ホース蛇口の教訓……まず自分を疑え2012年09月15日

写真左:不完全な装着で水が噴き出ている。写真右:正しく装着すれば水は漏れない
 山小屋の庭に水道蛇口がある。蛇口をひねってから水が出るまでに多少の時間がかかる。凍結防止のため、栓が深い所にあるからだ。畑の水やりだけでなく、汚れものを洗ったりするのにも重宝している。

 2年ほど前、この水道のためのホースをホームセンターで購入した。どうせなら長い方がいいと思い、巻き取り式の15メートルのホースにした。この長さがあれば駐車場所まで伸ばせるので車の洗車にも使える。

 このホースは、蛇口にビスで固定する受け口が附属していて、それを蛇口に付けておけば、ホースを簡単に着脱できる。ホース側の留め具を受け口に差し込むごく一般的な仕掛けである。

 購入してすぐ、受け口を蛇口に固定し、ホースをカチャッと差し込み、蛇口をひねった。当然のことながら、15メートル先のホースの先端から水が出てきた。しかし、水道の蛇口のホースを差し込んだ箇所の隙間からもかなりの水が勢いよく噴き出てきた。水流の三分の一ほどは差し込み口から噴き出ていて、ホースの先端からは三分の二ほどの水しか出ていないようである。かなりのロスだが、使えなくはない。ただし、水道の蛇口を開閉するときにかなり注意しないと水を浴びてしまう。夏はいいが冬は大変だ。

 そんなロスのあるホースではあるが、この2年間使い続けてきた。とは言っても、欠陥ホースだとの認識はあり、ホースなしで済ませることも多かった。畑の水やりもしばしばジョロを使った。車の洗車はほとんどしなかった。砂利道ですぐに車が汚れるので洗車は無意味だと悟ったからだ。

 そして先日、水まきをしようと思ってホースを水道に装着するとき、ふと気になり、留め具をさらに深く押し込んでみると、留め具が受け口に密着し、隙間がなくなった。カチャッと差し込むだけでは駄目で、さらにもう一度カチャッと差し込まねばならなかったのだ。カチャッ(左の写真)ではなくカチャッカチャッ(右の写真)だったのだ。

 カチャッカチャッで装着して蛇口をひねると、差し込み箇所から水が噴き出すことはなく、100パーセントの水がホースの先端から勢いよく噴き出した。ノズルの調整でシャワーから直線まで気持ちよく水流を変えることもできる。
 私はこの2年間、何と阿呆なことをしていたのかと思った。ほんのちょっとしたことに気付かなかったため、水をロスし、しばしば水を浴び、ジョロで畑を何往復もしたりしてきたのだ。

 自分の阿呆さにあきれつつ、何故気付かなかったを反省してみた。反省点は二つある。

(1) 場当たり的対処だけであきらめた
  最初、差し込み箇所の隙間から水が噴き出てきたとき、私は水びたしになりながら、留め具をさらに深く差し込もうとしたが水流で押し戻された。それで、この隙間は仕方ないと思い込んでしまった。水を出したまま押し込もうとする行為の難点に気付かず、水をいったん止めてからさらに深く差し込もうという当然の発想に至らなかった。大袈裟に言えば、パニックによって冷静さを失い、短慮で結論を出してしまった。

(2) 道具を信用していなかった
  購入した15メートルのホースは比較的安い商品だった。ホームセンターにはもっと高価なホースもあったが、私は安い方を選んだ。差し込み口から水が噴き出たとき、安物だから隙間ができるのは仕方ないと思い込んでしまった。これは、道具に対してはなはだ失礼な態度だった。道具を疑う前に使い手である自分自身を疑うべきであった。

 考えてみれば、私の身の回りにはこのホースのような道具がまだまだたくさんありそうだ。携帯電話やIPODなどの多様な機能を使いこなせていないことは自覚している。これらは、自分に必要な最小限の使い方ができればいい。しかし、本来は便利に出来ているであろう道具を間違って使い、不便をガマンしたり、その道具を放り出してしまっているケースも多いかもしれない。
 道具に接するときは、まずは道具を信用し、使い手である自分を疑うことを心掛けねばと思う。

高木仁三郎と小林よしのりの脱原発論2012年09月24日

『高木仁三郎セレクション』(佐高信・中里英章編/岩波現代文庫)、『ゴーマニズム宣言SPECIAL 脱原発論』(小林よしのり/小学館)
 早いもので、脱原発の論客・高木仁三郎氏が大腸癌で亡くなってから12年経った。2000年12月に日比谷公会堂で開催された「高木さんを偲ぶ会」には私も足を運んだ。2階席から会場を見渡し、参加者の多さに驚いた。
 私のような物見高いミーハーも混ざっていただろうが、高木氏の活動に関心をもつ人が多いことをあらためて認識した。
 あの頃、私は明確に「反原発」という考えではなかった。電力は社会に不可欠なものであり、原発はないに越したことはないが必要悪のようなものだろう、という中途半端な考えだった。

