井上ひさしは律義な劇作家だったと思う2020年12月05日

 世田谷文学館で開催中の井上ひさし展を、終了前日の本日かけこみで観た。入口に人がいて、消毒・検温・記帳(氏名・連絡先・入館時間)があり、あらためて非常時を感じた。考えてみれば、コロナ禍になって博物館や美術館などに行くのは初めてである(芝居は1回だけ行った)。

 私は、さほど熱心な井上ひさしの読者ではないが、小説のいくつかは読んでいるし、芝居も何作か観ている。印象に残っている小説は「不忠臣蔵」「吉里吉里人」、芝居は「頭痛肩こり樋口一葉」「國語元年」である。大江健三郎、筒井康隆との鼎談『ユートピア探し 物語探し:文学の未来に向けて』も印象深い。

 展示を観て、井上ひさしは小説家以上に劇作家だったと、あらためて認識した。逝去後も芝居の上演が継続している数少ない劇作家の一人である。

 井上ひさしは遅筆で有名で、戯曲が間に合わずに開演が延期になることもあった。間に合ったとしてもギリギリのことが多く、役者泣かせだったそうだ。

 今回の展示で興味深かったのは、戯曲執筆中に机上に並べていた役者たちの「紙人形」である。三角柱を横にした簡単な紙細工に役者の写真を貼り、その脇に役名を書いている。役者名を併記しているものもある。この紙人形を机上に並べて戯曲の構想を練り、科白を紡ぎ出していたようだ。

 これらの紙人形を眺めていると、締め切りが迫るなか、紙人形を動かしながら台本制作に呻吟する劇作家の姿が目に浮かぶ。紙人形の役者たちから受けるプレッシャーが活力になったのかもしれないが、息が詰まりそうにも思える。

 展示物には生原稿をはじめメモなども多い。その筆跡の読みやすさに驚いた。走り書きではなく、丁寧にメモしているように見える。律義な人だったと思う。

『時間SFアンソロジー』で新旧の「時間モノ」に触れた2020年12月08日

『revisions 時間SFアンソロジー』(大森望 編/ハヤカワ文庫)
 3ヵ月前に『2010年代SF傑作選』(大森望・伴名練編/ハヤカワ文庫)というアンソロジーを読み、収録作20編のなかに「時間モノ」が一編もないのに多少のモノ足りなさを感じ、この分野で新機軸の傑作を生みだすのが難しくなっているのかなと思った。

 その後、大森望編の『時間SFアンソロジー』があるのを知り、読んでみた。
 
 『revisions 時間SFアンソロジー』(大森望 編/ハヤカワ文庫)

 翻訳2編、日本人作家4編の計6編が収録されている。最近のSF(私にとってSFの最近はこの20年ぐらい)のアンソロジーだろうと思って読み始めた。冒頭の『退屈の檻』(リチャード・R・スミス)は読みやすくて面白いが、古色蒼然の趣がある。読み終えてから解説を確認すると、1950年代の作品の新訳だった。最近作のアンソロジーと思ったのは私の早トチリで、あらためてオビを見ると「オールタイムベスト」とある。

 もう1編の翻訳『ヴィンテージ・シーズン』はC.L.ムーアの1940年代の作品の新訳で、この作者名にはかすかな記憶がある。初読の作品だが懐かしきよき時代のSFの雰囲気を感じた。

 日本人作家の4編は私にとってはいずれも最近作だった。『ノー・パラドックス』(藤井太洋)はややこし過ぎ、『時空争奪』(小林泰三)は破天荒過ぎ、私の頭ではついていくのが困難で、面白さを感じる前に頭が疲れた。

 私が面白いと思ったのはミステリー作家・法月綸太郎の『ノックス・マシン』である。この作家の作品を読むのは初めてだ。SFとミステリーをSF的に結合する力量と工夫に感心した。『五色の舟』(津原泰水)も魅力的で味わい深い作品だった。

 このアンソロジーを読み、あらためて自分の年齢(71歳)を感じた。古い作品は「古いなあ」と感じつつも安心して読める。自分の頭がついて行けない新機軸の作品だと、じっくり理解しようという意欲が湧きにくい。老化だと思う。

『空間は実在するか』で空間と時間の不思議を再認識2020年12月10日

『空間は実在するか』(橋元淳一郎/インターナショナル新書/集英社インターナショナル)
 橋元淳一郎氏の新刊新書を新聞広告で知り、早速購入して読んだ。

 『空間は実在するか』(橋元淳一郎/インターナショナル新書/集英社インターナショナル)

