怪優・麿赤児の自伝は抜群に面白い2018年10月12日

『麿赤児自伝:戯れて候ふ』(麿赤児/中公文庫)
 『麿赤児自伝:憂き世 戯れて候ふ』(中公文庫/2017.8)は抜群に面白かった。1960年代末の過剰で熱い空気が流れ出てくる本である。この自伝、2011年に朝日新聞出版から刊行されたものを改題・増補したものだそうだ。2017年現在の麿赤児を語った章や息子たち(映画監督の大森立嗣と俳優の大森南朋)との鼎談も収められている。

 私にとって麿赤児とは状況劇場の看板怪優である。初めて観たのは1969年12月上演『少女都市』の「フランケ醜態博士」役で、その存在感に圧倒された……と思っていたが、よく考えるとその直前に大学の学園祭で観ていた。

 1969年12月、渋谷で状況劇場の団員たちが天井桟敷に殴り込んで乱闘になり唐十郎、寺山修司をはじめ両劇団のメンバーが逮捕されるという事件があった。その翌日ぐらいに学園祭(季節が変なのは事情があった)で状況劇場の歌謡ショーが予定されていて、事件報道の新聞記事を読みながら歌謡ショーは中止だなと思った。だが、役者たちはすぐに釈放され予定通りにショーは開催された。

 その歌謡ショーで初めて状況劇場の役者たちをナマで観て、これはすごいと圧倒された。一番印象的だったのは四谷シモンだった。状況劇場の魅力に惹かれ、数日後には紅テントの『少女都市』を観に行った。その舞台で最も衝撃を受けた役者が麿赤児だった。そのときから数年にわたって紅テント通いが始まった。半世紀近く昔のことである。

 『麿赤児自伝』にはあの天井桟敷での乱闘の経緯も語られていて、当時のあれやこれやが蘇ってくる。この本は「自伝」と銘打っているが、麿赤児の人生の折々の「事件」を7編のエッセイで綴ったオムニバスである。その「事件」がそれぞれに創作ではないかと思えるほどに面白い。

 1943年生まれの麿赤児は今年で75歳、彼が状況劇場を退団したのは1971年、27歳の時だ。あの舞台の麿赤児がそんなに若かったのかと、あらためて驚いた。とても20代には見えなかった。圧倒的存在感のある年齢不詳の恐ろしげな魔人のイメージが強い。本書には、27歳の麿赤児が舞台ではなく現実世界でヤクザの親分を演じて借金取り立てに成功する話が紹介されている。首肯できるエピソードだ。

 麿赤児が辞めたあとも状況劇場の芝居を何本も観ているが、いま思い返すと、やはり麿赤児の姿が最も印象深く残っている。その後、彼が立ち上げた舞踏集団「大駱駝艦」の公演を一回だけ観た。「大駱駝艦」はあれから45年も持続して現在も活動しているそうだ。驚異である。

 それにしても、私の頭の中では現在の麿赤児の風貌と半世紀近く前の彼の風貌がほとんど同じなのが不思議である。時間を超越した気分になる。

カミュの『誤解』は、やはりカミュ2018年10月14日

 新国立劇場小劇場でカミュの『誤解』(演出:稲葉賀恵、出演:原田美枝子。小島聖、水橋研二、他)を観た。同じ劇場で8月にサルトルの『出口なし』を観たばかりだ。サルトル、カミュと続き1960年代にタイムスリップした気分である。

 と言っても初見の芝居なので懐かしさを感じたわけではないし、自分が若返った気がするのでもない。時代のうねりには大きな周期がある。あの頃に求められていた何かと似た何かの意義が大きくなりつつあるのかもしれない。

 戯曲『誤解』はかなり以前に読んだが詳細は失念している。ダールばりのブラック・ユーモア(ホラー)的プロットだけが印象に残っていた。今回の舞台を観て、「哲学的」とも言える長科白が多いのが意外だった。当然ながら、ダールではなくカミュの世界である。年月とともにわが頭からはカミュ的難解な部分が蒸発し、ダールだけが残留していたようだ。

 ナチス占領下のフランスでカミュが執筆したこの芝居の舞台は陰鬱な田舎町である。そこで小さなホテルを営んでいる母と娘は自分たちの住む世界に絶望的な閉塞感を抱いている。そして、海に面した南国への脱出を夢見ている。だが、その夢がかなえられることはない。

