『キング』の附録『下位春吉氏熱血熱涙の大演説』を読んだ2020年02月01日

『下位春吉氏熱血熱涙の大演説』(キング昭和8年10月號附録/大日本雄辯會講談社)
 『ムッソリーニ』(ヴルピッタ/ちくま学芸文庫)を読んで、ダンヌンツィオのフィウーメ占領に参加した下位春吉という日本人詩人を知り、この人物を検索してみた。そして、次の小冊子をネット古書店で入手した。

 『下位春吉氏熱血熱涙の大演説』(キング昭和8年10月號附録/大日本雄辯會講談社)

 戦前の高名な大衆雑誌『キング』の附録である。附録といえどもB6判132頁の冊子で、薄い新書本ぐらいの分量はある。イタリアのファシズムを紹介した演説を文章化したもので読みやすい。

 ウィキペディアの下位春吉の項によれば、この人は文学者としてよりはイタリア・ファシズムの紹介者として活躍した人で、そのファシズム紹介は「きわめて単純化したもの」だったようだ。この附録冊子を読了して「単純化」という評価に同感した。

 1915年にダンテ研究のためにナポリに渡った下位春吉は、第一次世界大戦末期にはイタリア軍に志願入隊し、その後、詩人人ダンヌンツィオと知り合い、フィウーメ占領にも参加している。

 そんな人物だから、この「大演説」に武勇伝を期待した。確かにダンヌンツィオと行動をともにした体験談も語っているが、「大演説」の基調はやや雑駁な扇動的政談である。アメリカを蔑み、社会主義や共産主義を批判し、ムッソリーニのイタリア・ファシズムの精神性の高さを目いっぱい持ち上げている。

 ムッソリ―ニが社会党の出身だったことには触れていない。ムッソリーニについて「未来派の詩人の一人であります」「新聞社長をやつていた為に、彼は有らゆる方面に就て、園満なる常識を有つて居ります」などと語っているのには苦笑した。

 また「この頃の若手なんぞは、何でも彼でも権利権利と言ひ張る」「この頃女學生などの字の下手なことといつたら恐しいですね」と嘆いている。昭和8年の演説だから批判されているのは私の親より上の世代である。人はいつの時代でも「近ごろの若者批判」から逃れられないと再認識した。

 この「大演説」がファシズムを単純化して称揚しているのは確かだが、それは、物事を単純化した方が伝わりやすく人を動かせるということを知ったうえでの「単純化」のように思える。

『物語イタリアの歴史』は拾い読みでなく通読するべき本2020年02月07日

『物語イタリアの歴史』(藤沢道郎/中公新書)
 数年前、塩野七生氏の『皇帝フリードリッヒ2世の生涯』を読んだとき、この皇帝への関心から次の本を入手し、その第4話を読んだ。

 『物語イタリアの歴史:解体から統一まで』(藤沢道郎/中公新書)

 本書は人物を中心にした次の10話で構成されている。

  第1話 皇女ガラ・プラキディアの物語
  第2話 女伯マティルデの物語
  第3話 聖者フランチェスコの物語
  第4話 皇帝フェデリーコの物語
  第5話 作家ボッカチオの物語
  第6話 銀行家コジモ・デ・メディチの物語
  第7話 彫刻家ミケランジェロの物語
  第8話 国王ヴィトリオ・アメデーオの物語
  第9話 司書カサノーヴァの物語
  第10話 作曲家ヴェルディの物語

 第4話のフェデリーコは神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒのイタリア読みである。ドイツよりイタリアを好んだこの異能の皇帝にはフェデリーコの方がふさわしい。18世紀プロイセンのフリードリッヒ大王とも区別できる。

 私が本書の第4話だけしか読まなかったのは、他の9人には未知の人物も多く、知っている人物もイタリア史を語る材料としてはかなり特殊で、人選がいびつな趣味的歴史エッセイだろうと判断したからである。

 いったんは書棚の奥にしまった本書を取り出して通読する気になったのは、ダンヌンツィオやムッソーリーニの伝記を読んで、自分がイタリア史全体の概要をつかんでいないと感じたからである。古代ローマ史の本は何種類か読んではいるが、それ以降の歴史は頭の中でぼやけている。高校世界史を読み返したことはあるが、その内容の大半は失念している。