 橋元氏には「時間は物理的実在ではない」と論述した著書があり、その時間論に惹かれた経験があり、今度は「空間」かと驚き、興味がわいたのである。

 橋元氏の時間論を読んだのは比較的最近のような気がしていたが、読書メモを調べると 『時間はどこで生まれるか』 を読んだのは2007年、 『時間はなぜ取り戻せないのか』『時空と生命』 を読んだのは2010年、10年以上も昔のことだ。

 これらの本を十分に咀嚼できたわけではなく、その内容の大半は失念している。だが、とても面白くて刺激だったことは鮮明に憶えている。「物理的実在でない時間は生命現象によって発生した」という、私にとっては驚くべき論旨が記憶に残っている。

 橋元氏の『時間はどこで生まれるか』を読んだ2007年、福岡伸一氏の『生物と無生物のあいだ』も読み、両者に通底するものを感じた。今回の『空間は実在するか』のオビには、福岡伸一氏の「この哲学にしびれた!」との惹句がある。

 『空間は実在するか』は、「時間論」に対抗した驚くべき「空間論」ではなく、基本的には橋元氏の従来の時間論をわかりやすく解説した内容だった。よく考えてみれば、以前の著作でも「ヒッグス場が生じることで質量が生じた。それ以前には時間も空間もなかった」と述べていた。物質(質量)が空間を作り、生命が時間を創った――それが本書の要諦である。

 ほとんど失念しているとは言え、以前に橋元氏の時間論3冊を読んでいたおかげか、比較的スムーズに本書を読み進めることができ、復習気分で実数の時間軸と虚数の空間軸からなるミンコフスキー空間の紡ぎ出すセンス・オブ・ワンダーを堪能できた。

 私は安易に時空という言葉を使うことがあるが、本書を読んで、あらためて時間と空間が一体だと認識した。時間の測定より空間の測定の方が困難だとの話も意外だった。時間は原子時計があるが、空間には原子レベルでの原器を作るのが難しいそうだ。本書を機に前著も再読して橋元時間論の理解を深めたくなった。

岩波新書の『三島由紀夫』は面白くてわかりやすい2020年12月14日

『三島由紀夫:悲劇への欲動』(佐藤秀明/岩波新書)
 三島由紀夫没後50年で、先月(2020年11月)は三島由紀夫に関するテレビ番組、新聞記事、雑誌記事に接する機会が多かった。そんななかで読んだ、次の新書が面白かった。

 『三島由紀夫:悲劇への欲動』(佐藤秀明/岩波新書)

 三島事件(1970年11月25日)のとき私は大学生だった。同時代作家との意識は強いが、三島の熱心な読者ではなかった。最初に読んだのは高校1年のときの『金閣寺』(新潮文庫)だと思う。当時、彼はにノーベル賞候補と言われる有名作家だったので、「これがノーベル賞候補作か」と思いながら読んだ。SF好きの高校生だったので単行本の『美しい星』も読んだがピンと来なかった。『近代能楽集』はよかった。

 リアルタイム気分で読んだのは『春の雪』『奔馬』ぐらいで、この2作は面白いと思った。『文化防衛論』もリアルタイムで読んだはずだが、理解できなかった。三島事件以前、私にとっての三島由紀夫は、気がかりな同時代作家ではあるものの、よくわからない遠い作家だった。

 三島事件は衝撃的だった。政治的事件ではなく作家の自死という文学的事件に思えた。あの衝撃以降は「彼が書いたもの」より「彼について書いたもの」の方に惹かれ、いくつかの三島本を読んできた。

 一昨年に読んだ『三島由紀夫 ふたつの謎』(大澤真幸/集英社新書)は、謎の提起には引き込まれたものの、謎の解明部分が哲学的・観念的で難解だった。それに比べて本書は明晰でわかりやすい。

 著者の佐藤秀明氏は「前意味論的欲動」という独自の概念をキーにして三島由紀夫の生涯を綴っている。前意味論的欲動の内容は「悲劇的」「身を挺する」という欲動で、『仮面の告白』と『太陽と鉄』にこの二つの言葉が出てくる。最初のうちは、こじつけに近い分析のように感じたが、読み進めていくうちに納得させられてしまった。

 著者は三島由紀夫の研究家で、山中湖にある三島由紀夫文学記念館の館長も務めている。この著者の三島由紀夫への「つかず離れずの眼差し」がいい。死後50年を経たからこその評伝だと思える。本書を読み終えて、三島由紀夫の作品をあらためて読みかえしたくなった。

 本書の結語を以下に引用する。

 「三島文学の崖は高くとも、岩肌は摑みやすく脆くない。急峻な崖であっても登れなくはない。表現者としてこのような崖を意図して築いたのは、人間世界の辺境にいつづけた人の哀しさだったのかもしれない。」

