『椿説弓張月』の馬琴は司馬遼太郎+小松左京か?2012年06月16日

 滝沢馬琴の『椿説弓張月』を岩波の日本古典文學体系版の上下2巻で読了した。有名な北斎の挿絵もすべて転載されている。
 この本を古書店で購入したのは約40年前の大学生の頃だ。出版されたのは、さらにその10年ほど前で、上巻が昭和33年(1958年)8月、下巻が昭和37年(1962年)1月だ。
 私は理系だったので高校生の時には古文Ⅰだけで古文Ⅱはやってなく、日本の古典を原文で読もうという趣味も野心ももっていない。にもかかわらず、大学時代に日本古典文學体系の『椿説弓張月(上・下)』を購入したのは、同じ理学部の同級生から「『椿説弓張月』は源為朝が琉球に行くスケールの大きい話でスゴイ」と聞かされていていたからだ。沖縄返還以前の当時、私にとって琉球は遠い海外で、興味をひかれた。
 日本古典文學体系の『椿説弓張月』を古書店で見つけたとき、近世の古典なら何とかなるだろうと思い、そのうち読もうという気分で購入した。

 そのまま約40年の時間が流れた。本棚の奥に眠っていた本書を読もうと思ったのは、第1には歌舞伎の『椿説弓張月』を観たからである。三島由紀夫の台本や口語訳の簡略本を読んでも、いまいち物語の醍醐味に触れたという気分になれなかった。で、いまを逃せば原文を読もうという気になることはもうないだろうと考えた。
 第2には、今月末に沖縄旅行をする予定があり、どうせなら沖縄に行く前に『椿説弓張月』を読了しておこうと考えたのだ。

 そんなわけで、やや気合いを入れて日本古典文學体系の2巻に挑んだが、読み始めると意外に読みやすく、普通のエンタテインメント小説を読むのと似た気分で面白く読み進めることができた。こんなに読みやすいなら、もっと早く読めばよかっと思った。
 読了しての率直な印象は「ヘンテコなもの読んでしまったなあ」という不思議な感慨だ。小学生のとき、子供向きの『八犬伝』を夢中になって読みふけり、「なんて面白い物語だろう」と感動した記憶があるが、60歳を過ぎて読んだ『椿説弓張月』の読後感は、当然のことながら小学生が『八犬伝』にときめいた読後感とは異なる。

 『椿説弓張月』は表題の頭に「鎮西八郎為朝外伝」とある史伝だが、かなり荒唐無稽な物語である。助けた狼が為朝に献身するというお伽話のような設定は序の口で、妖怪や神仙が普通に登場して、あわやという時に神仙に救われたり、死者の魂が動物や別人に乗り移ることもあれば、死者が甦ったりもする。オカルト現象は日常茶飯事だ。と言っても怪奇小説ではなく、あくまで史伝の体裁であり、時には史実や琉球の地誌に関する馬琴の蘊蓄が開陳される箇所もある。
 この荒唐無稽な物語を現代文にリライトすると空々しさが際立ってしまい、むしろ読みにくくなりそうに思える。荒唐無稽を違和感なく楽しむには、ときに講談調の名調子も混じる原文が適しているのだと気付いた。

 怪奇現象だけが『椿説弓張月』の荒唐無稽ではない。源為朝の活躍する舞台も広い。スタートは京都だが、その後すぐに、九州や琉球に赴き、保元の乱で伊豆大島に流されてからは、三宅島からさらに南の八丈島にまで行ってしまう。その後、四国や九州を経て再び琉球に舞台は移る。
 江戸時代の読者にとっては、現代のわれわれがハリウッドのアクション映画に感ずるのに似たワクワクする壮大な展開だったと思う。世界中の主要都市や観光地を股にかけて活躍するハリウッドの主人公以上に源為朝の活躍舞台の方が異世界的だったかもしれない。

 この物語では琉球に関してかなり詳しい解説が開陳されている。馬琴自身は四国にも行ったことがなく、当然、現地取材などはしていない。もっぱら文献によって歴史や地誌に関するかなりの知識を得ていたそうだ。当時の読者にとっては、琉球の地理や言語の解説だけでも興味深かったのではなかろうか。