 救いも神もない状況を呈示した芝居である。それでも、登場人物たちは目いっぱいに自身を語る。その大いなる語りこそが人間が生きる営みであり、脱出口なのかもしれない。原田美枝子の疲れた母の好演、小島聖の突っ張る娘の熱演を眺めながら、そんな考えが頭をよぎった。

西郷隆盛は会っても理解できないメンドーな人か…2018年10月16日

『西郷隆盛と明治維新』(坂野潤治/講談社現代新書)、『素顔の西郷隆盛』(磯田道史/新潮新書)、『西郷隆盛 維新150年目の真実』(家近良樹/NHK出版新書)、『西郷隆盛:西南戦争への道』(猪飼隆明/岩波新書)
◎歴史学者は西郷隆盛をどう見ているか

 西郷隆は盛はあまり深入りしたくない人物で、大河ドラマ『西郷どん』もきちんと観ていない。それでも、西郷隆盛を美化しすぎ、そのぶん徳川慶喜を卑小な悪役にしてるように思え、少々鼻につく。

 大河ドラマはフィクションだと割り切ってはいるが、歴史学者たちが西郷隆盛をどう評価しているか確かめたくなり、次の新書を読んでみた。

(1)『西郷隆盛と明治維新』(坂野潤治/講談社現代新書)
(2)『素顔の西郷隆盛』(磯田道史/新潮新書)
(3)『西郷隆盛 維新150年目の真実』(家近良樹/NHK出版新書)
(4)『西郷隆盛:西南戦争への道』(猪飼隆明/岩波新書)

 この4冊の著者はみな学者である。(2)(3)は最近の刊行で大河ドラマ『西郷どん』にも触れている。(1)は2013年4月刊行、(4)は1992年6月刊行である。

 4冊の新書を読んで西郷評価の難しさと面白さを感じた。西郷の言動や書簡は多数残っているが、黙して語らなかった事項も多い。表面的事象はわかってもその内面、つまり何を考えていたのか(あるいは考えていなかった)はわからない。そこに矛盾や謎があり、評価が難しくなるようだ。

◎同時代の人にとっても謎の人

 4冊の中では(3)が一番面白かった。著者の家近氏は西郷の謎を解明しようという動機で本書を書いており、その問題意識は私の関心に近い。家近氏は本書刊行の直前に「分厚い西郷隆盛の評伝」を刊行していて、この新書はその評伝の続編をかねた入門書になっている。いつの日か分厚い評伝に挑戦したいと思わないでもないが、この新書に評伝の骨子は反映されているようにも思える。私が着目した本書の指摘は以下の通りである。

 ・薩摩幕末史の主役は西郷・大久保ではなく久光と小松帯刀だった
 ・西郷は好き嫌いの激しい狭量な人物で包容力はなかった
 ・西郷は同時代の人々にとっても謎の人物だった
 ・西郷・大久保は慶喜を過大評価し恐れていた
 ・慶喜は物事を俯瞰的に眺めて冷静な判断はできたが胆力はなかった
 ・西郷と大久保を対等な盟友ではなく先輩・後輩の関係と見るべきだ

◎征韓論者西郷は虚像

 (1)の著者・坂野氏は「西郷を尊敬する」と明言している。学者にしては思い切った言い方で感心した。西郷を「征韓論者」と見なすのは間違いだとし、次のように述べている。

 「幕末維新期の西郷は、対外政策では冷静かつ合理主義的であり、国内政治では民主的で進歩的であった。幕末の西郷は、吉田松陰や木戸孝允とちがって、一度も「攘夷」を唱えたことはなかった。」

 合理主義的、民主的、進歩的という形容は一般的な西郷のイメージとはかなり異なる。坂野氏は幕末期の西郷が藩を超えた藩兵の横断的結合を重視していたことを強調し、西郷の「実像」を呈示している。

 私には著者の呈示した「実像」の妥当性を評価する能力はない。あらためて、多様な見方ができる人物だったと思うしかない。

◎西郷は天皇親政を期待

 (4)は明治6年の政変(征韓論の敗れた西郷、板垣らの下野)から西南戦争までの政治史を「有司専制」をキーワードに分析している。わかりやすくはないが興味深い分析である。

 大久保らの「有司専制」とは藩閥や藩士意識を排除した官僚制である。明治6年の政変は、「有司専制」が西郷・板垣によって堀り崩されようとしているのに危機感をもった大久保・岩倉が「有司専制」を進めるために西郷・板垣を排除した事変だとの見立てである。

