ついに完結した『プリニウス』全12巻を一気読み2023年07月23日

『プリニウス(Ⅰ~XII)』(ヤマザキマリ、とり・みき/新潮社)
 『プリニウス(Ⅰ~XII)』(ヤマザキマリ、とり・みき/新潮社)

 ヤマザキマリ、とり・みき合作マンガ『プリニウス』が全12巻で完結した。雑誌連載開始は2013年12月、10年がかりの大作である。私は単行本が出るたびに購入して読んでいたが、7冊目以降は購入するだけで読むのをやめた。年に1~2冊のペースだと、前巻までの内容を忘れてしまう。完結したら全巻をまとめ読みしようと思ったのだ。

 で、このたび、めでたく全12巻を1日半で一気に読んだ。作者が10年かけてコツコツ描いてきた作品を短時間で読んでしまい、作者に申し訳ない気もする。

 マンガを読む速度は、絵を飛ばし見するかジックリ見るかでかなり異なる。この作品は古代ローマの情景や動植物を博物誌的にていねいに描き込んでいる。そんな絵を目に留めながら読み進めるよう心掛けたが、やはり飛ばし読みになったかもしれない。

 私は、4年前の小松左京展記念イベントでヤマザキマリ×とり・みき対談を実見している。ピランデルロの話が中心の対談だった。小松左京ファンの私は、この二人と私の関心領域に重なりあう部分が多いのでうれしかった。

 と言っても、私はプリニウスの博物誌は読んでいない。数年前に澁澤龍彦の『私のプリニウス』で博物誌のサワリ(奇想)を知っただけだ。作者二人は、プリニウスを小松左京や水木しげるに通じる人だとしている。私の趣味に合致する興味深い人物だ。

 プリニウスの伝記的史料は少ないそうだ。だから、作者は想像力の翼を広げて魅力的なプリニウス行状記を紡ぎあげた。プリニウスの博物誌には実在しそうにない妖怪的な人種や動植物が登場する。この行状記にはそんな怪しい生物がチラチラと顔を出し、虚実皮膜の面白さをかもし出している。

 私がこの作品を楽しめたのは、小松左京や水木しげるが好きだったからだけではなく、古代ローマ史ファンだからである。塩野七生ギボンのおかげでローマ史に興味がわき、この10年程はローマ史関連の本をボチボチ読んできた。

 この作品にはネロをはじめ多くの実在人物が登場し、史実をベースにした歴史マンガがプリニウス行状記と交差しつつ並行に展開する。ネロは最近になって再評価されてきた皇帝だ。このマンガのネロ像には説得力がある。私にはウェスパシアヌス帝が魅力的だった。公衆便所に課税したこの皇帝の具体的なイメージをつかめた気がする。

 そのほかにも、ミトラ教、パルミュラの仏教徒など興味深い事項が随所に埋め込まれている。とりあえずは1日半で読了したこの作品、これからは、各巻を随時引っ張り出して、飴玉をしゃぶるように絵とネームをジックリ鑑賞したい。画像のなかには私が読み解けていないものが山ほど残っているに違いない。

『ゲッベルス』で「若者」の怖さと愚かさを思う2023年07月15日

『ゲッベルス:メディア時代の政治宣伝』(平井正/中公新書/1991.6)
 ふとしたきっかけで『ナチスと隕石仏像』『ナチズムの時代』を読んで、未読で積んだままのナチス関連本が気がかりになった。とりあえず次の新書を読了した。

 『ゲッベルス:メディア時代の政治宣伝』(平井正/中公新書/1991.6)

 著者は1929年生まれのドイツ文学者、30年以上前に出た新書である。ゲッベルスの日記の引用が多い。落ち込みや高揚、心情のゆらぎを綴った日記はかなり面白い。著者の日記紹介は蔑視・断罪が基調のように感じられた。もう少し引いた視線で分析的に掘り下げてもいいのではと思えた。

