ヴェネツィア共和国の千年で盛者必衰の理を知る2011年12月10日

『世界遺産ヴェネツィア展:魅惑の芸術・千年の都』、『海の都の物語:ヴェネツィア共和国の一千年(1)~(6)』(塩野七生/新潮文庫)
◎長さを感じない千年

 江戸東京博物館の『ヴェネツィア展』を観てきた。約3カ月前の9月23日から開催していて、いつか行こうと思っていながら、結局は終了3日前の12月9日に行った。

 2年前に文庫本でまとめて購入した塩野七生氏の『海の都の物語:ヴェネツィア共和国の一千年』(全6冊)が未読のままだったので、『ヴェネツィア展』を機会に読了してから江戸東京博物館に行こうと考えていた。
 まだまだ日程に余裕があると思ってうかうかしているうちに時間が経過し、終了日が間近に迫っていることに気付いた。あわてて『海の都の物語』を読み始め、12月9日にやっと読了し、その日のうちに『ヴェネツィア展』に赴いた。
 締め切りがない物事の達成が難しいことは十分に承知しているが、たかが読書でも何らかの期限がないと進行しないと痛感した。

 『海の都の物語』のサブタイトルは「ヴェネツィア共和国の一千年」、『ヴェネツィア展』のサブタイトルは「魅惑の芸術・千年の都」だ。「共和国」という政体が千年も継続したのには驚かされる。ローマ帝国は500年程度、ハプスブルグ帝国でも約650年だ。「千年の都」と言うなら京都も該当しそうだが、その間に日本の政体は変遷している。

 千年は長い。しかし、『海の都の物語』を読了して千年という時間の長さを感じなかった。千年がアッという間だったような印象さえ受ける。『ヴェネツィア展』の期限に追われて大急ぎで読んだせいではなさそうだ。
 『ヴェネツィア展』も一応は時系列の展示になっていたが、やはり千年という時間の流れは実感しなかった。

 ヴェネツィア共和国の千年の歴史にそれなりの紆余曲折はあったろうが、大きな歴史変動があったわけではない。この都市国家は持続的に時代をリードし、あるいは時代に伴走して繁栄を継続してきた。
 塩野七生氏は「ヴェネツィア共和国ほどアンティ・ヒーローに徹した国を、私は他に知らない」と述べている。英雄がいない、英雄を必要としない国だからこそ長続きしたようだ。波乱万丈の歴史物語の材料には不足するだろうが。

 比較的平穏に繁栄が継続しているから、歴史の長さを感じなかったのである。

◎長い繁栄と速やかな終焉

 『海の都の物語』や『ヴェネツィア展』で展開されているのは千年間の繁栄の姿であり、その成果である。そして、その繁栄は、ほとんど「あっけない」と思われるような形で終焉を迎える。具体的には、ナポレオンの恫喝に屈して、ヴェネツィア共和国国会での投票によって共和制は廃止される。

 塩野七生氏は、ヴェネツィア共和国の終焉について次のような感慨を述べている。

 「栄枯盛衰が歴史の理(ことわり)ならば、せめてはこのヴェネツィアのように、優雅に衰えたいものである。そして、ヴェネツィアが優雅に衰えられたのは、ヴェネツィアの死が、病気や試練をいく度も克服してきた末に自然死を迎える人間の、死に似ていたからではないだろうか」

 「長い繁栄」と「速やかな終焉」は、国家にとっても人生にとっても望むべく理想の形だろう。あらためて、そんな教訓的なことを考えさせられた。日本の速やかな終焉を望んでいるわけではないが。

◎観光都市ヴェネツィア

 ヴェネツィア共和国は18世紀末に消滅し、現在はヴェネツィアという観光都市が残っている。数年前、私も観光旅行でヴェネツィアを訪れた。コンパクトで素敵な町だった。町全体が観光資源なので、時空を超えてワンダーランドに迷い込んだような気になる。いろいろな映画の舞台にもなっているし、大きなイベントもある。
 観光旅行者の一人である私は、観光都市として繁栄しているのヴェネツィアの現在の姿に強く印象づけられた。
 しかし、 『海の都の物語』の「第九話 聖地巡礼パック旅行」(これは本書の白眉)を読んで、ヴェネツィアはすでに15世紀から観光都市だったと知った。ヴェネツィアは筋金入りの観光都市だったのだ。