 原文で読んだので、多少は江戸時代の読者の気分になれたような気もするが、当時の人々がこの物語をどのように楽しんだかはわからない。よく売れたそうだからエンタテインメントとして読まれたのは間違いないだろう。一般に解説される勧善懲悪などの徳目はどの程度の魅力だったのだろうか。オカルト的な箇所と史伝との折り合いはどう受け入れられていたのだろうか。

 乱暴な見立てだが、『椿説弓張月』の馬琴は、現代で言えば司馬遼太郎と小松左京を混合したような存在だったかもしれない。
 歴史物語の合間に作者の独白が混じるところや、現代のサラリーマン層・管理職層に似た武士たちにも読まれたという点に司馬遼太郎に通じるものを感じる。
 荒唐無稽な部分も、現代風に見れば架空歴史小説、SF歴史小説のように読むこともできる。風呂敷を広げて真面目にホラ話を語りながらフィクションを超えて地理や哲学にまで言及するのは小松左京に似ていなくもない。
 そんな見立てをすると、200年前の江戸の読者にかすかな同時代意識を感じることもできそうだ。

 ところで、『椿説弓張月』に琉球の人々が接したのは何時ごろなのだろうか。明治維新の琉球処分以前に、この江戸のベストセラーの内容が琉球に伝わることはあったのだろうか。琉球王朝の始祖が清和源氏につながるという物語は馬琴の創作ではなく、すでに俗説としたは存在していたらしいので、そんなことが気になった。

ピースボートの広告からピースボートが消えた?2012年06月19日

2012年6月19日の朝日新聞朝刊の広告
 本日(2012年6月19日)の朝日新聞朝刊をパラパラとめくっていて「アレッ」と思った。ピースボートの新聞広告から「ピースボート」という見出しが消えているのだ。
 私は朝日と日経を読んでいるが、ピースボートの広告はよく目にする。新聞は今や中高年のメディアになりつつあり、新聞広告の営業はタイヘンらしいが、定年退職した中高年を主なターゲットとするピースボートにとって、新聞は恰好の媒体のようだ。

 私が乗船した4年前には「地球一周」と謳っていたが、少し以前から新聞広告の見出しが「世界一周」になったのは気付いていた。一般のクルーズと同じ表現の方が売りやすいと考えたのだろうが、「ピースボート」の見出しがない広告は初めて見た。以前から変わっているのを見落としていたのかもしれないが。

 新聞広告をよくよく見ると、小さい字で「第80回ピースボート地球一周の旅」という表記があった。正式名称は昔のままのようだ。
 とすると、集客のために「地球一周」ではなく「世界一周クルーズ」と謳い、「ピースボート」の文字を目立たなくしているようだ。「ピースボートとは何か」などという面倒なことに無関心な一般乗客を多く集めたいと考えているのだろう。

 企業の営業方針や集客活動にクレームをつけるつもりはないが、「参加者」ではなく「乗客」を集めるつもりなら、それなりの最低限度のサービスの提供には努力してほしいものだ。
 そうでなければ、スカイマークのように「接客業ではありません」的な居直り宣言文でも配布する方が無用なトラブルを招かないだろう。

 そんなことを思ったのは、私が乗船した後も私たちが体験したのと同様のトラブルを繰り返しているからだ。
 私のブログにも、最新の乗船者の方がコメントを寄せているし、62回と75回に乗船した人の報告もある。また62回の乗船者が中心に提訴した裁判も継続中だ。

『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』は追憶を刺激する2012年06月22日

『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』(監督:若松孝二)
 若松孝二監督の新作映画『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』をテアトル新宿で観た。ウィークデイの昼間だが、そこそこに客が入っていた。私と似た中高年の男女だけでなく、若い観客も目立った。若い頃のさまざまなコトが想起される映画を、若い頃によく通った映画館で観るのも何かの縁のように思えた。

 三島由紀夫が盾の会を結成する頃から自決するまでの日々を、淡々とも言える抑揚で描いた映画だが、ドキュメンタリー的ではない。際限なく繰り返される「三島由紀夫はなぜ死んだのか」という問題と同時に「熱かったあの1960年代とは何だったのか」を考える材料をゴロンと提示した映画だ。