三島由紀夫の『禁色』に古典を感じた2020年12月20日

『禁色』(三島由紀夫/新潮文庫)
 佐藤秀明氏の『三島由紀夫』(岩波新書)を読んで、未読の三島作品が気がかりになり、本棚に眠っていた『禁色』を読んだ。

 『禁色』(三島由紀夫/新潮文庫)

 同性愛を題材にした千枚を超える長編である。この文庫本を購入したのは30年ほど前だと思う。当時、三島由紀夫との同性愛暴露で話題になった『三島由紀夫―剣と寒紅』(福島次郎)読んだのを機に、同書が言及していた『禁色』を読み始めた。だが、冒頭の何ページかで挫折したままだった。

 今回は挫折することなく面白く通読できた。老作家がゲイの美青年を使って自分を裏切った女性たちへの復讐を企てる話である。ストーリーが面白いというより、精神・肉体・芸術・美・死などをめぐる観念的な議論が奔放に展開される心理劇に眩惑される。ホモ・セクシャルの人々の世界を描いた風俗小説の趣もある。

 この小説の前半は『群像』に連載、後半は『文学界』に連載、前半の連載と後半の連載の間に、三島由紀夫は4カ月(1951年12月25日~1952年5月8日)の世界一周旅行をしている。26歳から27歳にかけての初の海外旅行で、帰国後には『アポロの杯』という紀行記を朝日新聞社から刊行している。『禁色』は長期の海外旅行をはさんで20代後半に書いた長編なのである。あらためて、その若さに驚く。20代の青年作家が老作家の心理を観念的ではあるが抉るように描写するのに舌をまく。

 当初は第1部(前半)、第2部(後半)に分けて刊行された作品なので、前半と後半の間に多少の隔絶がある小説かと思っていたが、通読すると、一つのまとまった長編であって、どこに前半と後半の区切りがあるかもわからなかった。

 佐藤秀明氏は『三島由紀夫』のなかで、同性愛を題材にした二つの作品について次のように述べている。

 「二〇世紀後半の性の解放によって、性の“禁制”が希薄になり、秘するがゆえの性の充足感は減退した。LGPTの存在を社会的に認知することになった状況では、『仮面の告白』や『禁色』の緊張感は弛緩せざるを得ず、この方向は巻き戻せない。」

 指摘の通り、この小説で表現されている同性愛や出産に関する記述は時代離れしている。また、作者が意識していたかどうかはわからないが、米軍占領下の日本社会が反映されている。占領下の当時、パスポートはなくマッカーサーの署名入り旅行許可証が必要だったそうだ。本書執筆途中に海外旅行をした三島由紀夫はツテを頼って朝日新聞特別通信員として旅行許可証を取得したそうだ。

 私は学生時代に三島由紀夫を同時代作家として読んでいたが、いまの時点で読んだ『禁色』に同時代意識を感じることはできない。でも、面白さを堪能することはできた。この面白さは、たとえて言うなら、19世紀のバルザックの小説のような面白さである。社会様相や倫理観が現代とは多少異なる世界を表現していても、それによって小説の面白さや魅力が減衰するわけではない。

 時代を経ても魅力が減衰しない作品は古典になる。『禁色』を読んで、私には同時代作家だったはずの三島由紀夫が早くも古典になりつつあるような気がした。終章のタイトルを「大団円」としているのも古典っぽい。

60年前の小説『宴のあと』は面白かった2020年12月24日

『宴のあと』(三島由紀夫/新潮文庫)
 『禁色』に続いて、本棚に眠っていた三島由紀夫の次の未読作品を読んだ。

 『宴のあと』(三島由紀夫/新潮文庫)

 この作品名は中学生の頃からよく耳にしていた。プライバシー裁判で有名な小説だったのだ。私は岡山の片田舎の中学生だったが、東京都知事選が「アズマvsアリタ」で争われたのは、似た名前同士だったので記憶に残っている。その都知事選で敗れた方をモデルにした小説が『宴のあと』である。

 この文庫本を購入したのは大学生の頃で、それから半世紀以上経って、黄ばんできた本書をやっと読了した。

 読み始めると引きこまれ、短時間で読了した。三島由紀夫35歳の1960年に刊行された小説で、プライバシー訴訟で販売が差し止められるも、その後の和解によって原文のまま刊行されている。

 『宴のあと』は、辛苦のうえに料亭の女将になった女傑・福沢かずが、元・外交官で外務大臣も務めたインテリ老人・野口雄賢と再婚し、都知事選を戦う話である。野口雄賢のモデルは、戦前に外務大臣を歴任し、戦後は革新統一候補として都知事選出馬して落選した有田八郎である。