 ゲッベルスのヒトラー観は、急成長する企業のカリスマ社長を見る取締役のようで面白い。当初はヒトラーに批判的なこともあったが、次第に心酔していく。ライバル幹部たちを気にしつつ、ヒトラーから褒められれば喜び、疎まれれば絶望する。どこにでもありそうな話だ。

 ナチスは若者集団だった――あらためて、そう感じた。以前に読んだ『ヒトラーの時代』 で著者の池内紀氏がナチス幹部の若さを指摘していたのが印象に残っている。ゲッベルスの日記には「若者」という言葉が頻出する。自身を若者と位置づけ、自分たちの活動を新たな世界を切り拓く若者の運動としている。よくある思い込みである。

 考えてみれば、紅衛兵も全共闘もタリバンも幕末の志士もみな若者だ。これらを同一に論ずるのは乱暴だが、「革命」と言われる歴史変動の担い手の大半は若者だった。

 自分たちより上の世代を硬直した旧世代と見なした若者たちが、ある種の熱狂のなかで全能感を抱くと、手がつけられなくなる。感性・情念が理性を凌駕し、妄想と思想の区別がつかなくなる。そんな事態が時代を動かすこともある。それが吉と出るか凶と出るかはわからない。

 かつて若者だった私は74歳になり、若者の愚かさが見えてきた気がする。それは人類の愚かさと同じにも思える。愚かさは克服するべきなのだが……。

アレクサンドロスを描いた『文明の道①』は番組とはトーンが異なる2023年05月07日

『文明の道① アレクサンドロスの時代』(森谷公俊・他/NHK出版/2003.4)、TV番組の第1集
 20年前のテレビ番組「文明の道 第1集:アレクサンドロス大王 ペルシャ帝国への挑戦」をオンデマンドで観て、この番組の書籍版を読んだ。

 『文明の道① アレクサンドロスの時代』(森谷公俊・他/NHK出版/2003.4)

 実は、先日読んだ『アレクサンドロスの征服と神話 』(森谷公俊)の冒頭で著者はこの番組に言及している。アレクサンドロスを多大な犠牲も顧みずに突き進む侵略者とみなす見方を示したうえで、次のように述べている。

 「これとはまったく対照的に、アレクサンドロスを、諸民族・諸文明の共存と融合を目指した偉大な先駆者として描く見方もある。たとえば、2003年4月20日に放送された、NHKスペシャル『文明の道』がそうだ。第1集のこの日は「アレクサンドロスの時代」と題し、大王の東方遠征とオリエント世界のかかわりを主題としていた。」

 アレクサンドロスの否定面も見据える森谷氏は、この番組を西欧中心的な見方として批判しているようにも見える。だが、森谷氏は番組のテロップで「資料提供者」の筆頭に氏名が出ている。書籍版ではメイン記事の監修者であり、記事も寄稿している。

 要は、番組と書籍ではトーンが少し異なるのだ。番組はアレクサンドロスの肯定的な面を中心に取り上げている。だが、書籍はより幅広い視点でアレクサンドロスを相対化している。50分という枠の制約もあるだろうが、番組はあくまで番組スタッフが制作したものである、森谷氏は単に資料を提供しただけかもしれない。

 『文明の道』という番組は「文明の衝突」へのアンチテーゼとして、対立の克服、共存・協調を探るのがテーマのようだ。そのコンセプトに沿って、アレクサンドロスがオリエント世界との融合や交流を図った面を強調した内容になったのだと思う。

 書籍は単に番組を活字化しただけではなく、多くの研究者の多様な記事を収録している。番組より深くて広い。本書収録の記事で森谷氏は次のように述べている。

 「アレクサンドロスは東西文明の融合という大理想をかかげて東方遠征を行った――。これは、かつて幾度となく繰り返された常套句である。高邁な理念を追及しながら、志なかばで倒れた若きアレクサンドロス。(…)このような大王像は、近代の研究者が作り上げた虚像にすぎず、実証的な根拠を欠いたものである。(…)結局アレクサンドロスの帝国は、あくまでも彼一人の帝国であった。(…)そこでは大王への忠誠心だけが体制の絆となる。それは「アレクサンドロスただ一人の帝国」と呼ぶしかない国家であった。」

