『ゾウの時間ネズミの時間』と『生物学的文明論』をのんびり読んだ ― 2012年01月21日
◎沖縄で読んでおけばよかった
本川達雄氏の『ゾウの時間ネズミの時間』(中公新書)は出版直後の1992年に購入し、いつか読もうと思いつつズルズルと20年近く経ってしまった。昨年の夏、新潮新書で同じ著者の『生物学的文明論』が出版されたので、これをきっかけに新書2冊まとめて読むのも一興と思って購入した。そして、半年近く経って年末になってしまった。
この年末年始は沖縄で1週間ほど過ごした。そのとき、沖縄でのんびり読書するには適当かなと思い、この2冊を持参した。しかし、のんびりしすぎて、飛行機の中で少し読んだだけだった。結局、2冊を読了したのは帰京してからだ。
2冊とも読みにくい本ではない。かなり面白い本だ。なのに、購入から読了までに時間がかかってしまった。理由はよくわからない。私はいいかげんな人間なので、こういうことは珍しくはない。当方の興味のサイクルと読書気分のタイミングがなかなか合わなかっただけかもしれない。
この2冊、生物(主に動物)はサイズによって異なる時間観をもっているという考察を中心に生物の仕組みや進化などを語っている。私にとっては随所で「そうだったのか」という発見体験が得られる興味深い本だった。
『ゾウの時間ネズミの時間』はやや教科書的で、『生物学的文明論』は肩の力の抜けた現代文明批判エッセイ風である。
で、『ゾウの時間ネズミの時間』と『生物学的文明論』を読み終えて、まず感じたのは次の2点だった。
(1) ガツガツと読むのではなく、今回のようにのんびり読書するのは、実は「正解」だ。
(2) この2冊は、やはり沖縄滞在中に読むべきであった。
この2点、矛盾しているだろうか。
『生物学的文明論』は、生物学者の視点から、省エネでゆったりした時間を過ごすスローライフを提唱している。「自然に還れ」に近い常識的な教訓のようにも見えそうだが、その提言は長年にわたって生物のもつ時間感覚を研究してきた著者の洞察に裏打ちされている。
時間に追われるように読書をするのは不可で、私の年末年始のように一見怠惰に見える時間の過ごし方が理にかなっているのかもしれない。そのような気分にさせてくれるのは本書の利点だ。
また、本書を繙くまで知らなかったのだが、著者の本川達雄氏は私と同い年の団塊世代で、研究者としてのバックボーンには沖縄体験があった(『生物学的文明論』は団塊世代への提言とも読める)。だから、本書は沖縄で読むのに適していたのだ。
著者は東京工業大学教授になる以前の30代に琉球大学助教授だった。沖縄に赴任し、沖縄では時間がゆっくりと流れると感じたのが動物の時間について考えるきっかけになったそうだ。
本書では著者の沖縄体験が随所で語られている。著者が沖縄で研究生活(ナマコの研究)をしたのは、瀬底島の臨海実験所である。
現在、瀬底島は本島と瀬底大橋で結ばれている。私は年末、レンタカーで瀬底大橋の近くを走った。立派な橋だった。カーナビの地図を見て、この島には研究施設らしきもの以外は何もなさそうだと思い、橋を渡らなかった。
事前に『生物学的文明論』を読んでいれば、著者が泡盛を汲む漁師やナマコたちに出会った浜辺を見るために橋を渡っただろうと思う。残念なことをした。
また、事前に著者の沖縄体験を知っていれば、著者の時間観を追体験するような気分に浸って、泡盛でのんびり過ごす時間がより豊かになったのではと悔やまれる。
◎車輪動物というヘンテコなもの
『ゾウの時間ネズミの時間』第6章のタイトルは「なぜ車輪動物がいないか」である。車輪動物という言葉が学問の世界に存在することに少し驚いた。SFファンにとっては車輪動物と言えば石原藤夫氏のデビュー作『ハイウェイ惑星』だ。
『ハイウェイ惑星』は『SFマガジン』の1965年8月号に掲載された(『宇宙塵』からの転載)。当時、高校生だった私はこの短編をリアルタイムで読んで、強いインパクトを受け、大いに感心した。高機能のハイウェイだけが残された惑星という特異な環境で車輪動物が登場する鮮やかな進化論SFだった。
