『獣の戯れ』(三島由紀夫)は観念と叙情の不可思議小説2021年03月01日

『獣の戯れ』(三島由紀夫/新潮文庫)
 『沈める瀧』と同様、学生時代に古書で入手したまま本棚で塩漬けになって黄ばんだ次の三島由紀夫の小説を読んだ。

 『獣の戯れ』(三島由紀夫/新潮文庫)

 作者の筆力で読まされてしまうが、わかりにくい小説である。

 三人の男女、西洋陶器商(高踏的な評論や訳書のあるインテリ)の夫と美しい妻、そして若い男、この三人のもつれた恋愛感情の物語で、序章にひとつの結末が明示されている。仲のいい3人の記念写真、そして三つ並んだ墓、ただし妻の碑銘は朱色だ。男二人が死に女が生き残っているとわかる。

 物語は刑務所から出所した若い男が、身元引受人であるかつての雇用主夫妻をおとなう場面から始まる。若い男の犯した犯罪とは夫への暴行で、夫は半身不随の失語症になり、微笑をたたえるだけの存在に変貌している。夫婦は西洋陶器店をたたみ、西伊豆の漁村で園芸業を始めている。若い男は夫婦と生活を共にしながら、そこで働き始める。

 このように梗概を紹介すると規矩がしっかりした物語に見えるが、3人の心理関係が観念的で不可解なのである。私はこの観念を十分に読み解くことができず、不可解なままに物語が結末を迎えてしまった。読後感は不気味かつ清澄で、何とも不思議な気分だ。

 観念論の論理は奇怪で、微笑の失語症の精神は不気味だ。にもかかわらず叙情的でもあり、華麗な文章が紡ぎ出す別世界を体験した。

『愛の渇き』(三島由紀夫)は怖い話2021年03月03日

『愛の渇き』(三島由紀夫/新潮文庫)
 半世紀以上前の学生時代に古書で購入し黄ばんでいた三島由紀夫の文庫本2冊(『沈める瀧』『獣の戯れ』)を続けて読んだ余勢で、駅前の本屋で新たな文庫本を購入して読んだ。三島の小説には中毒性があるかもしれない。

 『愛の渇き』(三島由紀夫/新潮文庫)

 三島由紀夫の新潮文庫はカバーを刷新した新版が増えているが、本書は半世紀前と同じデザインのカバーだ。本文の活字が大きくなっているのが、私にはありがたい。

 奥野健男が『三島由紀夫伝説』で本書を強く推していたので、いずれ読まねばと思っていた小説である。1950年、三島25歳のときの書き下ろし作品で、1952年には新潮文庫になっている。私が購入したのは2017年4月の122刷、ロングセラーだ。

 評伝などで取り上げられることの多い小説なので粗筋を承知のうえで読んだが、引き込まれた。主人公・悦子の感性は私には了解しがたい不自然さがあり、感情移入は難しい。装飾的とも言える比喩の連発には目がくらみそうになる。悦子が思いを寄せる若い使用人・三郎のイメージは不明瞭だ。にもかかわらず引き込まれるのは、郊外の農園に暮らすこの大家族が織りなす世界の不思議な魅力、いや魔力のせいである。

 小説の進行にともなって悦子の魔性が亢進していく怖い話である。奥野健男も指摘していたが、この主人公は女性である必要はない。作者の分身とも見なせる。殺人事件の後の「恩寵のように襲った眠り」を描いたラストシーンが秀逸だ。本当に怖い。

『ジャックポット』(筒井康隆)は現世から彼岸に至る短篇集2021年03月05日

『ジャックポット』(筒井康隆/新潮社/2021.2)
 筒井康隆氏の最新短篇集が出たので、早速入手して読んだ。

 『ジャックポット』(筒井康隆/新潮社/2021.2)

 前の短篇集 『世界はゴ冗談』 が出たのが2015年だから6年ぶりの刊行で、14篇が収録されている。86歳の現役作家の最新短篇集である。

 収録作の半分ぐらいは雑誌発表時に読んでいるが、単行本になったのを機にあらためて全作品を通読した。奔放な妄想が留まる所を知らない暴走老人文学とも言える奇怪な短篇のオンパレードで、読みながら脳内マッサージを受けている気分になる。