『アレクサンドロスの征服と神話』は私には新鮮だった2023年05月03日

『アレクサンドロスの征服と神話 (興亡の世界史)	』
 先日読んだ『古代オリエント全史』で著者の小林登志子氏は欧州共通教科書がアレクサンドロスの征服を過大評価していると批判していた。数年前に読んだ『ギリシア人の物語』(塩野七生)のアレクサンドロスは魅力的だった。日本の研究者はアレクサンドロスをどう捉えているか気になり、未読棚に積んでいた次の本を読んだ。

『アレクサンドロスの征服と神話 (興亡の世界史) 』(森谷公俊/講談社学術文庫)

 本書の原本は2007年刊行、学術文庫になったのは2016年である。本書を読み進めながら、もっと早く読んでおくべきだったと思った。私が把握したかった「西欧中心史観の見直し」をかなり明確に提示しているからである。

 著者は「高校の世界史教科書では、古代ギリシア史と古代オリエント史は別々の頁に記述され、両者がまったく別世界であったような印象を与える」と指摘している。また、19世紀に登場したヘレニズム概念にはギリシア過大評価が内包されているとしている。アレクサンドロスに関しては肯定面と否定面の両方を掘り下げている。

 著者独自の見解も多いだろうが、本書のベースは現代日本の研究者の多くが共有している見解かもしれない。私には目から鱗の新鮮な歴史像である。

 アレクサンドロスは遠征先の各地に都市アレクサンドリアを建設し、ギリシア人だけでなく地元住民も住まわせ、ペルシア人貴族を高官に採用した。これらの施策を同化・融合政策と見るのは間違い――それが著者の見解である。

 都市建設の目的は軍事拠点の確保だった。周辺の町を破壊して新たな都市を建設し、捕虜住民を強制移住させたケースもある。都市常駐のギリシア兵は置き去りにされたにすぎない。ペルシア人高官に与えられた権限は限定的で、その行政はしばしば悪政になった。アレクサンドロスの死後、自然消滅したり放棄された都市が多かった。

 著者は次のように述べている。

 「大王がギリシア文化を広めたり、民族の融合を図るためにアレクサンドリアを建設したという従来の説明は、まったくの幻想にすぎないのである。」

 ヘレニズムに関しては、ガンダーラ美術の検討が興味深い。ガンダーラで仏像が作られるのはギリシア人支配から年月が経った1世紀後半頃で、ギリシア、イラン、ローマの様式と技法が用いられている。ローマはギリシアの影響を受けている。ガンダーラへのギリシアの影響は実はローマ経由だった、と見なす説が有力だそうだ。

 ガンダーラ美術は「ギリシア起源」ではなく「ローマ起源」という説には驚いた。よく考えると、以前に読んだ『シルクロードとローマ帝国の興亡』(井上文則)の内容に合致する。1世紀後半頃のローマは中央アジアとの交易が盛んだった、という井上文則氏説をふまえると、ガンダーラ美術のローマ起源説が納得できる。

挿絵満載の『痴愚神礼賛』は面白い2023年04月23日

『痴愚神礼賛』(エラスムス/沓掛良彦訳/中公文庫)
 16世紀宗教改革に関する文章を読んでいてエラスムスへの興味がわいた。で、次の代表作を入手・読了した。

 『痴愚神礼賛』(エラスムス/沓掛良彦訳/中公文庫)

 エラスムスは16世紀最大の人文主義者と言われている。カトリックの腐敗を風刺した本書が起爆剤となってルターの宗教改革が始まった。だが、過激な宗教改革に批判的だったエラスムスはカトリックから離れない。新旧両派から非難されて孤立する。面白い立ち位置だ。

 本書を読もうと思ったのは、エラスムスが1週間足らずで一気に本書を書き上げたと知ったからだ。短期間で書いたものなら短期間で読めそうだ、と勝手に思い込んだのだ。古典と言っても風刺文学なら読みやすかろうとも予感した。

