今年もまたトウモロコシを囓られた2016年08月03日

 八ヶ岳南麓の山小屋のささやかな畑で育てていたトウモロコシが今年も動物被害にあった。10日ほど前にジャガイモは無事に収穫でき、その時はトウモロコシは無事だった。しかし昨日、トウモロコシの収穫に行ったら数本が倒され、実が囓られていた。

 昨年、かなりの量のトウモロコシの実が囓られ、被害状況からハクビシンの仕業と判断し、まだ囓られていない実を新聞紙で巻いた。それで被害の拡大は抑えられた。

 今年は「ハクビシンなぜ逃げる」という名称の動物忌避剤を購入し、それをフェンスに吊して防御した。これで何とかなりそうだと期待していたが、楽観は裏切られた。

 昨年は立ったままの状態で実を囓られていた。今年は倒されている。ハクビシンではなく、タヌキなど他の動物の可能性もあるが、やはりハクビシンだろうと勝手に推測している。今年のトプモロコシの生育状況はイマイチで倒しやすそうに思えるし、ハクビシンにも大きいのや小さいのがいるはずだ。

 何よりも「ハクビシンなぜ逃げる」を吊した近くは被害がなく、そこから最も離れた場所が被害にあっているのだ。よく考えれば、トウモロコシの畝を囲むように動物忌避剤を吊すべきだったが、フェンス側にのみ吊し、その反対のフェンスの「内側」は無防備だったのだ。「内側」という概念は私の勝手な考えで、身軽なハクビシンにとっては「外側」も「内側」もあるわけがない。己の浅はかな頭の固さを呪うしかない。

 そんなわけで、今年もまた、まだ囓られていない残りの実を新聞紙で巻いて様子を見ることにした。

 とは言え、囓られたのは一部で、今回は約10本を収穫できた。それをわが木彫作品と並べて撮影することもできた。

リオ五輪閉幕翌日に『狸御殿』を観て、2020年は宮本亜門だと直感2016年08月23日

 リオデジャネイロ・オリンピック閉会式の実況中継を観た翌日(8月23日)、新橋演舞場で和製ミュージカル『狸御殿』を観た。チケットを手配したのは数カ月前で、オリンピック閉会式翌日の観劇と気づいたのは数日前だ。演出は宮本亜門、出演は尾上松也、瀧本美織、渡辺えり、小倉久寛など。エンタメ・ミュージカルだからストーリーが他愛ないのは当然で、歌と踊りとコミカルな演技で舞台は進行する。

 古来、多くの人々を楽しませてきたのは、こういう華やかな祝祭的な舞台だったのだろう、などと思いながら舞台を眺めていて、前日に観たオリンピック閉会式の映像と舞台上の舞踏が重なってきた。そして、2020年の東京五輪の開会式の演出家は宮本亜門だと直感した。蜷川幸雄が存命でもっと若かったら文句なく「世界のニナガワ」だったのだが・・・。

 そう言えば、リオ五輪のテレビ中継に宮本亜門氏がゲスト出演していた。また、私の聞き違いでなければ『狸御殿』の舞台では1964年の東京五輪のファンファーレも流れた。そして、フィナレーの後の舞台を観て、私の直感はより強くなった。

 芝居が終わり緞帳が下り、拍手の中で再び緞帳が上がる。カーテンコールと思いきや、そこから短い舞台ショーが始まった。ヒロイン(瀧本美織)の「さくらさくら」独唱やヒーロー(尾上松也)の和太鼓などを含めた出演者総出の華やかなショーで、最後は全員が舞台に正座し尾上松也が歌舞伎の口上挨拶で締める。東京五輪の開会式か閉会式の1シーンを幻視した気分になった。

古代ローマ史の概説書を読み比べたが・・・2016年08月27日

『世界の歴史② ギリシアとローマ』(村川堅太郎責任編集/中央公論社)、『大世界史② 古典古代の市民たち』(村川堅太郎/文藝春秋)、『 世界の歴史⑤ ローマ帝国とキリスト教』(弓削達/河出書房)、『世界の歴史③ 永遠のローマ』(弓削達/講談社)、『世界の歴史⑤ ギリシアとローマ』(本村凌二・桜井万里子/中央公論社)、『興亡の世界史④ 地中海世界とローマ帝国』(本村凌二/講談社)
◎記憶の蒸発を抑えられるか