 西郷が「有司専制」に反発したのは西郷に藩士性が強く残っていたからであり、有司専制ではなく天皇親政を期待していたそうだ。西郷の死後、日本は有司専制から天皇親政官僚制に移行し、西郷は復権したという分析である。

 猪飼氏は西郷の人間の大きさ(至誠・胆力・正直・公平・無私など)が広く国民に知られていたとしつつも、政治家・行政官としては無能で明確な国家構想はなかったと評価している。軍(いくさ)好きの軍略家だとも述べている。

◎近寄れば死の匂いがする人

 (3)の著者・磯田氏は『西郷どん』の時代考証を担当している歴史学者である。と言っても(3)は必ずしも西郷を肯定的に評価した内容ではなく、史料をベースに西郷の生涯を概説している。

 西郷の人物像を語った箇所をいくつか引用する。

 「西郷は人間的には大きいのですが現代風にいえば、かなり面倒くさい男であったのは確かです。西郷は我々のイメージと違って、包容力のある男ではありません。必要以上に人とぶつかる男で、後年、薩摩の知人たちが、西郷には困らされたと語っています」

 「西郷の押しの強さ、相手に言うことを呑ませる力は、何をするかわからないという恐怖感と背中合わせなのです」「無体な処分を主張し続けて、文句を言う者は短刀で殺すという。はっきり無茶です。でも西郷ならやるかも、と思わせる力があり皆を黙らせたのです」

 「西郷は万事、不器用で、失敗が多いのです」「ムラの多いリーダーです。見事な指揮をする時期と、ふさぎこんで無能の人になる時期との差が大きいのです」

 「あれだけ人望があり、人に好かれる明るさがあるのに、近寄れば近寄るほど死の匂いがしてくるのです」「子供みたいな純真な側面がありながら、策謀を始めるといくらでも悪辣なことを考えられる頭脳」

 磯田氏は上記のように語りながら「西郷は色々な顔をもち、それだけ人物像の確定が難しい」とし、歴史家や作家泣かせの人物だとしている。

◎大人物を演じることができた人では…

 4冊の新書を読んで私の頭の中に浮かんだ西郷像は「演じる人」である。胆力があると見なされる人物の多くは「演じる人」であり、演じる自分と自身を一体化できる人だと思う。

 演じる自分に自信をもつと素顔と仮面の区別がつかなくなり、周囲に大きな磁場を発散する。身近な人にとっては「面倒な人」「つきあい切れない人」になる。大久保や従道はその磁場から逃げた人に思える。

 司馬遼太郎は『翔ぶがごとく』のなかで、西郷という人物は「会ってみなけらばわかない」と述べている。だが、会っただけでもわからない人物だったように思える。いつの時代にもそういう人はいそうな気がする。私が小人物だからこんな考えになるのだろう。

やっと『三人吉三』を観た2018年10月18日

 先月に続いて今月も歌舞伎座の「昼の部」「夜の部」を通しで観た。今月は「十八世中村勘三郎七回忌追善」で、演目は以下の6本である。

 昼の部
  1. 三人吉三巴白波
  2. 大江山酒呑童子
  3. 佐倉義民伝
 夜の部
  1. 宮島のだんまり
  2. 吉野山(義経千本桜)
  3. 助六曲輪初花桜

 中村勘三郎の追善だから観ようと思ったのではなく、三人吉三が目当てである。仁左衛門の助六も観たいと思った。

 私が年に数回歌舞伎を観るようになったのは5年ぐらい前からで、現役で仕事をしていた頃はほとんど観ていない。まだ入門者なので未見の有名演目も多い。その一つが三人吉三だった。

 私の世代(1948年生まれ)にとって、三人吉三と言えば橋幸夫の歌謡曲『お嬢吉三』ではなかろうか。テレビやラジオでこの歌謡曲を繰り返し耳にしたのは1963年、中学3年のときで、舟木一夫の『高校三年生』がヒットした年である。

 当時、青春歌謡は好んで聞いたが『お嬢吉三』はアナクロ歌謡なので関心外だった。しかし、軽やかなリズムの名調子を何度も耳にするうちに、意味がわからないままに歌詞の断片は頭の底にこびりついた。

 久々にネットでこの歌謡曲を聴いてみて、なかなかいい歌だと思った。4番までの歌詞を丁寧に聴いて、大川端庚申塚の場のスジ書きを端的簡潔に表現しているのに感心した。舞台が目に浮かぶ歌である。