 ラテン語原典訳の本書、本体部分は約200頁、注が約100頁である。注を頻繁に参照しながらの読書はわずらわしい。だが、ギリシア・ローマの神話や古典を踏まえた表現が多いので、読み進めるには注が頼りになった。

 本書は痴愚神が聴衆に演説する形の一人称で書かれている。痴愚神とは「痴愚というめぐみ」を人々にわけへだてなく与える女神である。『痴愚神礼賛』とは痴愚女神の自画自賛の長広舌である。かなり愉快な演説だ。

 本文には16世紀原典の図版と思しき挿絵が80点以上載っていて、これを眺めるだけでも楽しい。なかには意味不明の絵もある。だが、巻末にすべての図版のタイトルがあり、それを参照するとほぼ理解できる。

 痴愚女神の自画自賛の大半は「愚かな者は幸せである」という主旨であり、的を射てる点もあって面白い。後段になって修道士、教皇、枢機卿らの愚かさあげつらう。この箇所が宗教改革の契機になったのかと納得できる。終盤は痴愚や狂気に関するキリスト教談義になり、エラスムス自身が語っている趣になる。締めくくりでは再び痴愚女神の口調になって降壇する。

 宗教改革の歴史を読んでいると、ルター派やカルヴァン派には現代のタリバンやISに似た過剰な原理主義も感じる。また、宗教改革の背景には宗教とは別次元の勢力争いもあったようだ。改革派対守旧派という単純な構図ではないのだ。

 書斎人だったエラスムスは戦争を否定する平和主義者で、教会の分裂や宗教戦争を望んでいなかった。ルターが自分を尊敬していると知り、ルターを支援しようともするが、その過激化にはついて行けず訣別する。『痴愚神礼賛』で自身を揶揄された教皇(レオ10世)は本書を読んで笑い転げたそうだが、カトリック側からもエラスムスは不逞の人物とみなされ、著書は禁書にされる。

 エラスムスについて知ると「宗教は強し、理性は弱し」という苦い感慨がわく。

シンポジウム「前田耕作先生の業績を語る会」に行った2023年02月23日

 本日(2023年2月23日)、東京国立博物館平成館大講堂で開催された「シンポジウム:前田耕作先生の業績を語る会」に行った。2022年12月に89歳で亡くなったアジア文化史研究者・前田耕作先生を偲んで、多くの関係者たちが先生の業績を語り合うシンポジウムである。

 私が前田先生に初めて接したのは9年前、カルチャーセンターで「ギボン『ローマ帝国衰亡史』を読む」という講義を受講したときである。この講義は全10巻(ちくま学芸文庫)の8巻目に入った昨年春、先生の入院で中断した。その他にも「プルタルコス」「ローマの宗教」「ローマ皇帝群像」「ルネッサンスの異教秘儀」「弥勒」などいろいろな講義を受講した。2018年には先生が同行するシチリアの古跡を巡るツアーにも参加した。

 先生の講義を受講して、すぐに感じたのは「学者の凄さ」だった。どんなことに関しても造詣が深く、この先生は何でも知っているのではなかろうかと感じた。私は学問の世界に縁のない人間で、人文系の学者と接する機会がなかったので、学問の世界の底深さに驚いたのである。

 前田先生はローマ史の専門家ではない。若いときにアフガニスタンの学術調査に携わり、バーミアン遺跡などの文化財保護活動に尽力したことで知られている。本日のシンポジウムでもバーミアン絡みの話題が多かった。

 そんな話のなかで、先生より12歳下の後輩学者が「<夢想・歴史・神話/宗教>を結ぶ“前田学”の原点」と題した、先生の学問の基盤の紹介が興味深かった。現象学、言語学、図像学など私には馴染みのない難しそうな世界の話だったので、十分に理解できたわけではないが…。

 先生の専門が何であったか、私にはよくわからない。新聞などの表記は「アジア文化史」が多いが「ユーラシア思想史」や「東洋美術史」などもある。以前、酒席で先生にお尋ねすると「インド以外のアジア文化史」と返ってきた。アジアと言っても先生の著書『アジアの原像』はヘロドトスの話だからヨーロッパにも食い込んでいる。私が受講した講義の大半は古代ローマ史関連である。