 『ローマ人の物語』(塩野七生)を読了したのが5年前、『ローマ帝国衰亡史』(ギボン)を読了したのは昨年2月だが、すでにそれらの内容の大半は朧になっている。年を取ってから読んだ本の内容は蒸発も早い。蒸発を抑えるには再読三読すればいいのだが、大部な本だから億劫だ。

 そこで、概説書を何冊か読んで古代ローマ史をおさらいしようと思った。

◎6つの世界史叢書

 一般向けの世界史シリーズ本は何種類も刊行されている。この半世紀の間に出た主なものを刊行順に並べると以下の通りだ。

(A)中央公論社『世界の歴史』(全16巻) 1960年11月刊行開始
(B)文藝春秋『大世界史』(全26巻) 1967年6月刊行開始
(C)河出書房『世界の歴史』(全24巻)1968年3月刊行開始
(D)講談社『世界の歴史』(全25巻)1976年11月刊行開始
(E)中央公論社『世界の歴史』(全30巻) 1996年11月刊行開始
(F)講談社『興亡の世界史』(全21巻)2006年11月刊行開始

 私はこの中の(B)(C)(E)を全巻所有している。いずれも刊行から何年も経って古書で入手したものだ。全巻揃いであまりに安価だったので置き場所も考えずに衝動的に買ってしまったが、読了した巻はほんの一部に過ぎない。

 当初、所有している(B)(C)(E)の古代ローマ史の巻を読もうと考えた。しかし、どうせなら他の(A)(D)(F)の古代ローマ史の巻も含めて読み比べるのも一興だと思った。著者や刊行年代によって記述内容にどれほどの違いがあるか確かめられれば面白いと思った。

◎6冊のローマ史概説書の著者は3人

 そんなわけで、以下の6冊を刊行順に読んだ。

(1)『世界の歴史② ギリシアとローマ』(村川堅太郎責任編集/中央公論社/1960年12月)
(2)『大世界史② 古典古代の市民たち』(村川堅太郎/文藝春秋/1967年7月)
(3)『 世界の歴史⑤ ローマ帝国とキリスト教』(弓削達/河出書房/1968年9月)
(4)『世界の歴史③ 永遠のローマ』(弓削達/講談社/1976年12月)
(5)『世界の歴史⑤ ギリシアとローマ』(本村凌二・桜井万里子/中央公論社/1997年10月)
(6)『興亡の世界史④ 地中海世界とローマ帝国』(本村凌二/講談社/2007年8月)

 (1)(3)は古書でバラで入手。(6)は7年前に購入して読んでいるが内容は失念しているので今回再読した。

 まず驚いたのは、1960年代から2000年代までの約半世紀の間に刊行された6冊の著者の重複である。最初の2冊は村川堅太郎氏、次の2冊は弓削達氏、最後の2冊は本村凌二氏がメインの著者だ((5)は木村・桜井氏の共著)。本は6冊だが著者は3人、多様な歴史学者の見解を知りたいという課題の材料としては価値半減だが、一人の著者が似たようなテーマをどう書き分けるかという興味がわいた。

 (1)(2)(5)はローマ史とギリシア史がセットになっていて、複数の執筆者がいる。当面の私の関心は古代ローマ史だが、ローマ史の部分だけ読むのも中途半端なので全巻通読することにした。