 というわけで本書を通読し、その面白さに引き込まれた。人物中心の趣味的歴史エッセイと思ったのは間違いだった。本書は細切れに拾い読みするような本ではなく、第1話から第10話までを通読すべき本であった。通読することでイタリア史の全体像が浮かび上がる仕掛けになっている。

 目次を眺めると、なぜカサノーヴァやヴェルディを使ってイタリアの歴史を語るのだろうとの疑問がわくが、本書はそれらの人物の評伝ではない。人物は歴史という大きな物語を提示するための脇役にすぎない。人物の料理の仕方も辛辣かつ洒脱で諧謔もあり、名人芸のようでもある。

 イタリアの歴史がわかりにくいのは、ローマ、ヴェネチア、フィレンツェ、ミラノ、シチリアなどにそれぞれ別々のバラバラなイメージがあり、そこにフランス、スペイン、オーストリア、ドイツなどの周辺国が絡んできてゴチャゴチャするからである。要は、統一が遅かったので明快な歴史のイメージを紡ぎにくいのである。

 本書を通読すると、そんなイタリアの歴史とは「イタリア統一の試みの挫折をくり返す物語」だとわかる。イタリア史の全体的イメージがおぼろに見えてきた気がする。

全共闘テーマの『飛龍伝2020』を観た2020年02月09日

 新国立劇場中劇場で『飛龍伝2020』(作:つかこうへい、演出:岡村俊一、出演:菅井友香、石田明、味方良介、他)を観た。

 主演の菅井友香は欅坂46のメンバーだそうで、観客に若い男性客が多いのが新鮮だった。AKB48も乃木坂46も欅坂46も区別がつかない私のような高齢者には場違いかと感じた。だが、私のような高齢者もチラチラ見かけ、不思議な客層だった。

 10年前に62歳で亡くなったつかこうへいは私と同い年である。若いときから活躍して一世を風靡した劇作家・演出家で、同世代のヒーローと言える。だが、私はつかこうへいに同世代意識を感じることはあまりなく、その芝居もさほど観ていない。遠い昔に紀伊国屋ホールで『熱海殺人事件』と『ストリッパー物語』を観ただけである。

 つかこうへいの芝居に才気や面白さを感じたが、私が観たい同世代芝居とは少しズレていると思った。それは同世代へのないものねだりの感情である。つかこうへいは甘い世代意識を突き放した作家だったと思う。

 『飛龍伝』の舞台を観るのは初めてだが、かなり昔に戯曲か小説かで『飛龍伝』を読んだ記憶がある。富田靖子が主演した直後のような気がする。何ともヘンテコなザラついた印象が残った。

 今回観た『飛龍伝2020』は2020年バージョンだが、全共闘テーマという骨格は元と同じである。われわれの世代が学生時代にさまざまな形で体験した全共闘を正面から扱っている。正面から扱うことでパロディにしている。要は茶化しているのだが、茶化しながらも何かを伝えようとしている。「全国40万の全共闘が…」「世界革命を…」など威勢のいい血沸き肉躍る言葉(空語)が舞台を飛び交う。革命のお伽噺のようなこの世界をどうとらえるのかとまどってしまう。

 このパロディ世界に、わが同世代作家の多様な屈折が織り込まれているのは確かである。「革命」の指導者が官房長官となって「桜を見る会」を仕切っているという展開はエンタメに近い(全共闘出身の官房長長官や大臣がいたのは事実ではあるが…)。キレのある集団ダンスやシュプレヒコールにメロドラマのあざとさを挟み、決戦としての「革命」を謳いあげる。ノンストップの目まぐるしい舞台はカーニバルにも見える。若い観客たちは、この舞台に何を感じるのだろうか。ちょっと気になる。

