三島自死の必然を解明した『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』2021年02月07日

『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(橋本治/新潮社)
 三島由紀夫没後50年の昨年来、三島関連のテレビ番組や本に触れる機会が多くなり、本棚の背表紙を眺めていて次の本が気になった。

 『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(橋本治/新潮社)

 手に取ると、ほぼ半分の箇所にブックダーツ(私が愛用の金属製クリップ)が挟まれている。約380頁の本の半分まで読んで、そのまま放置していたようだ。挫折したのは19年前の2002年と推察される。

 この三島由紀夫論の冒頭は、三島邸の庭にあったアポロ像がチャチという話で、それだけが記憶に残っていて、他は失念している。

 一昨年70歳で逝った同世代作家の本を中途半端に放置しておくのは礼を欠くと思い、最初から読み直し、19年ぶりに読了した。

 読了して、19年前に挫折した理由がわかった。面白いのに難解なのだ。面白いから半分までは読めた。しかし、迂遠でゴチャゴチャした論理展開に頭が疲れ、力尽きたようだ。今回読了できたのは、最近読んだ 『三島由紀夫』(佐藤秀明) 『金閣を焼かねばならぬ』(内藤健)によって、頭が三島世界に慣れていたせいだと思う。

 本書を十全に理解できたわけではなく、論旨をまとめるのは難しい。著者は『仮面の告白』から『豊穣の海』にいたる三島作品を検討し、ほとんどの作中人物を三島由紀夫と見なしている。そして、「ややこしさこそが三島由紀夫の真実」としたうえで、そのややこしさを解き明かしている。次の指摘がキー概念と思われる。

 《作家である三島由紀夫は、「三島由紀夫」という自分自身を「虚」として設定した。これは三島の修辞(レトリック)ではなく論理(ロジック)である》

 この論理を迷路のように展開し、『豊穣の海』が主人公たちの消滅で結末をむかえる必然を述べている。本書第2章の次の記述が印象に残った。

 《私=橋本は、1970年の11月25日に市ヶ谷という場所で「死」を実践した人物が、果たして「三島由紀夫」だったのかどうかを訝しんでいる。三島由紀夫は、文学と関わるだけの「虚」なのである。「虚」が現実の中で「死」を実践できるわけはない。(…)三島由紀夫は文学の中で死に、三島由紀夫に死なれた“仮面の作り手”は、現実の中で死ぬ。それをするだけの孤独が、“その人物”にはあったはずである。》

 著者は三島由紀夫を「ややこしくて、へんな人」と述べているが、本書を読み終えた私は、こんな本を書く橋本治も充分に「ややこしくて、へんな人」だと思う。

 本書は2002年に第1回小林秀雄賞を受賞したそうだ。

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