化」というプロジェクトそのものを映画化して、メタフィクション風に映画業界を相対化して観せる映画にしても面白かったのではと思った。

重い世界史講義全70回を読了、頭が疲れた2021年04月08日

『世界史との対話:70時間の歴史批評(下)』(小川幸司/地歴社)
 『世界史との対話:70時間の歴史批評(下)』(小川幸司/地歴社)

 ようやく『世界史との対話(下)』を読み終えた。高校で週2回の授業なら年70回になるそうだ。高校教師による本書は70回の講義を上・中・下の3冊にまとめている。 上巻 が24回分、 中巻 が23回分、下巻が23回分と均等配分なのに巻を追うごとに厚くなる(上巻334頁、中巻382頁、下巻474頁)。近現代を語る下巻は上巻(古代・中世)の1.4倍の厚さである。

 下巻が厚いのは近現代になるに従って講義に熱が入ってきて、現代社会を歴史を通して考えるということが深化されていくからである。国民国家とナショナリズム、格差の拡大など現代の課題の淵源が世界史から浮かび上がってくる講義で、著者の熱い思いが伝わってくる。

 下巻冒頭の第48講はドーデの『最後の授業』とアルザスの話で、とても面白い。小学生の頃に読んで感銘を受けた『最後の授業』が、実はいろいろ問題がある作品だとは仄聞していたが、アルザスという地の二転三転の顛末には驚いた。『「国民国家」がかくも人々を翻弄するものかということに愕然とせざるをえません』という著者の感慨が印象深い。

 ナチス台頭のドイツや太平洋戦争に突き進んだ日本などを例に、状況追随的な思考を積み重ねていくうちに引き返せない事態になるとの指摘は、まさに歴史から学ぶべき重要事項だろう。他にも、興味深い考察満載の講義である。

 下巻最後の第70講のタイトルは「トリニティからチェルノブイリとフクシマへ」である。トリニティはマンハッタン計画における史上初の原爆実験場「トリニティ・サイト」のことである。トリニティ(三位一体)などと名付けたとは知らなかった。著者は、作家・林京子(長崎の被爆者)がトリニティ・サイトを訪れたときの文章を引いて、人類史・地球史に立ち返った上で現代社会に生きる我々の課題を提示している。

 頭が疲れる重い世界史講義全70回だった。

ロングセラー『栽培植物と農耕の起源』はスリリングな書2021年04月10日

『栽培植物と農耕の起源』(中尾佐助/岩波新書)
 1966年1月の刊行後、半世紀以上読み続けられてきた次の岩波新書を読んだ。私が読んだのは、2020年12月発行の64刷改版である。

 『栽培植物と農耕の起源』(中尾佐助/岩波新書)

 先日読んだ『世界史との対話(上)』 で本書を名著と紹介していたので興味がわいて入手した。オビには「絶対名著」の大活字が躍っている。

 イネやムギの栽培種は野生種とは大きく異なっているという話から、植物学的に農耕の起源を探っていく導入部に引き込まれ、興味深く読み進めた。だが、途中から少し難しくなる。生物学や農学の予備知識がないので、知識不足で理解しにくい事項が増えてくる。そのたびにネットや参考書で調べるのは面倒だし、もどかしくもある。わからない事はそのまま読み飛ばして強引に読了した。

 だから十全に理解したとは言い難いし、自分がこの分野に未知だと自覚させられた。でも、本書の面白さは堪能できた気がする。本書は通常の啓蒙書ではなく、著者の調査研究のレポートであり、通説を再検討した自説展開の書である。一般向けに書いたスリリングな学術書のようにも思える。門外漢が研究現場の息吹を感じることができて面白いのだ。

 本書に雑草と野草は違うという指摘があり、驚いた。私は10年近く前から八ヶ岳南麓で野菜作りの真似事をしていて、畑仕事とは雑草との終わりなき戦いだと感じている。年に2回は草刈り機で山小屋の庭の雑草(野草)も刈る。それを怠ると雑草(野草)に侵略されて大変なことになる。雑草も野草も同じものだと思っていた。