 蛇足だが、舞台で「安保・反対/闘争・勝利」と叫ぶのに違和感がある。「安保・反対」は1960年であり、60年代末の全共闘は「安保・粉砕/闘争・勝利」でなければ雰囲気が出ない。パンフレットに収録されたつかこうへいの文章にも「安保」「粉砕ですよね」のセリフがある。手元にに戯曲がないのでよくわからないが、あえて「安保・粉砕」でなく「安保・反対」にしたのだろうか。

『物語イタリアの歴史 Ⅱ』は正編とはテイストの違う「物語」2020年02月11日

『物語イタリアの歴史 Ⅱ:皇帝ハドリアヌスからカラヴァッジョまで』(藤沢道郎/中公新書)
 『物語イタリアの歴史』が面白かったので、その続編と思しき次の本も読んだ。

 『物語イタリアの歴史 Ⅱ:皇帝ハドリアヌスからカラヴァッジョまで』(藤沢道郎/中公新書)

 本書は次の8話で構成されている。

  第1話 皇帝ハドリアヌスの物語
  第2話 大教皇グレゴリウスの物語
  第3話 マローツィア夫人とその息子たちの物語
  第4話 異端者アルナドの物語
  第5話 教皇ボニファティウス八世の物語
  第6話 ロレンツォ・デ・メディチの物語
  第7話 航海者コロンボの物語
  第8話 画家カラヴァッジョの物語

 『物語イタリアの歴史』の刊行は1991年、本書の刊行は13年後の2004年、著者の藤沢道郎氏は本書刊行3年前の2001年に亡くなっている。

 取り上げる人物が正編より二人減り、各編の分量も短くなり、全体にあっさりした印象である。本書は『物語イタリアの歴史』の続編として書き下ろされたのではなく、NHKの「イタリア語講座」のテキストに24回にわたって連載された「人物で語るイタリアの歴史」を著者の死後に関係者がまとめたものだそうだ。遺稿の編集だから没後3年の刊行なのである。

 前著の『物語イタリアの歴史』は、周到に仕込んだ材料で紡いだやや重厚な完結した「物語」だった。本書は前著とは少しテイストが違い、ローマの古跡「聖天使城」をキーワードに1世紀から17世紀までのイタリアの時の流れを物語っている。

 それは、ローマの教皇と周辺の都市国家(フィレンツェ、ミラノ、ジェノバ、ナポリなど)との確執の中で展開されるイタリア世界の興亡で、一つの完結した「物語」になっている。前半の興隆のよりは後半の衰退の部分の方が面白い。

 13世紀のヨーロッパは高度成長期で、14世紀から15世紀のルネサンスの時代がイタリアの絶頂期で、その後のイタリアは転落の一途をたどる。その見方が私には新鮮だった。

 転落の要因の一つはスペインの台頭である。ジェノバのコロンボ(日本語でコロンブスと呼ぶことの不適切を著者は数頁を費やして指摘している)はスペインの資金で新大陸を発見し、スペインに大きな利益をもたらす。

 スペインへ資金を提供したのは実はジェノバの財界だったという皮肉な話が面白い。ジェノバ共和国にはコロンボの事業を後援する実力も覇気もなかった。しかし、ジェノバの銀行には多額の金があり、銀行家は他国の王様にリスクを負わせて利息を手にいれる方が安全と考えていたそうだ。著者は「こうしてイタリアは奈落の底へと落ちていく」と述べている。

 終章にカラヴァッジョをもってきてルネサンスの巨匠たちとの比較で時代の変遷の実相を描いている。この話も私には新鮮で説得力があった。ミケランジェロもカラバッジョ(本名はミケランジェロ)も優れた才能の芸術家だが、生きた時代の違いで運命も作品も大きく異なるのである。

『物語イタリアの歴史』の藤沢道郎氏のグラムシ入門書を読んだ2020年02月15日

『アントニオ・グラムシ:イタリア共産党の思想的源流』(藤沢道郎/すくらむ社/1979.5)
 中公新書の『物語イタリアの歴史』『物語イタリアの歴史Ⅱ』が思いのほか面白く、著者・藤沢道郎氏の略歴を調べ、若い頃はグラムシを研究していたと知った。

