大谷崎の『細雪』はまさに「大説」でなく「小説」2020年01月06日

『細雪(上・中・下)』(谷崎潤一郎/新潮文庫)
 今年(2020年)の正月、谷崎潤一郎の『細雪』を読んだ。この高名な小説を71歳にしてはじめて読み、少々浮世離れした正月気分にふさわしい読書時間を過ごした。

 『細雪(上・中・下)』(谷崎潤一郎/新潮文庫)

 私が子供の頃、わが家の本棚に母が買ったと思われる『細雪』の単行本があり、中学生の頃にそれを読み始めたことがある。だが、すぐに挫折した。平易で印象的な会話で始まる冒頭部分は記憶に残っているのに、上品そうな小母さんやお姉さんの世界には入り込めなかった。

 その後、高校・大学時代に谷崎作品はいくつか読んだ。記憶に残っているのは『鍵』『瘋癲老人日記』『痴人の愛』『春琴抄』などで、文豪のエロティシズムと女性崇拝に唖然とし脱帽した。

 それから約半世紀、『細雪』を読む気になったのは、昨年10月に読んだ『ヒトラーの正体』(枡添要一/小学館新書)が『細雪』に言及していたからである。枡添氏は次のように述べている。

 「ヒトラーには極悪非道な独裁者というマイナスイメージしかありませんが、『細雪』を読むと、同時代を生きたドイツ人や日本人がどのように彼を見ていたかが分かります。」

 『細雪』を読了して、舛添氏の上記の指摘はやや大げさだと感じた。確かにこの小説の会話にヒトラーが出てくるが、共感も批判もない単なるニュースにすぎない。同時代の人々のヒトラー観を知るにはもっと適切な本がたくさんあると思える。

 とは言え『細雪』を読了できたのは枡添氏のおかげである。10代の中学生と71歳の高齢者とでは受容力も違い、上方の旧家の姉妹の世界にさほど抵抗なく入り込め、スラスラと短時間で読了できた。面白くなかったわけではないが、家族を巡る小事件がダラダラと続く家庭生活に付き合わされたという物足りなさもある。

 そんな気分になったのは、私がこの小説にバルザック、ユゴー、トルストイのような奇矯で雄大な小説世界を求めていたからかもしれない。もちろん谷崎潤一郎という作家も奇矯だが小説世界は日本的な箱庭に見える。だが、そこには一筋縄では捉えきれないふてぶてしさがある。

 『細雪』は旧家の四姉妹の1936年11月から1941年4月までの日々を描いている。この小説時間は二・ニ六事件勃発の年の秋から太平洋戦争開始8カ月前の春までの5年間であり、この間に欧州では第二次世界大戦が始まっている。時代背景は「非常時」だが、この小説で語られるのは「日常」である。

 登場人物たちはいろいろな事件に遭遇するが、その生活の基調は優雅で坦々とした日常である。美しい着物や書画骨董を彩りに、見合い・花見・日本舞踊・歌舞伎・美食などが語られる。隣家のドイツ人一家帰国にからんで欧州情勢への言及もあり、時代背景が垣間見えるが、それは遠景にすぎない。

 谷崎潤一郎が『細雪』の執筆を始めたのは太平洋戦争開始の翌年で、「中央公論」への連載は陸軍省によって掲載禁止になり、自費出版した「上巻」は始末書の提出を求められた。

 『細雪』とう家庭風俗小説が異様なのは、特異な時代背景への無関心である。小説の登場人物がヒトラーという名を口にしても、それを熱く論じることはない。この小説から同時代人のヒトラー観を探るのは無理筋である。バルザック、ユゴー、トルストイなど19世紀の文豪なら日常の些事を綴るなかで「時代」を語ってしまうのに、『細雪』は些事に徹して「大状況」などは視野の外である。そこに、大状況に対して熱くならないこの作家の強靭さを感じざるを得ない。

 まさに小説とは「大説」ではなく「小説」であると思い知らされるのが『細雪』である。

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