 この映画に描かれた時代は私の青春時代に重なるから、アレやコレやの映像から生々しい昔が甦ってくる。三島由紀夫自決の日の記憶はかなり鮮明だが、あの頃の日々の記憶をたどり始めると収拾がつかなくなる恐れがある。ヤワな追憶を綴るのはやめておく。

 映画は浅沼稲次郎刺殺犯の山口二矢が拘置所で自殺するシーンから始まる。1960年10月のテロ事件である。意表をつく冒頭だ。三島由紀夫の自決は1970年11月だから、1960年代の10年間を舞台にした映画とも言える。私にとっては12歳から22歳までの10年間だ。60余年の人生の中で最も長く感じられる10年だったと思える。

 小学6年のときに体験した浅沼稲次郎刺殺の日の記憶は、三島由紀夫自決の日と同じように鮮明に残っている。下校後、一人でテレビの六大学野球中継を観ていると、浅沼委員長が刺されたという臨時ニュースが流れた。それから時をおかず、浅沼委員長が死亡しましたというニュースになった。
 小学6年の私は衝撃を受けた。浅沼稲次郎という政治家に好感をいだいていたし、それまで、人の死に接するという体験がほとんどなかったので衝撃は大きかった。
 小学6年の私は、浅沼委員長刺殺の大見出しの新聞を保管した(今でも実家の押し入れに残っているはずだ)。

 その時から私は、大見出しの重大ニュースの新聞を保管する趣味を持った。しかし、大学生になると、新聞への関心が褪せてしまい、保管しなくなった。1960年代の10年間はそんな歳月でもあった。

 だから、三島由紀夫自決の日の新聞は保管していない。その日のテレビニュースもほとんど見ていない。友人から「三島由紀夫が自衛隊に乱入して切腹」と聞いて大きな衝撃を受けたのは確かだが、ナマイキにも「新聞やテレビで事件の真実がわかるはずがない」という思いに駆られていたのだと思う。

 それでも印象に残っているのは、バルコニーで演説している三島由紀夫が自衛隊員たちにヤジられているシーンだ。帰宅した深夜のテレビ画面に流れていた。三島由紀夫に共感する気持はまったくなかったが、「いくら気張っても、所詮は蒙昧な自衛隊員にヤジられるだけだなあ」という同情心のようなイヤ気分が残った。

 『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』で最も印象に残ったのも、ヤジの中での三島由紀夫の最後の演説シーンだった。壮絶な割腹に至るための必須のセレモニーが、観念と現実の乖離の残酷さを見せつける場になっていた。
 演説の内容は独りよがりで説得力がない。そして、聴衆は最低だ。最期の晴れ舞台にしては、気の毒なほどミジメなシーンである。アナクロニズム的なトンチンカンが露呈してしまっている。

 しかし、ついには予定通りの切腹という自己表現を遂げ、三島由紀夫は後世に残る大きな謎になってしまった。文芸評論家やノーベル賞選考委員(そんな委員がいるかどうか知らないが)が追いかけて捉えることができない所へ転移してしまった。
 今になって、これは正解だったのだ、と思えてくる。21世紀になっても映画化される忘れ得ぬ「作家」になったしまったのだから。

 この映画で不思議な存在感を出しているのが瑤子夫人役の寺島しのぶだ。
 自衛隊に入隊した三島由紀夫が訓練するシーンは富士の裾野である。往年の若松監督のピンク映画を連想させる荒涼とした場所だ。そこへ、どこからともなく瑤子夫人が登場する。シュールな光景である。
 事件後のラストシーンにも瑤子夫人が現れる。三島由紀夫の妻というよりは、異界から男たちを眺めている超越者のように見える。

 現実の三島夫人がどんな人だったかは知らないが、夫人の反対で緒方拳主演の『MISHIMA』が日本で上映できなかったという話を聞いたことある。すでに夫人は故人なので今回の映画が上映できたのだろうが、存命でもOKしたのでは…などと妄想した。