 栽培植物は野草を元に人間が作りだしたものだ。それはよくわかる。雑草とは農耕という人間が作りだした環境に生じたもので、野草ではなく野草から進化したものだそうだ。人類は自分が作りだしたものとの終わりなき戦いをしているのだ。そう考えると何とも感慨深い。

壮大な歴史絵本のような映画『クレオパトラ』2021年04月16日

 1963年公開の映画『クレオパトラ』をブルーレイで観た。私が中学生の頃に公開された大作映画で、当時いろいろ話題になっていたのは憶えている。エリザベス・テーラーやリチャード・バートンという俳優名もその頃に知った。だが、歴史やクレオパトラにさほどの関心がなかったので、映画を観たいとは思わなかった。

 中学生の頃に関心がなかった映画を70歳を過ぎて初めて観たのは、年を取って歴史への関心がわいたからである。いつかは観ようと思いつつ、ずるずると半世紀以上の時間が経過したとも言える。

 この10年ばかりで古代ローマ史関連の本をいくつか読んできたので、カエサルやクレオパトラに関する知識も多少は増え、そのイメージの定着に資するだろうと思って映画を観た。

 壮大な失敗作との評判を知ったうえで4時間を超えるこの映画を観て、失敗作と言われる由縁が理解できた気がした。長時間の映画にもかかわらず歴史のダイジェストを眺めている感じで、何とも平板な印象の物語なのだ。

 しかし、映像には圧倒された。CGのない時代に壮大なセット、華麗な衣装、膨大なエキストラを使って作り上げた情景には感心する。大規模な絵本を眺めている気分になる。20世紀フォックスの経営を傾かせるほどの製作費を費やしたということが納得できる。

 もちろん、映画の画像が歴史の実景だとは思わない。あくまでハリウッド的な古代ローマ時代の情景である。歴史の情景は、これまでさまざまな絵画で表現されてきた。同様に映画でも表現されてきた。それがフィクションであっても、歴史のあれこれを自分の頭の中に定着させるには有効だと思う。史実とおぼしき史料をベースに、画家や映画製作者が想像し創造した情景を借用してイメージを紡がなければ、歴史を知った気にはなれない。

国民国家成立前の時代を描いた『オスマン帝国500年の平和』2021年04月26日

『オスマン帝国500年の平和 (興亡の世界史)』(林佳世子/講談社学術文庫)
 オスマン帝国にはエキゾチックな敵役というイメージがある。コンスタンティノープル陥落やウィーン包囲の印象が強く、スルタンとハレムのトプカピ宮殿の姿が思い浮かび、自分のなかの西欧中心史観を自覚する。

 先日読んだ『世界史との対話(中)』の「第36講 オスマン帝国の栄光と黄昏」には、私の知らないオスマン帝国の姿が描かれていて、次の指摘があった。

 《昔の世界史教科書は「オスマン・トルコ」と呼んでいました。でも彼らはトルコ人の国であるという自覚はなかったので、この呼び方は間違っています。》

 まさに私は、オスマン・トルコと覚えた世代である。西欧史の敵役、イスラム史の脇役といった、ぼんやりした断片的イメージしかないオスマン帝国の姿を少しクリアにしようと思い、次の本を読んだ。

 『オスマン帝国500年の平和 (興亡の世界史)』(林佳世子/講談社学術文庫)

 本書は私にとって非常に新鮮だった。トルコ人の国、イスラムの国という見方がいかに間違っているかがわかった。他の宗教に寛容だったイスラム教とキリスト教(ギリシア正教、アルメニア教会など)などとの関係が具体的に見えてきた。また、この帝国は多様な「民族」から構成されていたこともわかった。著者はオスマン帝国を「何人(なにじん)の国でもなかった」と表現している。