 今回初めて観た三人吉三は、お嬢吉三が中村七之助、お坊吉三が坂東巳之助、和尚吉三が中村獅童という若い取り合わせで、名調子の科白は心地よく、役者の姿も美しい。橋幸夫の歌謡曲のイメージを半世紀以上経って実見できたという感慨がわいた。

 夜の部最後の演目、仁左衛門の助六も堪能できた。昨年春に海老蔵の助六を観ているので、この歌舞伎十八番の有名演目はやっと2度目である。海老蔵のときは「助六由縁江戸桜」という演題だった。今回の演題は「助六曲輪初花桜」、この芝居の題は主演役者の家によって変わると初めて知った。不思議なしきたりがある所が歌舞伎の面白さである。

14年前に出た十八世勘三郎の半生記を面白く読んだ2018年10月20日

『勘九郎日記「か」の字』(中村勘九郎/集英社/2004.11)
 今月観た歌舞伎が「十八世中村勘三郎七回忌追善」だったのがきっかけで、書架に眠っていた次の本に手がのびた。

 『勘九郎日記「か」の字』(中村勘九郎/集英社/2004.11)

 14年前に出版された半生記で、この本が出た時点(2004年11月)では勘九郎だが、すでに勘三郎襲名(2005年3月)が決まっていた。襲名の7年後(2012年12月)、57歳で早世する。

 数年前に古書市で購入し、いずれ読もうと積んでいた本である。誕生時や初舞台のことから勘三郎襲名をひかえた決意までが軽妙な日記体で書かれていて、面白く読了した。

 2004年の平成中村座のニューヨーク公演のドキュメント、幅広い交友、歌舞伎の舞台裏から私生活までを臨場感たっぷりに語り、新時代の歌舞伎への覚悟も伝わってくる。

 18世勘三郎は私が初めて知った歌舞伎役者である。彼は幼児の頃からメディアに出ていた。私は彼より7歳年長なので、子ども頃から子役の「勘九郎クン」を知っていた。だが、テレビなどで観るだけで、彼のナマの芝居を観たことはない。

 あの「勘九郎クン」が大人になり、状況劇場などからも影響を受けて歌舞伎の新しい形に取り組んでいることは知っていた。注目していた役者だったのに舞台を観る機会を逸したのは残念である。

 仕事をしていた頃は時間の制約から歌舞伎を観るのは難しかったが、評判の『野田版 研辰の討たれ』(2001年8月)はぜひ観たいと思った。土日のチケットは取れなかったので、一幕見でもと思い、勤務終了後に歌舞伎座まで行ったが長い行列ができていて満席で入れなかった。別の日にも行ったがやはりダメだった。

 後日、DVDで『野田版 研辰の討たれ』を観て、その面白さを確認し、あのときもっと粘ってナマで観たかったという気持ちがよみがえった。

 本書のラスト近くで、立川談志とのエピソードを楽しげに次のように語っている。

 『家元(立川談志)は私に死ねという。もちろん得意のブラックジョークだが、なぜ「早く死ね!」かというと「若いうちに早く死ねば、伝説になる」というのだから、たまらない。』

 亡くなる8年前の記述である。いまとなってはしみじみと読むしかない。本当に早世して伝説になったのだから。

いつの日か再読したい『薔薇の名前』2018年10月23日

『薔薇の名前(上)(下)』(ウンベルト・エーコ/河島英昭訳/東京創元社)
 未読のまま26年間本棚で眠っていた『薔薇の名前』を読んだ

 『薔薇の名前(上)(下)』(ウンベルト・エーコ/河島英昭訳/東京創元社)

 きっかけはEテレの「100分de名著」が本書を取り上げたからである。全4回を録画し、小説を読了したら観ようと思っていたが、本を手にする前に第1回だけ観てしまった。映画でおよそのスジは知っているのでいいかと思ったのである。

 この番組によれば、1980年に発表された『薔薇の名前』は全世界で5,500万部以上売れていて、大半の人が読み通すことができずに挫折しているらしい。私もその一人だった。

 ショーン・コネリー主演の映画『薔薇の名前』を観たのは30年近く昔である。 重厚陰鬱な中世の僧院の世界が印象的な映画で、「007」のショーン・コネリーが重厚で魅力的な老優に変貌しているのに驚いた記憶がある。

 その頃、何かの会合でこの作品が話題になり、私が「映画は観たけれど、小説を読んでいません」と言うと、ある人から「あれは映画だけじゃだめです。小説を読まなければ…」と強い調子で言われた。その人は私が尊敬する大先達だったので、小説も読もうと思った。しかし、読了できなかった。