 観光都市は経済の繁栄と文化の繁栄の相乗効果によって生み出される。

 かつて、三島由紀夫は日本文化の喪失を嘆いて次のような有名な予言を残した。
 「日本はなくなつて、その代わりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。」
 
 この予言が的中していると見る論者も多い。しかし、文化の衰退と経済の繁栄を安易に関連づけるのは間違いだろう。文化と経済はトレードオフの関係にははない。
 ヴェネツィア共和国は商人たちが造った通商都市国家で、経済が宗教より優先するような国だった。しかし、経済が繁栄しただけでなく、文化も繁栄した。
 『海の都の物語』には、ヴェネツィア共和国は明快な政教分離によってローマ法王と対立したことが興味深く描かれている。しかし、『ヴェネツィア展』には多くの宗教画が展示されている。政治とは別に宗教の文化も繁栄していたのだろう。

 経済の繁栄なくして文化の繁栄はないだろう。一般的には経済の繁栄を後追いして文化が繁栄する。経済が衰退してもしばらくは文化はさらに繁栄する。そして、経済がまったくダメになっても、その国はかつての文化遺産によって生き延びていけるのかもしれない。
 ヴェネツィア共和国をヒントにこれからの日本の経済と文化を遠望したくなる。

『南極大陸』をきっかけに「探検」を考えた2011年12月15日

『南極越冬記』(西堀栄三郎/岩波新書)とその栞、『南極越冬隊 タロジロの真実』(北村泰一/小学館文庫)
 テレビドラマはほとんど見ないが、『南極大陸』は見ている。南極越冬隊には昔から興味があった。キムタク主演ドラマの南極越冬隊ということに、やや違和感を抱きつつも「南極大陸」というタイトルの付け方に多少の期待を感じた。だが、案の定、期待はずれのテレビドラマだ。
 ノンフィクションを原案にしていても「このドラマはフィクション」ですと謳っているのだから、事実離れをあげつらっても仕方ない。フィクションとして優れていれば文句はない。
 しかし、テレビドラマ『南極大陸』は私には安っぽくて幼稚なメロドラマに見えてしまう。せっかくの壮大な南極の光景が活かされず、探検のロマンが感じられない。

 しかし、テレビドラマ『南極大陸』をきっかけに、50年以上昔の南極越冬隊の記憶が懐かしくよみがえり、当時の新聞記事などの記録を読み返した。また、ドラマの原案になった『南極越冬隊 タロジロの真実』(北村泰一/小学館文庫)を購入して読み、『南極越冬記』(西堀栄三郎/岩波新書)を本棚の奥から探し出して再読した。そして、私たちの世代(団塊世代)にとって南極とは何だったのかを、ぼんやりと考えてみた。テレビドラマのささやかな効用だ。

 宗谷が南極へ行き、越冬隊を残してきたこと、氷に閉じ込められた宗谷がソ連のオビ号に救出されたことなどは、強く私の記憶に残っている。当時、一般家庭にテレビはなかったが、新聞が大々的に報じていた。
 調べてみると、第一次南極観測隊を乗せた宗谷が出発したのは1956年(昭和31年)、私が小学2年生の時だ。現在の私の孫と同い年だ。わが孫を見ながら、こんな小さいときの記憶がよく残っているものだと、われながら驚いた。
 私が特別だったわけではない。おそらく、私と同世代の人々は私と同じように「宗谷」のことを鮮明に記憶していると思う(同世代の友人数人に確認した)。それほどに印象深いイベントだったのだ。他にたいしたイベントがなかったのかもしれないが。
 テレビドラマ『南極大陸』に出てくる小学生たちは、まさに当時の私たちだった。あのドラマに無邪気っぽい小学生たちが登場するのにはシラけたが、わが身を写して見ると、ちょっぴりいとしくなる。
 当時われわれが感じたワクワク感が何であったを、もっとリアルに深く表現してくれれば、多少はドラマに共感できたかもしれない。