 6冊すべての執筆者とその生年は以下の通りだ。執筆した歴史学者の世代と刊行時の年齢が把握できる。

(1)『ギリシアとローマ』(1960年12月刊行)
   村川堅太郎(1907年生まれ)
   秀村欣二 (1912年生まれ)
(2)『古典古代の市民たち』(1967年7月刊行)
   村川堅太郎(1907年生まれ)
   長谷川博隆(1927年生まれ)
   高橋秀(1929年生まれ)
(3)『ローマ帝国とキリスト教』(1968年9月刊行)
   弓削達(1924年生まれ)
(4)『永遠のローマ』(1976年12月刊行)
   弓削達(1924年生まれ)
(5)『ギリシアとローマ』(1997年10月刊行)
   本村凌二(1947年生まれ)
   桜井万里子(1943年生まれ)
(6)『地中海世界とローマ帝国』(2007年8月刊行)
   本村凌二(1947年生まれ)

 大雑把に言えば(1)(2)の著者は私から見て祖父母の世代(終戦時に40代)、(3)(4)の著者は父母の世代(終戦時に20代)、(5)(6)の著者は戦後生まれの私とほぼ同世代の歴史学者だ。この三代の歴史学者たちは概ね40代から50代の頃、上記の概説書を執筆している。

 この6冊の概説書を通読してみて、それぞれの本に執筆者の世代の違いや刊行時の時代の違いが反映されていると感じた。

 なお、6冊の通読後、(1)~(5)は後年文庫に収録されていることを知った。(1)(5)は中公文庫、(2)(4)は講談社学術文庫、(3)は河出文庫になっている。

◎村川堅太郎氏らの2冊

 (1)『ギリシアとローマ』(村川堅太郎、秀村欣二)
 (2)『古典古代の市民たち』(村川堅太郎、長谷川博隆、高橋秀)

 (1)(2)ともギリシアとローマを扱っていて、これらを読んで、あらためてギリシア史とローマ史の時代的重複に気づき有益だった。

 私の頭の中では、ギリシア時代の次にローマ時代があるイメージだったが、時間的にも地理的にもギリシアとローマはかなり近い。ギリシアの視点ではローマは周辺、ローマの視点ではギリシアが周辺になるだけだ。多様な事象があちらやこちらで同時並行的に進行しているのが歴史だという当然のことに気づき、それを時空を超えた視点でとらえる難しさを知った。

 (1)の書き出しはシュリーマンの発掘物語だ。あの感動的な物語とその後の考古学の進展を紹介し、ミノアやミケーネの時代(紀元前2600年~1100年)から説き起こし西ローマ滅亡の5世紀までを記述した通史だ。1冊の本でこの長い期間を概説するのだから、やや駆け足的な羅列になるのは仕方なく、あっという間に西ローマが滅亡したような印象が残った。

 (2)は(1)とは少し趣きが異なる。地中海の風土の描写から始まり、その地に展開された都市国家や帝国の命運を語る俯瞰的な本だ。都市国家が生成し衰退し、帝国が形成され、やがて市民が臣民になり、キリスト教が台頭し帝国が衰退していくさまを重点的に描いている。通史というよりは、タイトル通り「古典古代の市民たち」という視点の歴史書である。

 ギリシアとローマを扱った(1)(2)を読んで、都市国家として出発して帝国になった故にローマがさまざまな課題をかかえたことを再認識し、さまざまな都市国家の命運の違いに歴史の面白さを感じた。

 ギリシアの民主政が衆愚政へと陥ったことはよく知られているが、(1)を読んであらためてその具体的実態を知った。デマゴーグの語源がギリシアの民衆指導者にあるという解説もあり、そこには、ファシズムを経て戦後民主主義に移行した戦後日本社会に対する何らかの思いが反映されているように感じられた。

 また。(1)で印象深かったのは、クレタで発掘された線文字Bの解読に成功した俊才ヴェントリスに関するエピソードだ。彼は34歳で自動車事故で夭逝している。1956年6月、村川堅太郎氏はロンドンの研究会で彼と知り合い、その年の10月の研究会で彼への黙祷をささげることになったそうだ。

 そんな悲しいエピソードの紹介も含めて、(1)(2)には歴史学者の溌剌とした明るさ、戦後社会の自由な青空気分が反映されているように感じた。

◎弓削達氏の2冊

 (3)『ローマ帝国とキリスト教』(弓削達)
 (4)『永遠のローマ』(弓削達)

