『名誉と恍惚』(松浦寿輝)はとても面白い2020年03月30日

『名誉と恍惚』(松浦寿輝/新潮社)
 新型コロナ騒動による諸々のキャンセルでポッカリ時間があき、「積ん読棚」を退治する気になり次の小説を読んだ。

 『名誉と恍惚』(松浦寿輝/新潮社)

 2017年の谷崎賞、ドゥゴマ文学賞のダブル受賞作品で、面白そうだと思って購入しながら、1300枚というボリュームに躊躇して未読のまま積んでいた。読み出すと引きつけられ、一気に読了した。サスペンス活劇映画のように面白く、しかも重厚な小説を堪能したという満足感も得られた。

 舞台は上海租界、時代は1937年7月から1939年10月までの2年間である。物語が始まる1937年7月とは、盧溝橋事件勃発により日中戦争が始まった時で、その翌月(1987年8月)には北一輝が死刑になっている(前年の二・二六事件の軍法会議の判決が出て5日後に執行)。物語が終わる1939年10月はドイツのポーランド侵入にる第二次世界大戦開始の翌月、真珠湾攻撃の約2年前である。

 この小説を読み始めてすぐ、物語をより堪能するには時代背景の知識が必要だと感じた。で、しばし小説を中断し、本棚にあった次の本を引っ張り出した。

 『朝日新聞に見る日本の歩み(昭和12年-14年)』

 これは当時の新聞の縮刷版のダイジェストで、3年間の主要な出来事を約260頁の紙面で紹介している。天眼鏡を手にパラパラと紙面を繰りながら見出しや広告を眺めていくと時代の雰囲気が伝わってくる。この時代はまさに日中戦争にまい進していて、真珠湾の4年前から紙面には戦時色が濃い。上海の記事も多い。上海租界の地図なども載っている。

 小説を読む途中で新聞縮刷版ダイジェストをめくる時間(30分ぐらいか)を得たのは正解だった。物語の時間にタイムスリップできる。主人公が逃亡して沖仲仕に身をやつしているとき、箪笥の抽斗の底の日本の古新聞(5カ月前)を読み耽るシーンがあり、そこに出てくる当時の日本の芸能・風俗ニュースが、私が目を通したばかりの紙面と重なったときは、うれしくなった。

 この小説の魅力は、上海租界という特殊な孤島のような異世界に引き込まれていく所にある。決して幻想小説ではないが、どこか夢幻的でもある。主人公がひととき『漢詩大全』に耽溺し、後にその分厚い書籍を鉄亜鈴の代用品として体を鍛錬するという仕掛けも巧妙だ。エンタメ基調の展開の中に時代や歴史への洞察も盛り込まれた、読みごたえのある小説である。