 グラムシは懐かしい名前だ。と言っても名前を知っているだけで、その内実はほとんど知らない。『物語イタリアの歴史』を読んだ縁で、この本の著者の手によるグラムシ入門書を読んでみたくなり、ネット古書店で次の本を入手した。

 『アントニオ・グラムシ:イタリア共産党の思想的源流』(藤沢道郎/すくらむ社/1979.5)

 読みやすい平易な本だった。「すくらむ社」とは聞いたことのない出版社である。本書のあとがきによれば「若い労働者向けの月刊誌『すくらむ』」に連載した記事をまとめたものだそうだ。ネットで検索してもこの雑誌や出版社に関する情報はない。すでに存在しない雑誌、出版社だと思われる。

 グラムシという名を目にしたのは大学入学(1968年)直後だった。部室の窓に「グラムシ研究会」と大書したサークルがあった。何を研究するサークルなのか意味不明だったが、やがてグラムシは虫ではなく人名で、そのサークルはフロント派の拠点だとわかった。

 フロントは構造改革派の一派で、緑のヘルメットにキリル文字の「Ф」が印象的だった。私の大学では全共闘を主導するセクトの一つで、それなりの存在感があった。

 ちなみに、民主党政権時の官房長官・仙谷由人、経済産業大臣・海江田万里や『噂の真相』の編集長・発行人・岡留安則などは元フロントらしい。

 閑話休題。本書が出版されたのは1979年で、1960年代末の全共闘などの熱い時代からは約10年が経過している。当時の時代状況をはっきりとは思い出せないが、団塊世代より下の白け世代が社会人になり始めた頃だろう。いまはなきイタリア共産党やソ連が存在していた時代である。

 本書刊行の1979年時点で著者の藤沢道郎氏は46歳(2001年、68歳で逝去)、それまでにグラムシに関する研究書や訳書を多く手掛けている。本書が1979年当時にどう受け取られたかは不明である。

 本書はグラムシの生涯と思想を簡略に紹介している。著者も述べているように、本書でグラムシの思想をつかめるわけではない。それでも、半世紀以上も私の頭の中で名前だけだった存在が具体的な人物像として紡ぎ出され、少しすっきりした。全共闘の時代に彼に一定の人気があった理由も多少はわかった。

 本書を読もうと思った動機のひとつに、先月、ムッソリーニやダンヌンツイオに関する本を何冊か読み、このままでは片手落ちの気分になったこともある。バランスを取るにはグラムシがちょうどいいと思えた。

 本書を読んで、第一次大戦から第二次大戦に至るイタリア現代史の様相への理解が少し深まった。著者は次のように述べている。

 「1920年代の前半と言えば、全ヨーロッパで広くファシズムの革命性が信じられていた時期です。行きづまった資本主義体制を根本的に変えていくとすれば、レーニンの示す道を進むか、それともムッソリーニの示す道を行くか、どちらかであると、多くのまじめな青年が信じていたのです。」

 自分の目の前で起きている事象を歴史の目でとらえるのは容易ではない。本書を読みながら、そんなことをつくづく考えた。

本物の元宝塚スターが春日野を演じる『少女仮面』2020年02月20日

 先月、シアタートラムで『少女仮面』(作:唐十郎、演出:杉原邦生、主演:若村麻由美)を観たのに続いて、中野のテアトルBONBONという小さな劇場でmetro第12回公演『少女仮面』(作:唐十郎、演出:天願大介、主演:月舟さらら)を観た。上演後にはトークショーもあった。

 シアタートラムの『少女仮面』はかなりモダンでパステルカラー風だったが、今回の舞台は紅テントのような泥絵の具風でもなく、あえて言えば薄塗りの油絵のような趣だった。アングラ風に近い。

 主演の月舟さららは宝塚で10年間男役スターとして活躍して2005年に退団した女優だそうだ。本物の元宝塚スターが『少女仮面』の春日野八千代を演ずるのだから、まさに適役である。劇団唐組を率いる久保井研も腹話術師として出演している。かつては唐十郎が演じた「少女フレンドを抱えた老婆」を演じた村中玲子の冒頭の唄と「何よりも、肉体を!」で終わる科白に往年のアングラの空気を感じた。