 弓削達氏の2冊はいずれもギリシア抜きのローマ史である。2冊ともキリスト教の歴史に関する記述が詳しく、ギリシア史が抜けた代わりにキリスト教史が加わったという趣きだ。(3)が通史的な記述で(4)が歴史エッセイ風になっているのが、村川堅太郎氏らの(1)と(2)の関係に似ている。

 (3)はタイトル通りローマ帝国の歴史とキリスト教の歴史という二つの歴史を絡みあう形で並列的に記述している。冒頭はアウグストゥス治世下にイエス・キリストが誕生する話で、この二人を並べ「星の暗示した世界支配者は、かの幼な子であるのか、アウグストゥスであったのか」というやや芝居がかった記述もある。

 ローマ帝国の宗教に関する「等価交換」という考えが面白かった。多神教のローマ帝国が神々に供物を捧げて祈るのは、それによって国の勝利や繁栄が得られると信じられていたからであり、神々に捧げる信心と神々から得られる恩恵は等価交換と考えられていた。打算的信仰とも言えるが、ある意味で合理的な考えだ。

 キリスト教が公認され、やがて国教になっていく過程でもこの等価交換の考えは持続していた。キリスト教が等価交換の考えに転換したから国教になったのであり、多神教の神々よりキリスト教の神の方が確かな恩恵を与えてくれると思われたのだ。

 ところが、ローマ帝国がキリスト教になっていくのは帝国の衰亡期であり、キリスト教が国教になっても国力は衰えるばかりだ。すると、キリスト教は等価交換の考えを棄ててしまう。それがアウグスティヌスの『神国論』である。そして、ローマ帝国は滅亡しキリスト教は発展していく。不思議で皮肉な話だが、それが世の中だ。

 私が不思議に感じたのは(3)(4)には背教者ユリアヌスに関する記述が極端に少ない点だ。(3)も(4)もごく簡単に名前が出てくるだけで、ユリアヌスがキリスト教公認後のローマ帝国で皇帝になり、ローマ古来の神々を復興させキリスト教を批判したことについては全く言及されていない。(1)(2)(5)(6)ではユリアヌスに関して相応のページを割いているのに、キリスト教史に造詣の深い弓削達氏にはユリアヌスは関心外の皇帝だったようだ。

 弓削達氏はローマ帝国のあれやこれやを評価しつつも、総体的には帝国主義的支配の抑圧者と見なし、かなり批判的である。ブリタニアやユダヤなどの事例をもとに民族の「自由と独立」が抑圧された情況がパクス=ローマーナの内実だったと述べている。

 この主張には第二次世界大戦後のパクス=アメリカーナと呼ばれた情況やベトナム戦争が色濃く反映されているように思える。ローマ帝国がアメリカで、ブリタニアやユダヤはベトナムだと述べているように見える。そういう要素がまったくないとは思わないが、その点が強調されすぎているように感じる。当時の「進歩的知識人」の典型だろうか。

 (3)(4)で面白いのは、ローマの風紀の乱れや頽廃を紹介する史料の引用が多い点だ。オウィディウスのエロティックな恋愛指南書『アルス・アマトリア』は(3)にも(4)にも出てくるが、(1)(2)(5)(6)にはオウィディウスは登場しない。著者の意図とは逸れるかもしれないが、エロスあふれる史料引用の多さに本書が執筆された高度成長期の時代風潮を感じた。

◎本村凌二氏らの2冊

 (5)『ギリシアとローマ』(本村凌二、桜井万里子)
 (6)『地中海世界とローマ帝国』(本村凌二)

 (5)はギリシア史を桜井万里子氏、ローマ史を本村凌二氏が分担執筆している。ローマ帝国をテーマにした(6)は本村凌二氏の単著だ。本村凌二氏はローマ史や世界史に関する一般向け新書などの著書も多く、その何冊かを私も読んでいる。