 この小説には精神や肉体を巡る観念的記述はなく、描写は即物的、人物は典型的でわかりやすい。物語の構成は明解で展開もよどみない。エンタメと言えなくもない読みやすい小説である。面白い。

 この小説の魅力は、女主人公・福沢かずの迫力にある。読みようにによっては、三島由紀夫が意図せずに表出したフェミニズム小説と言えるかもしれない。だが、肉体による精神批判とも読めるので、反フェミニズムと見なされるかもしれない。

『クオリアと人工意識』(茂木健一郎)は超科学の考察書2020年12月26日

『クオリアと人工意識』(茂木健一郎/講談社現代新書)
 書店の棚で、タイトルに「人工意識」という言葉がある本が目に入った。

 『クオリアと人工意識』(茂木健一郎/講談社現代新書)

 脳科学者・茂木健一郎氏の姿はテレビでよく見る。著書を読むのは初体験である。

 私が「人工意識」という言葉に反応したのは、2年前に 『脳の意識 機械の意識』(渡辺正峰/中公新書) を読んだからだ。サイエンスで「意識」を捉えようとしている最近の脳科学に驚いた。その後、一般向けの脳の本を何冊か読んだが、正面から「人工意識」を扱った本には出会っていない。

 『クオリアと人工意識』を、脳科学における「人工意識」研究の解説書と期待してを読み進めたが、私が想定した科学解説書ではなかった。科学に軸足を置いているが、科学・文学・哲学が混然としたエッセイに近い。解説よりは主張にウエイトがあり、刺激的で面白いが、話題が錯綜しゴチャゴチャした印象を受ける。

 「クオリア」というわかりにくい概念は『脳の意識 機械の意識』の冒頭にも登場し、著者の渡辺氏は「モノを見る、音を聴く、手で触れるなどの感覚的意識体験」としている。茂木氏は、「クオリアを定義しても、それに満足する人は少ない」としたうえで、次のように述べている。

 「なぜならば、クオリアは、それについての認知的な理解。すなわち「メタ認知」を持つ人にとっては、これ以上ないというくらいに「自明」なことだからだ。一方、クオリアについてのメタ認知をまだ持たない人は、それをいくら説明されてもわからない。」

 クオリアの定義や説明の放棄である。だが、クオリアは本書の主要なキー概念であり、くりかえし登場する。Windows のユーザーより Mac のユーザーの方がクオリアへの感受性が高いなどの記述もあり、おかしな気分になる。「瞑想」などが登場すると、科学解説といより芸術論、宗教論に近いと感じてしまう。

 脳科学や人工知能における「意識」や「知性」を考えるとき、現状の自然科学の方法での解明は困難で、新たな方法を探らなければならない、というのが茂木氏の考えのようだ。だから、本書は解説書ではなく「考察の書」であり、哲学や文学にも接近し、わかりにくくなっている。

 そんな「考察」を十全に理解できたわけではないが、脳科学や人工知能の研究の現状の一端を垣間見ることはできた。次のような指摘は興味深い。

 「画期的な人工知能の研究は、その研究手法や発表のやり方も新しい。その行動倫理は、「アナーキーで反権威主義的」なものだと言える。これは、いわゆる「破壊的イノベーション」(disruptive innovation)を推進するコミュニティに共通のものだが、人工知能の周辺では、その傾向が先鋭化している。」

 本書のタイトルにある「人工意識」は必ずしも人工知能研究に馴染んでいるテーマではない。著者は「人工意識」を考慮しない「人工知能」に疑念を呈しているのだ。

年末の復習として『ムッソリーニ』(世界史リブレット)を読んだ2020年12月28日

『ムッソリーニ:帝国を夢みた政治家』(高橋進/世界史リブレット 人/山川出版社)
 年初に読んだ 『ダンヌンツィオ 誘惑のファシスト』(ヒューズ=ハレット) がとても面白く、続いてちくま学芸文庫の 『ムッソリーニ:一イタリア人の物語』(ヴルピッタ) を読み、戦前に出版された 『ムッソリニ傳』(澤田謙) まで読んだ。それから1年近く経ち、ダンヌンツィオの強烈な印象は残っているが、ムッソリーニ像はおぼろになっている。

 頭の中で希薄になってきたムッソリーニの姿を多少でも呼び起こしておこうという気分で、今年4月刊行の次のブックレットを読んだ。

 『ムッソリーニ:帝国を夢みた政治家』(高橋進/世界史リブレット 人/山川出版社)