 昨年の3.11によって自分の考えの甘さを思い知り、考えが変わった。今では、原発を廃止すべきだと考えている。われながら軽薄で付和雷同と思うが仕方ない。
 そんな私だが、3.11以前から高木氏の著作はいくつか読んでいた。3.11以降、何冊かを読み返した。現金なもので、3.11以前と以降で読み方が変わってくる。昔は文明論的に読み、今は現実的問題の所在を確認するために読んでいる……そんな違いだろうか。

 高木氏の著作は『高木仁三郎著作集』(全12巻、七つ森書館)にまとめられているが、その膨大な業績をコンパクトにまとめた本が出た。 

 『高木仁三郎セレクション』(佐高信・中里英章編/岩波現代文庫)

 初期論文から最晩年の手記までを一望できる一冊で、これを読んだだけでも、高木氏が考えていたことの輪郭をつかめる。そして、高木氏が3.11のフクシマを予見し警告していたこともよくわかる。

 少壮科学者としてスタートした高木氏は、31歳で都立大学助教授に就任するが35歳で辞職し、「在野の科学者」という特異な立場での活動を続ける。そして62歳で大腸癌で亡くなる。

 本書で興味深く感じたのは、大学を辞めるときに巻き起こった大学人による強烈な慰留の件りだ。高木氏が期待される優秀な人材だったということもあるだろうが、アカデミズムというムラ社会の家族意識の強さが伝わってくる印象的な逸話だ。

 本書収録の最も古い文章は、『朝日ジャーナル 1970年4月26日号』掲載の『現代科学の超克をめざして --- 新しく科学を学ぶ諸君へ』という論文だ。
 この文章を読んでいて、40年以上前の学生時代に『朝日ジャーナル』でこれを読んだことを思い出した。かすかな記憶が甦ってきて、なつかしく感じた。「<近代>の超克」「人間としてのトータリティの復権」などという言葉が出てくる。いまの私がこれらを「生硬ながら初々しい」などと評するのは傲慢だろう。その後の高木氏の思想が予見でき、現在においてもなお切実であろう課題を提示しようとした論文である。

 本書には、癌に侵されて余命いくばくもないときの手記も掲載されていて、身につまされる。この手記に明示されているわけではないが、高木氏の生涯を見つめると、高木氏の発癌は若い研究者時代に多量の放射線を浴びたせいではないかと思われてくる。身を挺して原発の危険性を表現したようにも思えるし、キュリー夫人も連想する。

 『高木仁三郎セレクション』読了後、続いて『ゴーマニズム宣言SPECIAL 脱原発論』(小林よしのり/小学館)を一気に読んだ。

 久々に『ゴーマニズム宣言』を読んだ。本書の小林よしのり氏は「脱原発」を熱く主張し、原発推進の自称保守派を例によって激しく非難している。また、原発に対して中庸という立場はないと言い切っている。

 小林よしのり氏はわかりやすさとわかりにくさを兼ね備えた不思議な人だが、本書の主張は明快で、私には概ね納得できる内容だ。本書は原発の脅威を誇張していると感じる人がいるかもしれないが、私はそうは思わない。小林氏は原発の危険性の本質を把握しているだけのだ。

 例によって『ゴーマニズム宣言SPECIAL 脱原発論』にはいろいろな論客が登場する。この本を『高木仁三郎セレクション』読了直後に読んだ動機の一つは、高木仁三郎氏が出てくるかなと思ったからだ。しかし、出てこなかった。3.11の時点で故人だったのだから当然かもしれない。
 だが、高木氏が予見し、敷衍した考えは本書にも反映さていると感じた。原発の危険性の本質を把握しているからだ。

『カラマーゾフの妹』に感謝2012年09月26日

『カラマーゾフの兄弟(1)~(5)』(亀山郁夫/光文社古典新訳文庫)、『ドストエフスキー:謎とちから』(亀山郁夫/文春新書)、『『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する』(亀山郁夫/光文社新書)、『ドストエフスキー』(江川卓/岩波新書)、『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』(江川卓/新潮選書)
 45年ぶりに『カラマーゾフの兄弟』を再読した。いずれ読み返したいと思ってはいたが、それを急ぐ気持ちはなかった。重厚な小説なので、じっくり読み返すべきだと考え、読みたい気分が高まるのをのんびりと待って、落ち着いた環境の中でゆっくり取り組めばいいと思っていた。