 多くの人が挫折しているとテレビで聞き、26年前の大先達の言葉がよみがえり、今度こそは読み通そうと思った。

 そんな覚悟で読み始めると、想像したほどに読みにくくはなく、比較的短時間で面白く読了できた。中世キリスト教会の宗派の話などは把握しにくくて退屈する箇所もあったが、そんなところも何とか乗り越えて、蠱惑的とも言える世界に引き込まれて興味深く読み進めることができた。

 と言っても、本書の内容を十全に理解できたわけではなく、エーコの魅惑的世界を十分に堪能できたとは思えない。ついついミステリーの縦糸に牽引されて、さまざまな横糸の部分をすっ飛ばして読んでしまった気がする。

 この小説はホームズとワトソンの謎解き物語という仕立ての上に、書誌学と書物への偏愛、笑いの哲学、中世キリスト教史と異端審問、記号学などの要素が盛り込まれていて、メタ書物のような形になっている。

 読了後に思ったのは、いつの日か、多少の事前勉強をしたうえで、ゆっくりと時間をかけて再読したいということである。そのときには、縦糸と横糸だけでなくナナメの糸も絡んだ重層的な織物を堪能できればと夢想する。

飛べないメジロ始末記2018年10月30日

 ベランダでカミさんが「キャー」と叫んだ。小鳥が死にそうになっているという。突然、空から落ちて来たそうだ。

 小さな鳥がわが家のベランダで仰向けになってピクピク動いている。そっと手で表向きにしたが、うずくまった姿勢でかすかに体を動かすだけだ。どうしていいかわからず、そのまま放置した。

 1時間ほど経って見に行くと、その場所にいない。あたりを見回すと、チョンチョンとベランダを歩き回っている。そのうち飛び立つだろうと期待した。

 しばらくたって見に行くと、その小鳥は仰向けになっていた。手で元に戻してやると、またチョンチョンと歩き出す。しばらく歩いて、羽根をはばたかせて飛ぼうとするとすってんとひっくり返って仰向けになる。そうなると自力では元に戻れないようだ。やっかいな小鳥である。

 よく観察すると、右の翼がはばたくだけで左の翼はまったく動かない。これではすぐには飛び去りそうにない。夕暮れも迫ってきた。仕方なくわが家で保護することにした。高さ15センチしか飛べないのだから鳥かごは必要ない。屋内のベビーバスに入れた。

 カミさんが図鑑で調べて、その小鳥はメジロだと判明した。わが家に鳥の飼育法の本はない。庄野潤三の『メジロの来る庭』という本はあるが、もちろん飼育教本ではない。ネットを検索すると、いろいろな情報が出てきた。メジロは捕獲や飼育が法律で禁止されているそうだ。にもかかわらず飼育法の記事もあるし、メジロの餌もいろいろ販売されている。

 ネットの情報をもとにミカンを与えるとよく食べる。とりあえず餌も注文した。ミカンをついばむ姿はかわいい。ベビーバスの中で落ち着いたメジロは無理にはばたこうとはせず、仰向けになることもない。

 通販で届いた餌はミカンに塗って与えた。しっかりミカンを食べるものの、いつになったら飛べるようになるかわからない。動物病院に連れていけばいいのだろうが、そもそも飼育禁止の動物である。

 メジロを保護して2日目、落ち着いて考えてみると、やっかいな小鳥である。餌は毎日与えねばならず、寿命は3~5年だという。メジロがいては旅行もできない。旅行中は人にあずけるとしても、違法行為に巻き込むことになる。

 どうしたものかと思案し、日本野鳥の会に相談しようと思いつき、そのホームページを見ると「よくある質問」に「けがをした鳥を保護したのですが、どうしたらよいでしょうか?」という項目があった。回答には、当面の緊急措置の解説に続いて「必ず各都道府県の野生鳥獣担当機関に連絡し、指示を仰いでください」とある。

 その回答に従って、東京都多摩環境事務所自然環境課鳥獣保護管理担当に電話を入れると、担当者が引き取りに来た。購入したばかりの餌も引き取ってくれた。引き取った野鳥は獣医の診断を受け、回復すれば保護した場所で放すそうである。

 飛べないメジロ一羽にもきちんと対応する行政にあらためて感心し、文明の力のようなものを感じた。わが家に3泊して引き取られて行ったメジロが回復して自然に還る日が来ることを祈っている。