 この2冊は、村川堅太郎氏や弓削達氏のケースのような通史と歴史エッセイという関係にはない。両方とも通史だから2冊続けて読むとやや重複感がある。

 これらの本は通史の概説であると同時に、歴史学者が学問の現状を一般読者に伝える報告書にもなっている。そこに、冷静な学者・教育者の自信と矜恃を感じた。

 (5)でペルシア戦争とペロポネソス戦争を記述するにあたって、桜井万里子氏はこれらの戦争の記録を著作に残した古代ギリシアの歴史家ヘロドトスとトゥキュディデスに言及している。この二人の歴史家の比較論が興味深い。

 トゥキュディデスの執筆姿勢は史料批判が厳密で近代歴史学の史料選択の基準に近いそうだ。それに対してヘロドトスは神話や伝承も多くとりあげていて、ときに奇想天外な物語になることもあるそうだ。そう聞くと、歴史学者はヘロドトスよりはトゥキュディデスを評価するように思えるが、そう簡単な話ではない。桜井万里子氏は次のように述べている。

 「歴史学研究に従事する者として、トゥキュディデスの真摯な思いには敬意を深くするばかりである。同時に、最近では歴史学研究者の誰もが抱えている問題、つまり、いったい歴史的事実とは捉えることが可能なものか、という問題を思い浮かべたとき、トゥキュディデスは少し遠い人になってしまう。(・・・)現在の研究者たちが、ときに史料として伝説や神話をとりあげるのは、場合によっては伝説や神話を手がかりとしたほうが事件の、あるいいは事実の真実によりよく迫ることができる、と考えるからである。そう考える研究者にとっては、伝説や神話を書き残してくれているヘロドトスは貴重な史料提供者ということになろう。」

 最近、『ハーメルンの笛吹き男:伝説とその世界』(阿部謹也)を読んだので、そのへんの事情がなんとなくわかり、歴史研究者の肉声を聞いた気分になった。

 そんな肉声は本村凌二氏が(5)でポエニ戦争を記述した以下のような箇所にも見られる。

 「(・・・)ローマとカルタゴとの全面戦争の火ぶたは切って落とされた。この戦争の責任問題について、ローマ側の防衛論を持ち出す学者もあれば、その物欲や征服欲を指摘する学者もいる。なにしろ外見では、ここをもってローマの地中海制覇の動きが目立ってくる。ローマの「帝国主義」をどう理解するか、ということにもなりかねない。しかし、そうした議論はしばしば問題を究明する側の時代のイデオロギーに左右されがちだとだけ言っておこう。」

 (6)は(5)のローマ史の部分とかなり重なっているが、「興亡の世界史」というシリーズの一巻なので、「興亡」という視点がやや強調されている。冒頭の「世界帝国の原像を求めて」という章で、ローマ帝国に先行する三つの帝国を概説しているのがユニークだ。その三つの帝国とは「強圧の帝国」としてのアッシリア帝国、「寛容の帝国」としてのアケメネス朝ペルシア帝国、「野望の帝国」としてのアレクサンドロス帝国である。そして、ローマ帝国は「強圧の帝国」「寛容の帝国」「野望の帝国」のすべてを備えて興隆したというのである。

 また、ローマ帝国の衰亡に関して本村凌二氏は「老衰」という自身の見方を提示している。同時に、従来からの「没落論」や「衰退論」に対する「変容論」を紹介し、古典古代が新たな世界に変容していったというこの考え方を高く評価しているように見える。もう少し勉強してみたい課題だ。

 なお、私は7年前に(6)を読んでおり、今回は再読だった。7年前に読んだ内容はほとんど頭から消えているので初読と同じだった。この本にはアレクサンドリアでキリスト教徒に虐殺された女性哲学者ヒュパティアへの言及がある。映画『アレクサンドリア』の主人公である。私はこの映画を5年前に観て、その感想をこのブログに書いている。その時は、この映画によって初めてヒュパティアという人物を知ったと思った。しかし、映画を観る2年前に彼女が登場する本を読んでいながら、そのことは頭に残っていなかったのだ。今回の再読でそれに気づいた。

 ここにメモした6冊の本の内容も早晩頭の中から消えていくだろう。悲しいことだが、如何ともしがたい。