 先生から「一人の研究者が読める史料には限界があるので、おのずと歴史研究者の専門範囲は限られる」と聞いたこともある。だが、先生は専門を狭く限定するのでなく、文化の交流という広がりのある歴史を探究していた。「文明の十字路、混成文化の発信地」と言われるアフガニスタンの学術調査からスタートしたことが、視野の広い学風につながったのだと思う。「日本の学界からは距離を置いていた。行動する学者だった」というシンポジウムでの指摘が印象深い。

半藤一利氏の頭の中には、膨大な取材記録が渦巻いていた…2023年01月24日

『文春ムック 半藤一利の昭和史』(文藝春秋)
 半藤一利氏が90歳で逝去したのは一昨年の1月だった。その年の3月、故人を偲ぶムックが出た。そのときに入手し、拾い読みしていたが、平凡社ライブラリー版『昭和史』シリーズ4冊読了を機に、このムックの全記事を頭から最後まで読み返した。

 『文春ムック 半藤一利の昭和史』(文藝春秋)

 半藤氏が生涯のテーマとした「昭和史」をターゲットに編集したムックである。半藤氏の考えがわかると同時に、半藤氏の少年時代から編集者として活躍するまでの人生(当然、昭和史に重なる)を知ることができる。

 テーマは「昭和史」で、「半藤一利」という人物ではない。年譜や著作目録はない。だが、巻末に「半藤さんの90冊」と題したブックガイドがある。昭和史に絞って精選して90冊である。この人はいったい何冊の本を書いたのだろかと驚いてしまう。「語り下ろし」や「対談」が多いにしても、その精力に敬服する。編集者として若い頃から数多くの「現場の人」を取材し、語りたいことが頭のなか渦巻いていたのだと思う。

 15歳で敗戦をむかえた半藤氏の編集者時代、戦争の当事者だった軍人の多くが存命で、会って話を聞くことができた。膨大な情報収集が可能だったのだ。だが、人はウソをつくし、自分を正当化する。意図的にウソをつく場合もあるし、無意識にウソをつくこともある。虚言癖の人もいる。ウソを見抜くには、聞く側に知識が必要だし、ウラ取り作業も必要になる。いろいろな記事を読んで、あらためて「歴史探偵」という仕事の大変さを思った。

 このムックには半藤氏と磯田道史氏の対談が収録されている。そのテーマは「昭和の始まりは幕末だ」である。太平洋戦争の淵源が幕末の攘夷にあり、明治と昭和は断絶しているのではなく、日本の膨張主義は明治から始まって昭和まで継続したという議論である。司馬遼太郎が言う「昭和になってダメになった」とは少し異なる。

 そう言えば、小説『地図と拳』にも、満州の軍人たちが日露戦争の遺産にこだわる場面がいくつかあった。日露戦争に勝って満州に権益を獲得したことが満州事変につながるという展開である。その通りだと思う。もちろん、幕末維新が太平洋戦争に直結しているのではなく、別の道をたどる選択肢はいくつもあったはずだとは思うが。

李香蘭の自伝に続いて川島芳子の自伝を読んだ2023年01月08日

『動乱の蔭に:川島芳子自伝』(川島芳子/中公文庫/2021/9)
 先日読んだ『李香蘭 私の半生』は川島芳子との興味深い「交流」を描いていた。また、『「李香蘭」を生きて』は、巻末に十数頁にわたる「川島芳子(金璧輝)裁判記録(抜粋)」を収録している。

 「男装の麗人」「東洋のマタハリ」と呼ばれた川島芳子(本名:愛新覺羅顯玗、漢名:金璧輝)は、日本の大陸浪人・川島浪速の養女として日本で教育を受けた清朝の王女である。終戦時、漢奸(日本に協力した中国人)として北京で銃殺刑になった。

 『李香蘭 私の半生』によれば、山口淑子は17歳のときに天津東興楼のパーティで川島芳子出会っている。東興楼は川島芳子が経営する料亭である。二人ともヨシコなので、川島芳子は山口淑子に次のように語った。