私と同い年の本川氏が『ハイウェイ惑星』を読んでいるかかどうかは不明だが、車輪動物に言及した『ゾウの時間ネズミの時間』で、20年以上前に発表された『ハイウェイ惑星』に触れていないのは少しモノ足りなかった。
本川氏が考察している「車輪動物が存在しない理由」は明快で説得的だが、石原藤夫氏が考案した車輪動物は、そのハードルを見事にクリアしているように私には思える。
それにしても、車輪動物などというヘンテコなものに教科書的な新書の一章を割くところに著者のユーニークさを感じる。
著者の考察は「生物の幾何学」とも言える分野をベースに展開されていて、その考察を追うのは、数学パズルに挑む頭の体操のような刺激がある。車輪動物なども、その頭の体操の延長だと思う。
『ゾウの時間ネズミの時間』と『生物学的文明論』を読んで、動物の仕組みの合理的な巧妙さに感心すると同時に、わが身を含めた動物がもつ不思議の奥深さを、あらためて教えられた。
本川達雄氏の『ゾウの時間ネズミの時間』(中公新書)は出版直後の1992年に購入し、いつか読もうと思いつつズルズルと20年近く経ってしまった。昨年の夏、新潮新書で同じ著者の『生物学的文明論』が出版されたので、これをきっかけに新書2冊まとめて読むのも一興と思って購入した。そして、半年近く経って年末になってしまった。
この年末年始は沖縄で1週間ほど過ごした。そのとき、沖縄でのんびり読書するには適当かなと思い、この2冊を持参した。しかし、のんびりしすぎて、飛行機の中で少し読んだだけだった。結局、2冊を読了したのは帰京してからだ。
2冊とも読みにくい本ではない。かなり面白い本だ。なのに、購入から読了までに時間がかかってしまった。理由はよくわからない。私はいいかげんな人間なので、こういうことは珍しくはない。当方の興味のサイクルと読書気分のタイミングがなかなか合わなかっただけかもしれない。
この2冊、生物(主に動物)はサイズによって異なる時間観をもっているという考察を中心に生物の仕組みや進化などを語っている。私にとっては随所で「そうだったのか」という発見体験が得られる興味深い本だった。
『ゾウの時間ネズミの時間』はやや教科書的で、『生物学的文明論』は肩の力の抜けた現代文明批判エッセイ風である。
で、『ゾウの時間ネズミの時間』と『生物学的文明論』を読み終えて、まず感じたのは次の2点だった。
(1) ガツガツと読むのではなく、今回のようにのんびり読書するのは、実は「正解」だ。
(2) この2冊は、やはり沖縄滞在中に読むべきであった。
この2点、矛盾しているだろうか。
『生物学的文明論』は、生物学者の視点から、省エネでゆったりした時間を過ごすスローライフを提唱している。「自然に還れ」に近い常識的な教訓のようにも見えそうだが、その提言は長年にわたって生物のもつ時間感覚を研究してきた著者の洞察に裏打ちされている。
時間に追われるように読書をするのは不可で、私の年末年始のように一見怠惰に見える時間の過ごし方が理にかなっているのかもしれない。そのような気分にさせてくれるのは本書の利点だ。
また、本書を繙くまで知らなかったのだが、著者の本川達雄氏は私と同い年の団塊世代で、研究者としてのバックボーンには沖縄体験があった(『生物学的文明論』は団塊世代への提言とも読める)。だから、本書は沖縄で読むのに適していたのだ。
著者は東京工業大学教授になる以前の30代に琉球大学助教授だった。沖縄に赴任し、沖縄では時間がゆっくりと流れると感じたのが動物の時間について考えるきっかけになったそうだ。
本書では著者の沖縄体験が随所で語られている。著者が沖縄で研究生活(ナマコの研究)をしたのは、瀬底島の臨海実験所である。
現在、瀬底島は本島と瀬底大橋で結ばれている。私は年末、レンタカーで瀬底大橋の近くを走った。立派な橋だった。カーナビの地図を見て、この島には研究施設らしきもの以外は何もなさそうだと思い、橋を渡らなかった。