 この短篇集の配列は、巻頭の「漸然山脈」(「文學界」2017.7)から巻末の「川のほとり」(「新潮」2021.2)まで発表年月順になっている。単純な配列に見えるが、この配列が絶妙だ。

 2017年から2021年の間には二つの大きな事象があった。一つは言わずと知れた2020年来のコロナ禍である。もう一つは筒井康隆氏の一人息子・伸輔氏の逝去である。画家・筒井伸輔氏は2020年2月、食道癌で亡くなった。享年51歳、両親や妻子を残した早逝だった。親の悲しみは察して余りある。

 本書巻頭の「漸然山脈」は南の極から北の極に至る狂騒の彷徨を歌いあげる世界破滅の序曲のようであり、続く短篇群は世界の終わりに人生をパノラマ視するかのごとく想念が時空をかけめぐる。そして、終末の具体的な形としてコロナがせり上がってきて、息子の死が影を落とす。フィナーレは、静謐な彼岸での息子との対話になる。――『ジャックポット』はそんな短篇集である。

フォン・ノイマンの頭脳の優秀さに驚いたが…2021年03月07日

『フォン・ノイマンの哲学:人間のフリをした悪魔』(高橋昌一郎/講談社現代新書)
 半世紀以上昔、世の中に姿を現し始めたコンピュータの勉強を始め、ノイマンの名を知った。プログラム記憶方式というコンピュータの基本思想の創始者である。と言っても、その詳しい業績を知らないまま今日まできた。新刊書広告の「人間のフリをした悪魔」というサブタイトルが気になり、次の新書を読んだ。

『フォン・ノイマンの哲学:人間のフリをした悪魔』(高橋昌一郎/講談社現代新書)

 ノイマンの頭脳の優秀さに驚いた。残した論文の分野は論理学・数学・物理学・化学・計算機科学・情報工学・生物学・気象学・経済学・心理学・社会学・政治学に及ぶ。理系の人に見えるが、8歳にして『世界史』全44巻を読破、ディケンズの『二都物語』を暗唱できたそうだ。

 ハンガリー生まれの天才で、ヒトラー台頭の頃に米国に移住、1957年に53歳で亡くなっている。数学者ゆえにノーベル賞を逸したのではなく、早逝しなければ物理学賞はもちろん経済学賞も受賞したと言われている。

 本書にはノイマン周辺の多くの学者が登場し、その多くがノーベル賞受賞者だが、彼らはノイマンの頭脳は別格だと証言している。並のノーベル賞受賞者を超えた頭脳の人だったようだ。私の凡庸な頭脳では、その凄さは理解できず、学者たちの証言で間接的に想像できるだけだ。

 ノイマンの生涯を辿る本書は、原爆開発とコンピュータ黎明期の物語でもあり、科学技術史としても面白い。ノイマンはこの二つに大きく関わっていた。20世紀後半の歴史変動の要ともいえる二つのプロジェクトは同時並行的に進行していたのだ。

 コンピュータ開発に関しては、サイバネティクスのウィーナー(ノイマンより9歳上)がノイマンの獲得に失敗し、ノイマンがチューリング(ノイマンより9歳下)との共同研究を望みながら果たせなかった話が興味深い。仮にこの三巨人の協働が実現していたら、現在の電脳世界の姿は変わっていただろうか。

 本書のサブタイトル「人間のフリをした悪魔」には二重の意味がある。一つは人間離れした頭脳の優秀さであり、もう一つは原爆の開発・投下にためらいを見せない冷徹な超合理主義である。最小のコストで最大の利益をあげるのが人類全体の幸福につながるという考え方とも言える。

 著者は本書において「ノイマンの哲学」を非難・否定も肯定もしていない。提示しているだけだ。冷徹な超合理主義を否定するのは容易ではない。優秀過ぎる頭脳はニヒリズムに近いのかもしれないが……

著者に三島が憑依したような『三島由紀夫・昭和の迷宮』(出口裕弘)2021年03月09日

『三島由紀夫・昭和の迷宮』(出口裕弘/新潮社/2002.10)
 澁澤龍彦の 『三島由紀夫おぼえがき』(中公文庫/1986.11) の巻末には著者と出口裕弘との対談があり、これが面白かった。その対談相手の次の三島本を読んだ。

 『三島由紀夫・昭和の迷宮』(出口裕弘/新潮社/2002.10)