 しかし、人生は予定外の事象の積み重ねだ。今回、むら気によって慌ただしく読み返してしまった。江戸川乱歩賞受賞のミステリー『カラマーゾフの妹』を読んだからだ。このミステリーの読後感は先日のブログに書いた。読んだ直後は、『カラマーゾフの兄弟』を読み返すのはまだまだ先でいいと思っていた。あくまで本編とは別物のエンターテインメント小説であり、変格ミステリーとして堪能すればそれでいいと自足していた。しかし、少し時間が経つと、その気分が変わったのだ。

◎注意! 以下の文章には『カラマーゾフの妹』のネタバレあり。

 『カラマーゾフの妹』をこれから読もうと思っている方は以下を読まない方がいいでしょう。結末をバラしています。

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 『カラマーゾフの妹』の冒頭の「著者より」には次のように書かれている。

 「(…)しかし犯人はドミートリーでもなければスメルジャコフでもない。我が前任者はその手掛かりや犯人の内面的動機について、実は全ての手がかりを書きこんでいるのである。」

 ここで言う「前任者」はドストエフスキーを指している。後任者である高野史緒氏は、前任者の著作を検討することによって真犯人を見つけたというのだ。
 結論をバラしてしまえば、後任者はフョードル・カラマーゾフ殺しの犯人をアリョーシャだとしている。それだけではない。ゾシマ長老も自然死ではなくアリョーシャの手にかかって殺されたとしている。また、後任者が著した13年後の物語ではゴシップ屋ジャーナリストのラキーチン(13年前の神学生)や裁判官のネリュードフ(13年前の予審判事)が殺害されるが、その犯人もアリョーシである。
 非常に大胆な説だ。「意外な犯人」というミステリーの王道をふまえている。
 後任者は「13年前の事件の解決編」を開陳しているだけではない。前任者が構想したと推測される皇帝暗殺という大陰謀も展開している。私はこのミステリーを十分に楽しむことができ、あり得べき一つの説だとは思った。
 しかし、気になったのは「(前任者が)全ての手がかりを書きこんでいる」という一節である。本当にそうなら、牽強付会であっても後任者の著作は単なるミステリーを超えて、ドストエフスキーの新たな「読み」を提示したことになるかもしれない。この気がかりが私を『カラマーゾフの兄弟』の再読に誘った。「手がかり」が本当に存在するのかを確かめたくなったのだ。

 私が45年前に読んだ『カラマーゾフの兄弟』は米川正夫訳(河出書房の「グリーン版世界文学全集」)だった。その本は今も手元にあるが、再読は亀山郁夫訳(光文社古典新訳文庫)にした。数年前にベストセラーになった話題の新訳だ。当時、いずれ読むつもりで購入しておいた。
 光文社古典新訳文庫版の5冊に続いて次のカラマーゾフ関連本も読んだ。

(1)『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』(江川卓/新潮選書)
(2)『ドストエフスキー』(江川卓/岩波新書)
(3)『『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する』(亀山郁夫/光文社新書)
(4)『ドストエフスキー:謎とちから』(亀山郁夫/文春新書)

 この関連本4冊は昔読んでいるが、内容の大半を失念しているので再読した。(3)は、書名が示すとおり「幻の第二部」の内容を推測する内容だ。他の本も扱いの違いはあるものの「幻の第二部」に言及している。「幻の第二部」の一例とも言える『カラマーゾフの妹』の検討に役立つかもしれないと考えて関連本を再読したのだ(高野氏がこれらを始め多くの文献を検討しているのは間違いない)。

 『カラマーゾフの兄弟』と関連本を再読して、アリョーシャを犯人とする手がかりは得られたか。残念ながら、私には明確な手がかりを見いだすことができなかった。アリョーシャが一筋縄ではつかめきれない多層的な「怪しい」人物である手がかりはいくつかあるが、父殺しの実行犯と見る証拠は発見できなかった。

 イワンもアリョーシャもスメルジャコフに操られていた……それは、彼らの幼少期から始まっていたという後任者の説はなかなか魅力的である。スメルジャコフにウエイトを置いた読みはアリだろう。しかし、そこからアリョーシャ真犯人説を組みたてるのは、やはり荒唐無稽と感じられる。荒唐無稽の魅力があるのは確かだが。

 後任者はイワンを多重人格者としている。現代の言葉では外離性同一性障害者だ。多重人格について当時から研究されていたこともうまく反映されている。イワン=多重人格説こ関しては第一部にも手がかりが残されているように見えるので納得できる。
 後任者はイワンの幼少期のトラウマを発見していて、これがポイントの一つになっている。このトラウマが多重人格を発生させたとするなら、イワンと共に幼少期を過ごしたアリョーシャも多重人格者にするというテもあったかもしれない。その方が真犯人にしやすい。ただし、後任者が暴き出したアリョーシャの特異な心理の方が小説としては面白い。

