「割り肥」or「全面施肥」──ささやかな実験がスタート2015年05月08日

「割り肥」と「全面施肥」のインゲンとトウモロコシ。発芽している方が「割り肥」
 八ヶ岳南麓の山小屋で野菜作りの真似ごとを初めて4年になる。1カ月に1~2回しか行かないから、充分な手入れはできない。収穫できればラッキーと思って始めた手抜き菜園だが、これまでにインゲン、トウモロコシ、キュウリ、ナス、ジャガイモ、ダイコンなどの採りたてをそれなりに賞味してきた。

 周辺に野菜作りの先生はいない。数冊の入門書を頼りに種まき・施肥・間引きなどの作業をしてきた。入門書によって栽培法の説明が異なる箇所もあり、そこらは自分に都合よく解釈して自己流に進めてきた。

 特に「教え」の違いが大きいのは、種まきの際の施肥を「割り肥」にするか「全面施肥」にするかだ。「割り肥」は種をまく畝の下に肥料を埋めておく方法で、「全面施肥」は肥料を土に混ぜ込んで畝を作る方法だ。

 インゲンを例にとると、入門書Aには次のように書いてある。
  ・種まきの2週間前に石灰150~200g/㎡散布して耕す
  ・種まきの1週間前に堆肥2kg/㎡、化成肥料100g/㎡散布して耕す

 これが、入門書Bだと次のようになる。
  ・種まき前に、畝下40㎝に溝を掘って元肥(堆肥2kg/㎡、化成肥料100g/㎡、過リン酸石灰150g/㎡)を投入する。

 前者が「全面施肥」、後者が「割り肥」である。トウモロコシなどの解説にも同様の違いがある。他の入門書も当たってみると「全面施肥」の方が優勢に思える。しかし、私は「割り肥」を採用してきた。作業時間の制約が少ないからだ。「全面施肥」は種まきの1週間前に畑に行かねばならないが、「割り肥」だと種まきと同時作業ですむ。月1~2回しか畑作業をしない手抜き菜園には「割り肥」の方が都合がいい。

 これまで「割り肥」で通してきた私であるが、今年は「全面施肥」も採用することにした。4月下旬と5月上旬に山小屋へ行くことになり、中8日で畑作業ができるからだ。4月下旬に全面施肥すれば5月上旬に種まきができる。実験精神でこのチャンスを活かすことにしたのだ。

 実験対象はインゲンとトウモロコシとした。インゲンはこれまで順調に収穫できてきたが、トウモロコシは年によって実入りのよくないものもあった。両方とも入門書によって施肥方法の「教え」が異なる。

 インゲンもトウモロコシも2畝なので、1畝を「割り肥」、もう1畝は「全面施肥」とした。まず、4月下旬に2畝とも施肥し、「割り肥」の方には同時に種をまいた。そして5月上旬(正確には6日)に「全面施肥」の方に種まきをした。このとき、先に種まきをした「割り肥」の方はすでに発芽していた。

 正しく実験をするには、「割り肥」作業を5月上旬とし、種まきを同時期にそろえるべきだった。施肥方法以外の条件を同じにしなければ実験の意味がない。それが分かっていながら、あえて種まきの時期をずらしたのは、収穫期間が間延びして長期にわたって収穫物を賞味できればいいなという思惑があったからだ。実利第一で実験精神が二の次というところに、私のご都合主義的ないいかげんさがある。

 そもそも、「割り肥」と「全面施肥」の違いには根拠がある筈だ。「割り肥」は肥料を求めて伸びて行く根の力に期待し、「全面施肥」は根が素早く養分を吸収することを期待していると推察できる。ナスは入門書Aも入門書Bも「割り肥」だし、カブは入門書Aも入門書Bも「全面施肥」だ。入門書によって施肥方法の判断が異なる野菜があるのは、生物のいとなみの複雑さによるのだと思う。

 わが実験の厳密性に問題はあるが、夏の収穫時期にどんな結果が出るか楽しみだ。

筒井康隆世界彷徨は至福の読書時間2015年05月13日

『繁栄の昭和』(筒井康隆/文藝春秋)、『世界はゴ冗談』(筒井康隆/新潮社)
 先月末、筒井康隆氏の新たな短篇集『世界はゴ冗談』(新潮社)が刊行された。昨年9月には短篇集『繁栄の昭和』(文藝春秋)が出ている。この2冊で、2011年以降の4年間に発表された19篇の小説と2篇のエッセイが単行本にまとまったことになる。

 私は筒井康隆ファンなので大半の作品は雑誌発表時に読んでいる。しかし、単行本になった時点で収録作品はあらためてすべて味読する。それは、数年おきにしか体験できない至福の読書時間である。

 そんな読書時間を過ごしていると、半世紀前の十代後半の頃、新進作家・筒井康隆の新刊短篇集をむさぼるように読んだ時間がよみがえってくる。あの頃、SF評論家の石川喬司氏が、めざましい活躍を開始した筒井康隆氏を評して「その手に触れるものはすべて黄金になる」と述べたことがある。それを読んだ私は、うまい表現をするものだと同感した。筒井康隆氏の発表する新作のすべてが特別の輝きを放っているように見えていたからだ。

 それから半世紀、筒井康隆氏の作品世界は大きく広がり、多様な変貌を遂げてきた。かつての新進作家はオン年80歳の老大家になり、いまだに新作を発表し続けている。その新作が過去のくり返しではなく進化と変貌を遂げつつ依然として輝き続けているのは驚異である。いや、驚異という言葉では足りない。脅威・驚愕・恐怖・呆然・感嘆が混じった何かだ。

 かつて「その手に触れるものはすべて黄金になる」と評された作家は、いまや怖いものなしの恐ろしさをたたえた大家になり、何をどう書いても独特の世界を紡ぎ出してしまう自由奔放な仙人のような存在になった。読者は名人芸に陶酔するような気分でその恐ろしさを堪能することになる。

 12年前に刊行された『対談 笑いの世界』(朝日新聞社)は、筒井康隆氏と先日亡くなった桂米朝氏との対談をまとめたものだが、その中で筒井康隆氏は次のような発言をしている。

 「ぼくは、歳とったらね、ボケてくるでしょ。そのボケてくるのをネタにするというか、ボケ老人を主人公にして、読者が「これはいったい主人公がボケているのか作者がボケているのか」(笑)わからん。非常にモダンな文学になると思うんですよ(笑)。そのためには本人がもうちょっとボケんといかん(笑)。そういうものを書いてやろうと思う。」

 筒井康隆氏の新作は、この12年前の発言を実践しているようにも見えるが、もちろん、作家がボケてきたわけではない。ボケのふりをして異様な世界を駆け巡りながら現実世界への回路も見え隠れするところが凄い。その現実世界とは、原発・国会・北朝鮮などなどだ。また、『あなたは今この文章を読んでいる:パラフィクションの誕生』(佐々木敦/慶應義塾大学出版会)などの最近の評論家の成果を自らの作品に取り込んでしまうなど、老大家とは思えない旺盛な意欲も健在だ。

 半世紀以上にわたって多彩な光芒を放ち続けてきた筒井康隆世界ではあるが、その近作には寂寥感と終末観がにじみ出ているようにも思われる。