 仏文学者・出口裕弘は澁澤龍彦と同学年の学生時代からの友人で、三島由紀夫とは4学年下のほぼ同世代である。

 本書によれば、著者はスジ金入りの三島ファンだ。初期作品(『仮面の告白』以前)からの読者で、バタイユの翻訳者として三島との接点もあり、澁澤龍彦を介して面識があった。だが、澁澤龍彦のように三島と親交があったわけではない。

 そんな著者による本書は、三島への愛と鋭い分析に満ちた、トーンの高い三島論である。評伝ではなく、三島が自死に至る過程を深く追究している。そして、自死に向かわざるを得なかった三島の宿命を解明している――私にはそう読めた。

 十五歳にして「わたしは夕な夕な/窓に立ち椿事を待つた」と詠った三島は、四十五歳にして、そこに回帰し、思いを遂げる。著者は、次のような、ある意味、身も蓋もない見解を提示している。

 《彼には幼年期にまで根差した凶変願望があった。他者破壊と見分けのつかない強烈な自己破壊衝動もあった。同性愛の特殊形態としての流血愛好は骨がらみのものだった。/最後はいずれ血の海だ。その血を、憂国の自決で浄めたい。流血の死を性的な変事に終わらせては末代までの名折れだ。家名にも取り返しのつかない傷がつく。男同士の情死を、「共に起って義のために死ぬ」「日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬ」という栄誉の旗で包みたい。三島由紀夫は、四十歳を過ぎたある日ある時、そう決心したのだと思う。》

 著者は三島を貶めているのではない。感情移入しているのである。著者による『暁の寺』と『天人五衰』の読解には感心した。当初の構想からズレて変貌していくさまを見事に解明している。『豊穣の海』の、あのラストシーンを引用した後、著者は次のように書いている。

 《これでいい、という呟きが自然に出てくる。私としてはもうこれ以上、『天人五衰』についてよけいなことをあげずにすむ、と。》

 三島が著者に憑依したような文章だ。本書は、著者に取り憑いた三島の総括である。総括しても、謎がすべて消えたわけではないが…

精緻な挿絵満載の『絵で見る十字軍物語』で読書の追体験2021年03月11日

『絵で見る十字軍物語』(塩野七生、絵:ギュスターヴ・ドレ/新潮社)
 先月、 『十字軍物語(全4冊)』(塩野七生/新潮文庫) を読了したとき、気がかりだった本がある。文庫版の「まえがき」で言及されていた 『絵で見る十字軍物語』である。単行本の『十字軍物語(全3巻)』刊行時に、その「序曲」として出たビジュアル本である。それを古書で入手して読了した。

 『絵で見る十字軍物語』(塩野七生、絵:ギュスターヴ・ドレ/新潮社)

 19世紀前半に出版された『十字軍の歴史』(ミショー)に掲載されたドレの挿絵を集成した本である。小口木版という手法で描かれた精緻な挿絵98点が掲載されている。見開きの左頁全体が1枚の挿絵、右頁の上段がその絵に関する地図、下段が情景の簡単な解説になっている。

 読み終えた『十字軍物語』の余韻を辿る気分でこの「絵本」をゆっくりと繰って行くのは至福の時間である。挿絵によって『十字軍物語』のアレコレの場面が浮かんでくる。意外だったのは、あの「物語」を読んだ時とは別の感慨がわく絵も多いことだ。

 戦闘場面の絵が多いのは当然だが、戦闘後の死屍累々の場面、困難な行軍で倒れていく人々を描いた場面などにも迫力があり、読書時にはあまり感じなかった悲惨さが伝わってくる。また、十字軍の「現場」ではなく銃後の情景にも惹かれた。女性や子供たちの募金活動、歌で送られて出陣する人々、帰郷した老兵士の物語に聴き入る子供たちの様子も印象深い。絵は感性に訴える表現だと、あらためて認識した。

『シルクロード全史』はバランスが奇妙な世界史概説書2021年03月13日

『シルクロード全史:文明と欲望の十字路(上)(下)』(ピーター・フランコパン/須田綾子訳/河出書房新社)
 私はシルクロードや中央ユーラシア史に関心がある。だから、本屋の店頭で次の書名を目にしたとき、すぐに手が伸びた。

 『シルクロード全史:文明と欲望の十字路(上)(下)』(ピーター・フランコパン/須田綾子訳/河出書房新社)