 「ボクは小さいころ“ヨコチャン”と呼ばれていたよ。だから、きみのことも“ヨコチャン”と呼ぶからな。ボクことは、“オニイチャン”と呼べよ」

 当時30歳だった川島芳子は「活躍の時代」を既に終えた有名人で「頽廃的生活」をおくっていた。妹分にされた山口淑子は周辺の人から「あの人には近づかないほうがいい」と忠告されたそうだ。

 山口淑子は川島芳子の「活躍」には言及していない。「東洋のマタハリ」が具体的に何をした人物か、私は知らない。ネット検索してみると、彼女の防諜活動については不明部分が多いようだ。彼女の自伝が文庫本になっていると知り、入手して読んでみた。

 『動乱の蔭に:川島芳子自伝』(川島芳子/中公文庫/2021/9)

 最近出た文庫本だが、原著は80年以上昔の1940年(皇紀2600年)刊行である。自伝とは言え、祐筆(伊賀上茂)による日本人向けの聞き書きの書である。この祐筆は本書冒頭の「川島芳子女士の横顔」(女史でなく女士だ)で次のように述べている。

 「人前に出るには、多少の粉飾は常識である。自叙伝に於ても。化粧した姿で登場することが、咎めらるべきものでないと信ずる。従って、川島芳子女士のあり来し方を詮索するには、自叙伝以外に求めるのが賢明だいうことになる。」

 祐筆が自ら粉飾と述べている通り、どこまでが事実かわからない眉唾自伝である。下手な小説のような冒険譚もある。

 終章の「日本の皆様へ――歯に衣着せぬ記」は、当時の親日派中国人の日本人観の一端がうかがえて興味深い。

 日本を医者、中国を患者と見たて、日本は名医だろうが患者の腹を切開して意外に重症なのに驚いているのでは、と述べている。患者の懸念である。また、日本人の中国人蔑視への苦言も呈している。中国からフランスやアメリカに留学した学生は帰国後、留学先の国を賛美するのに、日本に留学した学生は帰国後、こぞって排日運動に参加するとも指摘している。

 川島芳子の生涯は中国と日本との葛藤におおわれていたのだと思う。

『「李香蘭」を生きて』は『李香蘭 私の半生』のダイジェスト版2023年01月06日

『「李香蘭」を生きて:私の履歴書』(山口淑子/日本経済新聞社/2004.12)
『李香蘭 私の半生』を読んでいるとき、ネット検索で次の本を見つけた。

 『「李香蘭」を生きて:私の履歴書』(山口淑子/日本経済新聞社/2004.12)

『李香蘭 私の半生』は67歳の時点での自伝、似たタイトルの本書は84歳の時点の刊行である(山口淑子は2014年逝去。享年94歳)。新たな事実を綴った本かなと思って入手・読了したが、前著のダイジェスト版のような自伝だった。前著のようなコクはない。やや期待はずれだった。

 本書は日経新聞の連載記事「私の履歴書」(2004年8月)をまとめたものである。私は新聞連載時に読んでいるはずだが、何も憶えていない。私が子供の頃に母か聞いたと思っていた李香蘭の話には、18年前に読んだ「私の履歴書」の記憶が混入していたのかもしれない。

 本書の大半は『李香蘭 私の半生』と重複しているが、新たな話も少しだけある。その一つは、幼少期からの友人リュバ(ユダヤ系ロシア人)との53年ぶりの再会(1998年)である。終戦時の上海で山口淑子が裁判にかけられたとき、戸籍謄本入手を手配してくれた命の恩人である。再会したときの二人は78歳、スターリン時代を生き延びたリュバの人生にも歴史の非情が刻印されている。

 もう一つ、興味深いのは、テレビ司会者になった山口淑子のパレスチナ取材である。この件、重信房子やアラファト議長を取材する写真が載っているだけで、詳しい記述はない。彼女が日本赤軍を取材したのは、かつての若者の旧満州への「海外雄飛」と重なるものを感じたからだろうか。もう少し語ってほしかった。