事前に『生物学的文明論』を読んでいれば、著者が泡盛を汲む漁師やナマコたちに出会った浜辺を見るために橋を渡っただろうと思う。残念なことをした。
また、事前に著者の沖縄体験を知っていれば、著者の時間観を追体験するような気分に浸って、泡盛でのんびり過ごす時間がより豊かになったのではと悔やまれる。
◎車輪動物というヘンテコなもの
『ゾウの時間ネズミの時間』第6章のタイトルは「なぜ車輪動物がいないか」である。車輪動物という言葉が学問の世界に存在することに少し驚いた。SFファンにとっては車輪動物と言えば石原藤夫氏のデビュー作『ハイウェイ惑星』だ。
『ハイウェイ惑星』は『SFマガジン』の1965年8月号に掲載された(『宇宙塵』からの転載)。当時、高校生だった私はこの短編をリアルタイムで読んで、強いインパクトを受け、大いに感心した。高機能のハイウェイだけが残された惑星という特異な環境で車輪動物が登場する鮮やかな進化論SFだった。
私と同い年の本川氏が『ハイウェイ惑星』を読んでいるかかどうかは不明だが、車輪動物に言及した『ゾウの時間ネズミの時間』で、20年以上前に発表された『ハイウェイ惑星』に触れていないのは少しモノ足りなかった。
本川氏が考察している「車輪動物が存在しない理由」は明快で説得的だが、石原藤夫氏が考案した車輪動物は、そのハードルを見事にクリアしているように私には思える。
それにしても、車輪動物などというヘンテコなものに教科書的な新書の一章を割くところに著者のユーニークさを感じる。
著者の考察は「生物の幾何学」とも言える分野をベースに展開されていて、その考察を追うのは、数学パズルに挑む頭の体操のような刺激がある。車輪動物なども、その頭の体操の延長だと思う。
『ゾウの時間ネズミの時間』と『生物学的文明論』を読んで、動物の仕組みの合理的な巧妙さに感心すると同時に、わが身を含めた動物がもつ不思議の奥深さを、あらためて教えられた。
異世界イメージ喚起力に圧倒される『華竜の宮』 ― 2012年01月29日
久々に最近のSF作家のSFを読んだ。上田早夕里氏の『華竜の宮』(早川書房)である。
このSFを読もうと思ったきっかけは、昨年10月に日経新聞夕刊に掲載された巽孝之氏の『日本SFが創った未来』という記事だった。4回連載の最終回で『華竜の宮』を次のように高く評価していた。
「小松左京の『日本沈没』に真っ向から挑戦し、日本沈没SFというわが国独自のサブジャンルを批判的に発展させた渾身の一作だ。(略)ハードSFでなければ得られないこの文学的感動は、21世紀の文学そのものの指標かもしれない。」
小松左京作品を批判的に発展させた本格的なハードSFとあれば、読まないわけにはいかない。記事掲載の直後にネットで本書を購入した。読んだのは新年になってからだった。この記事が掲載された時点で「SFが読みたい! 2011年版」で国内編1位を獲得していた『華竜の宮』は、年末には2011年の日本SF大賞を受賞している。
2段組で約580ページ、かなりの長編だ。カッパノベルズから上下2冊で出た『日本沈没』より多少長い(『日本沈没 第2部』を加えれば違うが)。
これだけの長編なのに、読み終わったときには、異様な未来世界の概要だけを眺めたようなモノ足りなさを覚えた。主な舞台は海面が260メートル近く上昇した25世紀の地球である。盛り込んでいる材料が多様なせいか、いろいろ書き込んではいるのに、まだ書き足りないのではないかと思えてくる。
では、この小説に登場するあれやこれやの事象をより詳細に書き込んで、数倍の長さに膨らませてほしいかと言えば、そうとも言い切れない。
政治・経済・科学技術などを総合的に盛り込んで「世界」を描くにはSFは最適の器だと思う。だが、「世界」を描ききろうとすれば、いくら枚数があっても足りない。作者にも読者にも無限の時間があるわけではない。
作者が捉えた「世界」のイメージを、どのような切り口で捌いて料理するか、それが作家の腕の見せどころになる。
『華竜の宮』は「渾身の一作」という評価にふさわしく、多様な材料を投入して、ある種の人類滅亡までをも描ききってしまっている。