 著者は1971年生まれの英国の歴史学者である。「はじめに」に目を通すと、歴史を西洋中心で見ることに批判的で、アジアを重視しなければならないと述べている。面白そうだと食指が動いたが、ためらう気持もあった。その理由は以下の通りだ。

 ・分厚い2巻本で読むのが大変そう。
 ・著者も訳者も未知の人。
 ・訳者の「あとがき」も、識者の「解説」もなく、本書の評価が不明。

 かなり迷ったすえに購入し、やっと読了した。そして、タイトルから想像した内容とは全く異なる本だったので驚いた。

 本書の原題は「THE SILK ROADS:A NEW HISTORY OF THE WORLD」で、著者は「シルクロード」を「人が東へ西へ(あるいは南へ北へ)行き交う場」といった意味に拡大解釈している。従って、本書は中央ユーラシアの東西交渉史ではなく世界史の概説書になっている。

 本書の「はじめに」と「おわりに――新たなシルクロード」では、本来のシルクロードや中国の一帯一路を総括的に概説しているのだが、「はじめに」と「おわりに」の間に挟まる膨大な本文は、この総括からかなりはみ出している――私には、そう思えた。

 本書の上巻はアレクサンドロスの遠征に始まり、仏教・キリスト教・イスラム教の伝播、十字軍、ペスト、モンゴルの侵攻、コロンブスらの航海を経て、オランダや英国の覇権拡大までを述べている。まさに人の移動を視点にした世界史概説である。

 下巻になると近現代史で、二つの大戦を経た冷戦時代から、ソ連崩壊、湾岸戦争、9.11に至る関係国の動向を述べている。イラン革命やソ連のアフガニスタン侵攻、イラン・イラク戦争あたりの記述はかなり詳しい。歴史書というより、ジャーナリストかノンフィクション作家のレポートを読んでいる気分になる。

 著者は西欧中心の見方に批判的だが、著者の言う「アジア」や「東」はトルコからイランに至る地域を指す場合が多く、それより東はあまり登場しない。バランスが奇妙な西欧中心の世界史概説書に見える。英国人から見た一つの世界史像なのだろう。

 本書によって教えられる事項も多く、興味深く読めたとは言えるが、寿司屋に入ってステーキを食べさせられた気分である。それもまた一興か。

『世界史との対話』は世界史教育改革を提言する高校教師の講義実例2021年03月17日

『世界史との対話:70時間の歴史批評(上)』(小川幸司/地歴社)
 ネット検索していて、世界史の高校教師が執筆した『世界史との対話』(全3冊)という本を見つけ、興味がわいた。立ち読みはできないので1冊目のみを購入した。

 『世界史との対話:70時間の歴史批評(上)』(小川幸司/地歴社)

 この本、私には非常に面白かった。すぐに残りの2冊も注文した。著者は1966年生まれ、東大西洋史学科卒、師から大学院進学を勧められるも高校教師の道を選び、現在(本書刊行時)は長野県の高校の教頭だそうだ。

 奥付には「2017年12月15日初版4刷発行」とあり1刷の発行日がない。「あとがき」の日付が2011年10月だから、その直後の発行だろう。

 本書は70回の講義という形になっている。上巻は「人類の誕生」から「ジャンヌダルク」までの24講を収録していて、巻末に補論がある。「まえがき」で補論から読むことを勧めている。

 補論のタイトルは「世界史教育のありかたを考える:苦役への道は世界史教師の善意でしきつめられている」である。著者の高校世界史教育改革論で、網羅主義の“暗記地獄”になっている高校世界史を「病んだ妖怪」と批判している。現状の課題がわかって非常に興味深い。

 私は半世紀以上昔の大学受験で世界史を選択していない。いずれ世界史を頭に入れねばと思いつつ、ぼちぼち勉強を始めたのは60歳を過ぎてからだ。2年前に予備校教師の書いた 『世界史B 講義の実況中継(全4冊)』 という本を通読したとき、語り口の面白さに惹かれたものの「受験生でなくてよかった」と安堵した。高校世界史が扱う膨大な事項を頭に留めるのは容易ではない。

 著者は、網羅的に歴史の流れと事件を記述することを否定し、歴史を素材に「人間のありかた」「政治のありかた」「自分の生き方」を考える「歴史批評」を提言している。そんな世界史教育改革論をふまえた講義の実例が本書である。