 実は、私は小学生のときに西堀越冬隊長の越冬報告講演会を聞いている。おそらく西堀栄三郎氏帰国直後の1958年だ。第三次隊がタロジロを発見する以前だったと思う。とすれば、私は小学4年生だった。岡山県の瀬戸内海沿岸の田舎町まで西堀氏は講演会に来たのだ。企業城下町のような町だったので、西堀氏は技術コンサルタントとしてその企業と関係があったのかもしれない。
 西堀越冬隊長は当時の超有名人だった。そして、講演内容は小学生の私にも非常に面白かった。50年以上経った現在でも、あの日の西堀越冬隊長の話し振りは目に浮かぶ。

 西堀栄三郎氏は11歳のときに白瀬中尉の講演を聞き、53歳で南極に行った。10歳のときに西堀隊長の講演を聞いた私は60歳を越えてもくすぶっている。死ぬまでに南極に行けるだろうか。

 なにはともあれ、西堀隊長の講演を聞いた日から私は西堀栄三郎氏のファンになった。と言っても、『南極越冬記』を読んだのは大学生になってからだ。それが、西堀氏の著作に接した初体験だった。岩波新書『南極越冬記』が出版されたのは、南極から帰国直後の1958年で、私が古本屋で入手した本書を読んだのは1969年だった。
 この岩波新書には本書の宣伝文が書かれた栞がはさみこまれていて、そこには「日本に於いて最も実践的な科学技術者と称される西堀博士の、創意にとむ知性と何ものをも恐れぬ勇気を見るであろう」と書かれている。やや大時代的な表現だが、その通りの内容の本である。
 『南極越冬記』は期待に違わぬ面白い本で、小学生の時に抱いた西堀越冬隊長のイメージがより鮮明になった。

 そんな私が、あらためて西堀栄三郎氏に惹かれたのは社会人になって、偉大なるエンジニアとしての西堀氏の魅力を認識したときだった。
 『学問の世界:碩学に聞く』(加藤秀俊、小松左京/講談社現代新書)に収録されていた「西堀栄三郎/巨大なテクノロジスト」というインタビューと、桑原武夫氏の「西堀越冬隊長」(桑原武夫全集第4巻、初出は西堀氏が越冬中の1957年6月号の文藝春秋)を読んだのがきっかけだった。1980年前後だったと思う。この二つの文章に接して、あの西堀越冬隊長はとてつもない巨人なのだと気づいた。

 西堀氏は科学者で技術者だが、書斎の人ではなく実践の人だった。本人が「わたしは生来、字を書くことがとてもきらいである」と述べているように著作は多くない。
 西堀氏の魅力を再認識した私は『石橋を叩けば渡れない』『西堀流新製品開発:忍術でもええで』『品質管理心得帖』などを貪り読んだ。1989年に86歳で西堀氏が逝去した後に編纂された『創造力:自然と技術の視点から』もすぐに読んだ。どの本も社会人としての当時の私の問題意識や課題(システム開発やチーム運営など)を刺激し勇気づけてくれる内容だった。
 ・・・と言ったことを書き始めると、話題が南極からどんどんずれてしまう。

 約40年ぶりに『南極越冬記』を再読して、面白く感じたところは多々あったが、「探検」という言葉にひっかかった。40年前には「探検」という言葉を普通に読み飛ばしていたと思うが、今回の再読で「探検」という言葉に新鮮さを感じた。近頃は「探検」という言葉に接することが少ないからだ。

 「第一次南極越冬隊」は、小学生だった私たちのイメージでは「南極探検隊」だった。西堀氏は『南極越冬記』で次のように述べている(P154)。

 「こんどの南極観測は、探検ではなく観測だということが、くりかえしいわれている。わたしは、探検か観測かなどということは、言葉の問題にすぎないと思っている。現在の南極においては、探検的な要素をふくまぬ観測などはあり得ないのである」