そこまで描かずに、大異変の予兆が膨らんでくるところで終わらせるという選択肢もあったと思われるが、そうしなかったところに、作者の「思い切りのよさ」と「せっかちさ」を感じる。
本書に満足していないわけではないが、別の形のエピローグも見てみたい気がする。読者とは身勝手なものである。相反するかもしれない料理のそれぞれの美味を堪能したいと思っているのだ。
私は、若いころ、主にSF第1世代(星新一、小松左京、筒井康隆・・・・・)の作品に親しんできた。そんな団塊世代の目から『華竜の宮』を見ると、やはり新世代のSFだなあと感じる。異世界のイメージ喚起力が抜群に優れているからだ。昔から「SFは絵だ」と言われてきたが、その「絵」を構築する力が時代とともに進歩してきているのは確かだ。映画(CGなど)やアニメが発展してきたという環境もあるだろが、新世代作家の「絵を描く技量」には脱帽する。
このSFを読もうと思ったきっかけは、昨年10月に日経新聞夕刊に掲載された巽孝之氏の『日本SFが創った未来』という記事だった。4回連載の最終回で『華竜の宮』を次のように高く評価していた。
「小松左京の『日本沈没』に真っ向から挑戦し、日本沈没SFというわが国独自のサブジャンルを批判的に発展させた渾身の一作だ。(略)ハードSFでなければ得られないこの文学的感動は、21世紀の文学そのものの指標かもしれない。」
小松左京作品を批判的に発展させた本格的なハードSFとあれば、読まないわけにはいかない。記事掲載の直後にネットで本書を購入した。読んだのは新年になってからだった。この記事が掲載された時点で「SFが読みたい! 2011年版」で国内編1位を獲得していた『華竜の宮』は、年末には2011年の日本SF大賞を受賞している。
2段組で約580ページ、かなりの長編だ。カッパノベルズから上下2冊で出た『日本沈没』より多少長い(『日本沈没 第2部』を加えれば違うが)。
これだけの長編なのに、読み終わったときには、異様な未来世界の概要だけを眺めたようなモノ足りなさを覚えた。主な舞台は海面が260メートル近く上昇した25世紀の地球である。盛り込んでいる材料が多様なせいか、いろいろ書き込んではいるのに、まだ書き足りないのではないかと思えてくる。
では、この小説に登場するあれやこれやの事象をより詳細に書き込んで、数倍の長さに膨らませてほしいかと言えば、そうとも言い切れない。
政治・経済・科学技術などを総合的に盛り込んで「世界」を描くにはSFは最適の器だと思う。だが、「世界」を描ききろうとすれば、いくら枚数があっても足りない。作者にも読者にも無限の時間があるわけではない。
作者が捉えた「世界」のイメージを、どのような切り口で捌いて料理するか、それが作家の腕の見せどころになる。
『華竜の宮』は「渾身の一作」という評価にふさわしく、多様な材料を投入して、ある種の人類滅亡までをも描ききってしまっている。
そこまで描かずに、大異変の予兆が膨らんでくるところで終わらせるという選択肢もあったと思われるが、そうしなかったところに、作者の「思い切りのよさ」と「せっかちさ」を感じる。
本書に満足していないわけではないが、別の形のエピローグも見てみたい気がする。読者とは身勝手なものである。相反するかもしれない料理のそれぞれの美味を堪能したいと思っているのだ。
私は、若いころ、主にSF第1世代(星新一、小松左京、筒井康隆・・・・・)の作品に親しんできた。そんな団塊世代の目から『華竜の宮』を見ると、やはり新世代のSFだなあと感じる。異世界のイメージ喚起力が抜群に優れているからだ。昔から「SFは絵だ」と言われてきたが、その「絵」を構築する力が時代とともに進歩してきているのは確かだ。映画(CGなど)やアニメが発展してきたという環境もあるだろが、新世代作家の「絵を描く技量」には脱帽する。
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