 講義では、それぞれの時代の世界史の材料やテーマを提示し、歴史研究者たちの知見を紹介し、現代社会の視点で歴史を検討している。つまり歴史批評であり世界史との対話である。歴史研究の現状も垣間見ることができ、読み応えがある。

 本書の第18講「元寇は日本に何をもたらしたか」は、モンゴル帝国の構造をふまえて世界史視点で元寇を検討し、強化された神国日本意識がその後の歴史にもたらした影響にも言及している。やや些末なことだが、この講義では「蒙古襲来絵詞」が江戸時代に改竄されたと説明している。私が読んだ 『蒙古襲来と神風』(服部英雄/中公新書/2017.11) ではこの改竄を否定していた。定説はどうなっているのだろうか。

ブルーベリー剪定は強気と弱気のせめぎあい2021年03月19日

 八ヶ岳南麓の山小屋に8カ月ぶりに行った。コロナ禍で外出がままならず、山小屋での野菜作りも潮時かなという気がしている。

 野菜はともかく、庭に植えている7本のブルーベリーが気になる。昨年7月に収穫して以降行ってない。施肥、雑草取り、マルチ(木材チップ)補給などができなかったのは諦めるとしても、毎年2月にやっていた剪定を省くのはマズそうに思える。

 せっかく植えた果樹なので、やはり収穫は楽しみである。2月を過ぎて3月になり、ようやく、剪定のために腰を上げたのである。8カ月間無人状態だった山小屋の内外は荒れていて、庭は枯れた雑草にびっしり覆われていた。

 ブルーベリーを植えて10年近くになるが、いまだに剪定の方法がよくわからない。ブルーベリー栽培に関する2冊の教本とYouTubeの映像を元に事前にメモを作成して予習するのだが、実作業になると切るべきか残すべきか判断に迷う枝が多発する。思い切ってバシバシ落としたり、弱気になって花芽のある枝をなるべく残そうとしたりの繰り返しである。今回も、中途半端な気分で何とか作業を終えた。

 帰京してあらためて写真を眺めると、枝を残しすぎたような気がしてくる。

ガルブレイスは懐メロ昭和歌謡……2021年03月21日

『今こそ読みたいガルブレイシ』(根井雅弘/インターナショナル新書/集英社インターナショナル)
 ガルブレイスは懐かしい名前だが、最近はほとんど目にしない。忘れられた経済学者だと思っていたので、本屋の店頭に次の新書が積まれいるのを見つけて驚いた。

 『今こそ読みたいガルブレイス』(根井雅弘/インターナショナル新書/集英社インターナショナル)

 近頃は『資本論』を再評価する本が目につく。そんな流れの本かなと思いつつ購入して読んだ。短時間で読了できる読みやすい本である。

 約40年前、社会人になって数年目の頃、何人かでサムエルソンの『経済学』(当時の標準的教科書)の輪講読書会をした。並行してガルブレイスの『ゆたかな社会』と『新しい産業国家』を興味深く読んだ。正統的なサムエルソン(新古典派総合)に対する異端のガルブレイスという構図だった。別の異端であるシカゴ学派のフリードマンに手を伸ばす気はせず、この学派が他を駆逐して後の正統になるとは思いもしなかった。

 本書の著者はガルブレイスの主著を『ゆたかな社会』『新しい産業国家』『経済学と公共目的』とし、読み継がれるのは『ゆたかな社会』だと見なしている。私は『経済学と公共目的』は未読で、他に読んだのは『不確実性の時代』だけで、そもそも読んだ内容の大半は失念しているので、何を読み継ぐべきかの評価はできない。

 と言うものの、本書を読んでいて昔の読書の記憶がまだらに浮かびあがり、ガルブレイスの名文に魅せられた記憶がよみがえってきた。変なたとえだが、本書を読みながら懐メロの昭和歌謡にうっとり浸っている気分になった。そして、ガルブレイスは経済学者というよりは社会学者、文明論の人だったと思えてきた。

 著者が指摘しているように、現時点で見ればガルブレイスの見解に誤りは多い。にもかかわらず「今こそ読みたい」と言いたくなる気持はわかる。大きな問題を抱えた現代、骨太な叡智を感じる論客が見当たらないのが問題なのだ。