 オスマン帝国(当初はオスマン侯国)は14世紀前半に誕生し、滅亡したのは第一次世界大戦後の1922年である。約600年続いた帝国だが、本書のタイトル「500年の平和」は14世紀から18世紀までを指し、それが本書の主な対象であり、19世紀以降の近代100年は簡略に触れているだけだ。

 オスマン帝国の領土は現在のトルコよりはるかに広く、バルカン半島からシリア、エジプトまでを含んでいる。そんな帝国の命脈が続いたのは18世紀までであり、それ以降は国の姿や体制が大きく変化している。

 本書の冒頭で著者は、なぜトルコ人だけが「何人(なにじん)の国でもなかった」オスマン帝国の末裔とされたか、その経緯を述べている。バルカンやアラブの人々は、歴史のある段階でオスマン帝国と敵対して建国したので自らをオスマン帝国の末裔と位置づけることを拒否した。事情はトルコ共和国も同じで「トルコ人の国」ではなかったオスマン帝国の否定からスタートしている。と言うものの、近代の帝国末期には「トルコ人の国」のような形に縮小していたので、トルコ共和国がオスマン帝国の末裔役を引き受けることになったそうだ。

 こんな事情は、近代が国民国家なるものを生み出したせいである。国民国家の課題を考えるにはオスマン帝国は興味深い研究対象だと知った。私には、それが本書の大きな収穫だった。

 本日(2021年4月26日)の朝刊に、バイデン米大統領の声明にトルコのエルドアン大統領が反発したとのニュースが載っていた。オスマン帝国末期に起きたアルメニア人迫害を、米国が「ジェノサイド」と認定したことへの反発である。トルコ共和国がオスマン帝国の末裔を引き受けていることをあらためて認識した。近代が生み出した国民国家と民族問題は21世紀の大問題である。

新書大賞の『人新世の「資本論」』は気宇壮大だが……2021年04月29日

『人新世の「資本論」』(斎藤幸平/集英社新書)
 気になりつもスルーしていた新書を読んだ。きっかけは、新聞広告で目にした「SDGsは大衆のアヘンだ」という惹句だ。2021新書大賞第1位の話題の本である。

 『人新世の「資本論」』(斎藤幸平/集英社新書)

 著者は34歳の研究者(経済思想、社会思想)である。現在は地質年代で完新世だが、人類の経済活動が地球に与える影響によって「人新世」という新たな年代に突入したという説がある。本書はそんな新時代の新たなマルクス解釈を展開している。

 団塊世代である私の学生時代、マルクスはまだかなりの影響力をもっていた。私は『資本論』を入手したものの数ページで挫折した。初期マルクスの短い論考は読んだが内容は失念している。ソ連が崩壊し、過去の思想家になったと思われていたマルクスが21世紀になって復活しつつあるように見えるのは興味深い。

 本書の著者はマルクスの草稿やノートを研究し、晩期マルクスの思想をベースにコミュニズムの新たな姿を提示している。それは〈コモン〉と呼ぶ社会的な富を市民(協同組合)が共同管理する「脱成長コミュニズム」という形態である。
 
 著者は現代社会には気候変動による悲惨な未来が迫っており、資本主義の体制が続く限りはそれを避けることはできないと認識している。そして、悲惨な未来を避けるには、資本主義を克服した「脱成長コミュニズム」しかないとしている。

 気宇壮大な議論に引き付けられるが、著者の主張に納得はできなかった。興味深い考えだが夢想的に見える。格差が拡大しつつある新自由主義の世界を変えなければ未来は悲惨であり、大きな変革が必要なのは確かだ。どう変革するのが正しいかはわからないので、本書の主張も未来を考えるために有益な材料にはなるだろう。

 著者がCO2温暖化による気候変動を大前提に論を展開しているも気になる。脱炭素社会という新ビジネスの資本主義的スローガンに安易に乗っているように見える。

 また、「脱成長コミュニズム」という新たな世界のイメージを提示するのに、マルクスにこだわり過ぎているようにも思える。マルクス研究者としては仕方ないのかもしれないが。