満洲を語る『李香蘭 私の半生』は面白い2023年01月05日

『李香蘭 私の半生』(山口淑子・藤原作弥/新潮社)
 小説『地図と拳』で満洲への関心がわいて『満洲暴走 隠された構造』を読み、カミさんの書架にあった次の自伝を思い出した。伝記の類を読みたくなる正月気分にマッチするので、さっそく読了した。

 『李香蘭 私の半生』(山口淑子・藤原作弥/新潮社)

 1987年に出た本である(書架にあったのは2000年の32刷)。もっと早く読んでおけばよかった思った。冒頭に平頂山事件(1932年)が出てくるからである。この事件は『地図と拳』の題材のひとつで、『満洲暴走 隠された構造』もこの事件に言及しているが、私はこの事件を知らなかった。

 満洲生まれの山口淑子は11歳のとき、抗日ゲリラによる撫順炭鉱襲撃事件に遭遇し、日本軍によるゲリラ犯拷問も目撃、その生々しい記憶を綴っている。平頂山事件は炭鉱襲撃への報復として日本軍が付近の村の住民全員を虐殺した事件である。彼女が事件の全貌を知ったのは、近年(本書執筆の1987年の数年前だろう)、撫順を訪問した際だそうだ。

 私が本書をスルーしていたのは、山口淑子=李香蘭に関する基本的なことは知っている気になっていたからである。皆が中国人だと思っていた女優・李香蘭が実は日本人で、終戦時には日本に協力した中国人として処刑されそうになり、危機一髪で日本人と証明されて無事に帰国した――という話は子供の頃から母(山口淑子より4歳下)に聞かされていた。また、かなり以前に読んだイサム・ノグチの伝記本にも、戦後の一時期、彼と結婚していた山口淑子に触れていた。

 本書を読んで、山口淑子は私が思っていた以上に中国人になりきっていたと知った。国士風の父によって幼少期から中国語を学び、父の友人の中国人(地方政界の大物)宅にあずけられ、その娘として北京のミッションスクールに通っていたのだ。当時の北京の学校では抗日・排日の風潮が強く、学生たちの会合で各自が抗日の決意表明をする場があり、日本人であることを隠していた彼女も苦慮しつつ決意表明をしている。

 また、女優になって初めて日本を訪問したとき、旅券チェックで中国人姿の彼女が日本人と気づいた警官から「チャンコロの服を着て、支那語なぞしゃべって、それで貴様、恥ずかしくないのか」と怒鳴られている。

 父親はなぜ彼女を中国人の学校に入れたのだろうか。おそらく、満洲という地の国際性に惹かれていたからだ。満州人・華人・ロシア人・日本人など多様な人々が暮らす満洲には、軍部の思惑とは別の開放的なコスモポリタンの空気が流れていたのだと思う。大陸浪人や馬賊が跋扈するロマンや謀略のイメージも重なる。

 彼女が所属した満映も右翼と左翼が共存する不思議な組織だ。大杉栄を虐殺した甘粕元大尉が満映総裁に就任するとき、現場では「もっとも非文化的な人間が満洲一の文化機関を支配するとは」との反発があったそうだ。しかし、総裁就任の後の甘粕元大尉は左翼系の人々からも評判がよかったらしい。ハミダシ者の新天地だったのか……。

 本書で驚いたのは、終戦直前の1945年8月9日(長崎原爆の日)の上海の情景である。彼女が歌う盛大な野外コンサートが開催され、会場は中国人・欧米人・日本人が夏の涼し気なファッションを競う華やかな社交場になっていたそうだ。「あれは「真夏の白昼夢」のように思えてならない」と彼女は述べている。やはり上海は魔都だ。

 本書は山口淑子の自伝(刊行時67歳)ではあるが、藤原作弥(ジャーナリスト。後の日銀総裁)との共著になっている。自伝にありがちな「記憶の捏造」避けるため、藤原氏が事実確認などの取材を担ったそうだ。好感がもてる執筆方法だと思う。