 前任者が構想していた「幻の第二部」では、13年後のアリョーシャが皇帝暗殺にからんでくると広く信じられている。江川氏も亀山氏も第二部ではアリョーシャが皇帝暗殺にからんでくるはずだと見ている。亀山氏は『カラマーゾフの兄弟』の一部、二部全体を「父殺し」の物語と見ることにこだわり、その「父」には兄弟の実父フョードルだけでなく、象徴的な意味でゾシマ長老と皇帝も含めている。
 『カラマーゾフの兄弟』全体を3人の父(ゾシマ長老、実父、皇帝)を殺す物語とし、その父殺しの犯人が主役だとするなら、アリョーシャがこの3人を殺したとする後任者の説も成り立ち得る。全体がすっきりするのは確かだ。すっきりするだけかもしれないが。

 いずれにしても『カラマーゾフの妹』のおかげで、思いもよらぬ荒唐無稽なアプローチで『カラマーゾフの兄弟』を再読できたのは楽しい体験だった。45年ぶりに再読した私は、さらに再読してみたいという気分になった。長大でヘンテコな小説だが退屈しない物語だ。荒唐無稽説をもっと検討したいという考えもなくはないが、それを超えて刺激的な読書体験が期待できるからだ。

 今回読んだ亀山郁夫訳は確かに読みやすいが、コクがないような気もする。各巻末の「読書ガイド」も、役立つの反面、教科書風の興ざめを誘う。最初に米川正夫訳でドストエフスキーを刷りこまれているせいか、エキセントリックで濃いのがドストエフスキーの持ち味のように思えるのだ。次は江川卓訳か原卓也訳で読んで「違い」を楽しむことができればとも思う。
 いつになるかわからないが、読みたい気分が高まるのをのんびりと待って、今度こそは落ち着いた環境の中でゆっくり取り組みたいものだ。

キツツキに感謝?2012年09月30日

上:キツツキがあけた穴  下:とりあえず板で塞いだ
 八ヶ岳山麓の山小屋に2週間ぶりに行った。前回間引いた大根が直径5センチぐらいに成長していた。大根栽培は初体験で、その成長力に感心する。

 大根の成長はめでたいが、予期せぬ事態が起こっていた。ベランダの階段に木くずのようなものが散らばっている。どこかから飛んできたのだろうと、最初は気にならなかった。しかし、どうも散らばり方が不自然だ。周辺を見回すと、階段のはるか上方の屋根裏に穴があいていた。直径10センチほどのかなり大きい穴だ。キツツキにやられたようだ。軒下に蜂が巣を作ったり郵便箱が小鳥の巣になったことはあるが、キツツキに穴をあけられたのは初めてだ。

 私がこの山小屋を中古で入手したのは3年前で、以前の所有者はここに10年以上居住していた。売買時に、ログハウスの状態や注意事項について細かな説明を受けたが、キツツキの被害は聞いていなかった。おそらく、いままではなかったのだと思う。

 これまで、キツツキが樹木をつつく音はしばしば耳にしていた。自然の中にいることを感じさせる長閑な音で、山小屋暮らしの風情として心地良く聞いていた。キツツキが樹木をつつくのは虫を採っているのだと思っていたが、調べてみると、違うようだ。求愛や巣作りのためにコンコンコンコンやっているらしい。そして、人が住んでいない家屋が被害にあうことも多いことがわかった。私が入手するまでは、この山小屋に人が居住していたので、キツツキに穴をあけられることもなかったのだろう。

 それにしても立派な穴である。どのくらいの時間をかけて穿ったのだろうか。被害者ながら感心したくなるが、このまま放っておくわけにもいかない。あり合わせの板で穴を塞ぐことにした。かなり高い位置なので、2階のベランダに脚立を置いて、その一番上に立って、やっと手が届く。少々危険な作業になったが、とりあえず穴の上に板を打ち付けることはできた。

 あまり時間がなかったので、応急作業を終えてすぐに東京に戻って来た。今後、どうなるかは分からない。ネットで調べると、キツツキ除けのフクロウの置物なるものが売られている。そんなものは役立たないという意見も散見する。穴を開けられるたびに危険な作業で穴を塞ぐのは大変だ。脚立が届かない場所もたくさんある。山小屋に常駐すればいいのかもしれないが、そういうわけにも行かない。現在のところ、有効な対策は得られていない。

 キツツキのおかげで、難題が一つ増えた。やっかいなことではあるが、これは、怠惰に流れやすい私の日常に対するキツツキの贈り物かもしれない。そう思って、キツツキ対策に取り組むことにことにしよう。当面は、様子見をするだけだが。