 どのような経緯からかは知らないが、桑原武夫氏らが推薦する西堀氏が「第一次観測隊副隊長」「越冬隊長」に選ばれたということは、南極観測に「探検」の要素が強かった証左だろう。
 当時53歳だった西堀氏は、京大助教授、東芝の技術部長、技術コンサルタント、電電公社の研究室長、京大教授などを歴任していた。しかし、西堀氏が越冬隊長に選ばれたのは、それらのオモテの経歴によってではなく、ヴェテラン登山家(「雪山賛歌」の作詞者でもある)で南極探検の研究者という別の経歴によるものが大きかった筈だ。
 第一次越冬隊のメンバーにも登山家が多い。『南極越冬隊 タロジロの真実』の著者北村泰一氏も登山家の一人だ。
 北村氏は、第一次越冬隊の最年少隊員で犬係もしていたオーロラ学者だ。フィクションであるテレビドラマの最年少隊員(自分さがしをする不甲斐ない現代の若者を投影したような人物)とはキャラクタがかなり異なる。西堀氏は『南極越冬記』で北村氏を「つわもの」と評している。
 
 テレビドラマ『南極大陸』がモノ足りないのは、現代人の視点からのヤワでセンチメンタルな「愛犬物語」的な要素が強く、力強い「探検」ロマンの要素が失われているからだと思う。それは、いつのまにか、私たちの世界から「探検」が失われてしまったことの反映だろう。

 私たちが子供の頃は「探検物語」に心をときめかした。「アフリカ探検」「無人島探検」「海底探検」「地底探検」「月世界探検」「火星探検」など、探検のターゲットはあちこちにあるように思えた。「南極探検」もその一つだった。そして、「探検ごっこ」は楽しい遊びだった。

 しかし現在、地球上からは探検の対象である「秘境」はほぼ消滅し、その多くは世界遺産という冠の観光地になってしまった。月世界や火星も、もはや未知の秘境ではない。

 西堀氏によれば探検の醍醐味は「未知の世界が開けていくこと」にあり、探検を実践するには「創意工夫の能力」が必要である。
 地理的な探検の対象が消滅しても、創意工夫によって開かれる未知の領域はいろいろあるだろう。探検の精神を活かす場が失われているわけではない。
 しかし、地理的探検は、その具体性によって圧倒的なイメージ喚起力の魅力をもっている。わかりやすいのだ。地理的探検に代わる探検の魅力を発見するのは容易ではない。インナースペースやサイバースペースなどに探検のターゲットを求めたとしても、そのワクワク感を共有できる人は限られているように思われる。

 私たちが小学生の頃、「南極越冬隊」に惹かれたのは、それが心をときめかす「探検」だったからだ。心ときめかす探検の対象が見えにくい現代の子供たちは可愛そうである。いまの子供たちも「探検ごっこ」をするのだろうか。

 ・・・そんなことを思いながらネットを検索していると「西堀栄三郎記念 探検の殿堂」という施設が滋賀県東近江市にあることを発見した。そのうち訪ねてみたい。

(蛇足)
 西堀栄三郎氏は南極から帰国後、日本原子力研究所の理事に就任する。西堀氏が存命なら、今回の原子力発電の事故をどう見たかは興味深い。このことについては、いずれ考察してみたいと思う。

『虚像』(高杉良)を読んで経済小説の魅力について考えてみた2011年12月27日

『虚像(上)(下)』(高杉良/新潮社)
 高杉良氏の『虚像』(新潮社)を読んだ。高杉氏の小説を読むのは久しぶりだ。以前、高杉氏の経済小説にハマったことがあった。

 『虚像』はオリックスの宮内義彦氏をモデルにした経済小説だ。オビには次のように書かれている。

  男はいかに「政商」にのし上がり
  なぜ、表舞台から消えたのか―。
  紳士然たる風貌に隠された
  非情、恫喝、果てなき欲望。
  経済小説の第一人者が、
  「財界の寵児」の見えざる罪と罰に迫る!