 なぜかチラシが制服少女姿なので、どんな演出なのだろうとヒヤヒヤしたが、チラシはあくまでイメージ写真で、舞台にこんなシーンはない。変な言い方になるが、オーソドックスなアングラ風なので安心して楽しめた。

 上演後のトークショーで、元宝塚の月舟さららが、退団後にこの戯曲を読んで、なぜこんなに宝塚スターのことがわかるのだろうと驚いたと語ったのに驚いた。宝塚の大スターが観客によって肉体を失われ「私の肉体を返してくれ」と叫ぶ姿に月舟さららが共感したのである。そんな「読み」があるのかと新鮮だった。演出の天願大介が「月舟さんの言う肉体と唐さんの言う肉体は、おそらく違うものだと思う」と語ったことに私も同意する。でも、唐十郎の「特権的肉体論」の意外な拡散を面白く感じた。

『パラサイト』ポン・ジュノ監督とソン・ガンホの会見2020年02月23日

 カンヌとアカデミーのダブル受賞で話題の映画『パラサイト』のポン・ジュノ監督と俳優ソン・ガンホの日本記者クラブでの会見に参加した。多数のテレビカメラが並び、補助椅子も出る盛況だった。

 私は先々週、『パラサイト』を観た。パンフの冒頭に監督が「本作をご紹介頂く際、出来る限り兄妹が家庭教師として働き始めるところ以降の展開を語ることは、どうか控えてください。」と述べているので、立ち入った感想を書くのがはばかられる。

 私は、この監督の長編第2作『殺人の追憶』(2003年)を封切時に観た。内容の記憶はぼやけているが、ドキドキ感が胸に迫ってくる印象の深さは鮮明だ。『グエルム 漢江の怪物』と『母なる証明』は『パラサイト』を観た後にネット配信で観た。サスペンスとコメディをないまぜにした迫力ある世界は独特で、日本映画には得難いものだと感じた。

 『パラサイト 半地下の家族』は、2020年2月22日現在の日本での観客動員は220万人を超え、興行収入は30億円を突破、日本での韓国映画の歴代1位だそうだ。

 ポン・ジュノ監督は、この映画がヒットした要因として「予測不能のストーリー展開」と「俳優のかもしだす魅力」を挙げた。私もそう思う。日本映画はどうしてもチマチマした感じになるが、韓国映画には突き抜けたエネルギーがある。

 ポン・ジュノ監督の秘めたる妄想は、クラシック作品を残すことだそうだ。クラシックの例として黒沢明の『七人の侍』とヒチコックの『めまい』を挙げた。なるほどと思った。

文楽公演で人形も「飛び六方」を踏むと知った2020年02月25日

 国立劇場小劇場で久々に文楽を観た。今月は三部制になっていて、観たのは第三部の次の二つの演目である。

 傾城恋飛脚
 鳴響安宅新関

 『傾城恋飛脚』は飛脚宿の養子忠兵衛が遊女梅川を身受けするために公金を横領して逃走する話である。

 3年前に同じ劇場で文楽の『冥途の飛脚』を観ているし、歌舞伎でも同じ演目を観たことがある。台本は近松門左衛門の『恋飛脚大和往来』である。『傾城恋飛脚』は近松門左衛門の作品を別の作者が改作したものだそうだ。実話ベースのエンタメにいろいろなバージョンがあるのはわかるが、以前の台本を「改作」するというおおらかさに演劇の基層のしたたかな強さを感じる。

 今回の『傾城恋飛脚』は『新口村の段』というやや地味な場面で、心情の機微を表現する話である。毎度のことながら、人形を使ってそんな芝居をするのに感心する。

 『鳴響安宅新関』はいわゆる『勧進帳』である。歌舞伎で観たことはあるが、文楽で観るのは初めてである。この芝居では太夫の語りに圧倒された。歌舞伎では「語り手」だが文楽では「演者」だと実感した。

 また、幕切れで人形の「飛び六方」があるのにも驚いた。花道のある歌舞伎では「飛び六方」が見せ場だが、花道のない文楽でも人形が立派に「飛び六方」を踏んでいた。