 この薄い概説書のムッソリーニ像はやや薄味である。年初に読んだヴルピッタの『ムッソリーニ』はもっと濃厚な印象だった。

 本書はムッソリーニの簡略な評伝であると同時に、第一次大戦から第二次大戦終結にいたるまでのイタリア史を概説している。少し引いた目線で、この時代のイタリアとムッソリーニを眺めると、その姿が薄味になるのも仕方ないと思えてくる。やはり、歴史の主役ではなく、日和見の不甲斐ない脇役に見えてしまうのだ。

 著者はヒトラーとムッソリーニを比較して、次の二点を指摘している。

 (1) ムッソリーニは、ヒトラーの『わが闘争』のようなマスタープランがなく、綱領もなかった。
 (2) ヒトラーは信頼できる側近に要職を専門的に分担させたが、ムッソリーニはファシスト幹部を信用せず多くの要職を自分で兼任した。

 ヒトラーを考えるうえでも興味深い見解だ。ムッソリーニは、知性や教養はヒトラーより上のように思えるし、ある時期まではヒトラーを目下に見る英雄だった。それが、いつしか逆転するのである。

 ナチス・ドイツが勢いづいた頃から、ムッソリーニはナチスを真似た政策を取り入れる。「第三帝国」を真似たか否かは知らないが「第三のローマ」をスローガンにしたのは面白い。「皇帝たちのローマ」「教皇たちのローマ」に続く「ファシストのローマ」である。

 本書には、1926年11月にムッソリーニが国旗にファスケスを組み入れたとある。ファスケスとは斧を結わえつけた儀仗で、古代ローマで使われていた。ムッソリーニ時代のイタリア国旗にファスケスがあしらわれているとは初耳で、Wikipedia を調べてみた。当時のイタリア王国の国旗にファスケスはない。国章にはファスケスがある。国旗ではなく国章の間違いではなかろうか。

小松左京世界の気宇壮大な懐かしさに浸る2020年12月30日

『いまこそ「小松左京」を読み直す』(宮崎哲弥/NHK出版新書)
 年末には、今年購入した未読の本が気になる。もっと前からの未読本も多いが、年の瀬の焦燥で近視眼的になるようだ。で、今年7月刊行の次の新書を一気読みした。

 『いまこそ「小松左京」を読み直す』(宮崎哲弥/NHK出版新書)

 昨年(2019年)7月放映のテレビ番組「100分de名著 小松左京スペシャル」のテキストがベースの新書である。小松左京ファンの私は、もちろんこの番組を観ている。だから、この新書の内容を推測できる気がして、後回し「積ん読」になっていた。
 
 本書を読んでいると、記憶の底から小松左京世界がせり上がってきて、未来や宇宙に対峙している気分になる。年末の締メ読書で浩然の気を養った。

 私の小松左京とのファースト・コンタクトは、中学3年のときの『日本アパッチ族』で、その面白さに抱腹した。高校生になって読んだ『復活の日』に圧倒され、『果しなき流れの果に』を『SFマガジン』連載のリアルタイムで読み、その超絶展開に驚嘆・感動した。小松左京は私にとって格別の存在になった。

 「100分de名著」は25分4回の番組で、「小松左京スペシャル」は「①地には平和を」「②日本沈没」「③ゴルディアスの結び目」「④虚無回廊」という構成だった。妙味ある選択と感心したが、「果しなき流れの果に」が入ってないのが不満だった。広大な小松ワールドをたった4作品で論じるのは無理だとも思った。

 『いまこそ「小松左京」を読み直す』はテレビで取り上げた4作品の章に加えて『果しなき流れの果に』の章が追加されている。この新たな章が充実していて、本書全体のキーになっている。それぞれの章の論述もテレビでのコメントよりは深くて広い。正面から論じるのが容易でない巨人・小松左京を的確に捉えている。

 初期の長編『果しなき流れの果に』は時空の「認識」や「意識」を突き詰めていく壮大な物語である。未完に終わった最後の長篇『虚無回廊』には「人工実存」が登場する。先日読んだばかりの『クオリアと人工意識』(茂木健一郎)を連想した。

 著者が指摘しているように、小松左京の思考は「目的論」的であり、そこに展開される世界は科学的というより宗教的、神学的とも言える。自然科学や社会科学の知見をベースに、それを超えようと模索しているのが小松ワールドである。著者は、SFが機能としては神話や宗教説話に近いとし、小松左京が神話の発生を論じた文章を引いたうえで次のように述べている。

 「かかる意味において小松SFは「現代の神話」と位置づけられるのです。」

 同感である。小松作品を読み返したくなった。