 正直言って、このな惹句につられて読んだ。この「男」が宮内義彦氏であることはすぐにわかり、どんなことが書かれているのか興味をもった。
 上下2巻を一気に読了したのだから、つまらなかったわけではない。しかし、あまり面白くはなかった。これまでに読んだいくつかの高杉良氏の小説と比較しても、生彩を欠いているように思えた。

 なぜ面白くなかったのだろうか。

 『虚像』はオリックスと思われる企業の成長から金融危機で破綻寸前になるまでの物語である。テーマは宮内批判だろうが、物語の主人公は一人の社員だ。一流大学を卒業した主人公が、当時は彼の大学から行くような人がいなかったその会社に入社し、エリート社員として出世して経営幹部の執行役員になるまでの物語である。主人公の二十代から五十代までのかなり長い時間を扱っている。ただし、この主人公の視点からだけ描いているわけではなく、この間の経済事象や財界騒動などが多く盛り込まれている。

 本書読了後、元オリックス社員の知人に本書を貸した。彼の感想では「内容は概ね事実だ。人事の内実については真偽不明。主人公に該当する人物はわからない。架空の人物だと思う」とのことだった。

 本書で扱っている経済事件などが概ね事実であることは、多くの読者にとっても自明だろう。登場人物にも、それとわかる命名が多い(竹中平蔵→竹井平之助、ホリエモン→マルエモンなど)。
 登場人物の多くがモデルが誰だかわかってしまうので、週刊誌の記事を読むような感覚で興味深く読み進めることができる。ただし、全体として周知の経済事件をなぞっているだけの内容が多く、びっくりするような真実が暴かれているわけではない。本書がモノ足りないのは、そのせいだと思う。

 高杉良氏が宮内義彦氏や竹中平蔵氏を批判していることはわかる。しかし、彼らのどこがどのように「悪」なのか、宮内義彦氏がなぜ「虚像」なのかが伝わってこない。ノンバンクという事業が虚業だと指摘するだけでは迫力がない。
 本書は米国型の経営モデルや金融経済のうろんさを批判しているようでもあるが、評論ではなく小説でそれを表現するのは難しい。批判対象の人物を単に悪役風に描写するだけでは批判のカラ回りになってしまう。

 本来、宮内義彦批判、竹中平蔵批判はノンフィクションで表現するべきものだろう。しかし、私はそのようなノンフィクション本には食指が動きそうにない。どんな内容か想像できてしまうからだ。

 経済小説にはノンフィクションとは異なる魅力が必要である。
 経済や企業の実態を知りたいという「情報小説」的な要素は経済小説の魅力のひとつだが、それだけでは面白くない。ノンフィクションではアプローチが困難な舞台裏の様子を大胆な推理力と想像力で表現することが小説の利点である。そこに描かれた内容が真実か否かは不明だとしても、十分な説得力があれば「ひとつの見方」として面白く読むことができる。
 そして、経済小説の大きな魅力は、経済や企業という舞台で展開される人間ドラマを通して、社会的存在である人間の考え方、感じ方、行動を追体験することであり、それがどのように企業や経済を動かしていくのかを知ることだろう。

 その点、経済小説は歴史小説に似ている。しかし歴史小説と異なり、経済小説の登場人物の多くは読者にとって、より身近である。高杉良氏の読者は「こんな人イルイル。こんなことアルアル。こんな気持ちよくワカル。ウチの会社だけじゃなく他の会社もコウなんだ。」という感慨をいだくことが多いのではないだろうか。

 高杉良氏の読者の大半はサラリーマンだと思っていた。しかし、以前、経済や経営などにはほとんど関心がなさそうなバイトの主婦が高杉良ファンだと知って、少し驚いたことがある。現代の企業社会に生きる人々の生々しい人間模様の物語が経済小説だとすれば、読者層が広いのは当然なのかもしれない。