つげ義春の弟・つげ忠男のマンガ集を読んで…2020年10月21日

『きなこ屋のばあさん:つげ忠男漫画集』(晶文社)
 つげ義春が弟のつげ忠男のことを書いているエッセイを読んで、つげ忠男のマンガを読んでみたくなり、ネット古書店で次の一冊を入手した。

 『きなこ屋のばあさん:つげ忠男漫画集』(晶文社/1985.3.20初版 1992.7.10 六刷)

 マンガ8編に加えて、つげ忠男のあとがき風の文章とつげ義春の解説風の文章が載っている。
 
 収録マンガ8編のうち7編は『ガロ』掲載のものだ。私は半世紀以上昔の学生時代に『ガロ』でつげ忠男のマンガを読んだ気がするが内容は失念している。本書収録のマンガはすべて初読に思えた。だが、半世紀以上昔に『ガロ』でつげ忠男のマンガに接したとき、兄の七光りで掲載された、兄と似た作風のマンガだと感じた――そんな昔の感覚がよみがえってきた。

 本書巻末の「つげ忠男の暗さ」というつげ義春の文章は、先日読んだ『苦節十年記/旅籠の思い出』に収録されていたもので、次のように締めくくっている。

 「このような生活環境の影響を受けているつげ忠男の作品の暗さがウケないのは、もうしようがないことなのだろうか。でもやっぱり読んで貰いたいと、切に願わずにはいられない。」

 私が入手した本書は六刷だからそこそこに売れたとは思うが、つげ忠男は兄とは違って、今や忘れられたマンガ家だろう。彼の不幸は暗さにあるだけではなく、「つげ忠男」という名前にあったように思える。つげ義春はまことにユニークなマンガ家であり、それ故に「もう一人」は成り立たず、二人は要らないのである。

 つげ忠男がつげ義春に似ていると言っても、それは表面的かつ部分的なところであって、当然ながら違いも大きい。つげ忠男が別のペンネームでスタートすれば、別の発展があったかもしれない。

中公新書の『マックス・ウェーバー』は現代視点の入門2020年10月19日

『マックス・ウェーバー:近代と格闘した思想家』(野口雅弘/中公新書/2020.5.25)
 岩波新書の『マックス・ヴェーバー』に続いて、発行日が5日後の中公新書の『マックス・ウェーバー』を読んだ。

 『マックス・ウェーバー:近代と格闘した思想家』(野口雅弘/中公新書/2020.5.25)

 著者は1969年生まれの研究者で、講談社学術文庫の『仕事としての学問 仕事としての政治』の翻訳者でもある。書店でこの文庫本を目にしたとき、従来の「職業としての学問」「職業としての政治」より明快な標題の訳に感心した記憶がある。

 本書は目配りのいいウェーバー入門書である。ウェーバーの著作の現代視点での批判的読解もわかりやすい。面白さは、岩波新書の『マックス・ヴェーバー』と甲乙つけがたい。読む順番は、オーソドックスなこちらを先にして、岩波新書を後にした方が楽しめたと思う。

 本書には現代の話題への言及が随所にある。中国の監視社会、霞が関の「忖度」、グローバル化、ポピュリズム、コロナなどなどだ。難解なウェーバーを身近にする工夫だろうが、ときにウェーバーの言説と著者の主張が混じり合っているように感じた。

 また、本書にはウェーバー以外の多彩な論者を援用した記述が多い。登場するのは、プラトン、レンブラント、ミル、トルストイ、イプセン、森鴎外、リップマン、カフカ、リルケ、トーマス・マンなどなどである。そんな箇所は目先が変化して面白く、興味深く読むことができた。と同時に、やや衒学的で牽強付会とも感じた。この点について、著者は「あとがき」で自覚的な仕掛けだと弁明していて、納得できた。

 ウェーバーがフライブルク大学の教授からハイデルブルク大学の教授に転身した直後に父親が客死し、ウェーバーは体調不良に悩まされるようになる。岩波新書はこれを「神経衰弱」としていた。本書では「心の病」と表現している。同じ状態の説明でも印象が異なり、人物のイメージも少し違ってくる。岩波新著の著者より本書の著者の方がウェーバーに同情的に思える。

 岩波新書の『マックス・ヴェーバー』の終章は「マックス・ヴェーバーとアドルフ・ヒトラー」だったが、本書終盤には「反動の予言――ウェーバーとナチズム」という章があり、「ウェーバーはヒトラー登場の露払い」説を紹介したうえで、著者は次のように述べている。

 「ウェーバーに好意的な論者は、もし彼がもう少し長生きして、ヒトラーの独裁を目の当たりにしたら、徹底的に抵抗したことだろう、という言い方をすることが多い。そして私も基本的にこれに近い考えをもっている。しかし、たとえそうだとしても。第一次世界大戦後の新しい政治レジームを構想しているときのウェーバーがかなり危なっかしいということは、否定できないだろう。」

 本書の終章は「マックス・ウェーバーの日本」である。本書で初めて知ったのだが、ウェーバーの著作が最も熱心に読まれているのは日本である。ドイツで全集の刊行が始まったとき、注文の三分の二は日本からだったそうだ。ウェーバーは、生国のドイツや欧米より日本で多くの人に読まれ、深く研究されているのだ。ウェーバーが西洋中心思想の人だけに。不思議な現象だと思う。

 そんな事情を解明しているのが本書の終章である。「マックス・ウェーバーのテクストとそれをめぐって日本でなされてきたウェーバーに関する研究が、近年、急速に色あせてきたことは、おそらく当然の帰結である」としたうえで、著者は現代の課題に取り組むためにウェーバーを読むことの新たな意義を提示している――ように思える。

岩波新書の『マックス・ヴェーバー』は衝撃の書2020年10月17日

『マックス・ヴェーバー:主体的人間の悲喜劇』(今野元/岩波新書/2020.5.20)
 長年気がかりだったヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を取り合えず読み終えたので、この7月に購入した2冊の新書を読むことにした。岩波新書と中公新書でほぼ同時に出た『マックス・ヴェーバー』というタイトルの本である(中公は「ヴ」でなく「ウ」)。どちらも現役研究者の書だ。まず、発行日が5日早い岩波新書を読んだ。

 『マックス・ヴェーバー:主体的人間の悲喜劇』(今野元/岩波新書/2020.5.20)

 この本は私には衝撃的だった。私はヴェーバーについてさほどの知識はない。と言っても、半世紀以上昔の学生時代からその名を目にすることは多く、ぼんやりしたイメージはあった。丸山真男、大塚久雄、折原浩などの言説で紡がれた、マルクスに対峙する偉大な社会学者の姿である。本書を読んで、そのイメージがガラガラと崩れた。

 本書の著者は1973年生まれの研究者、私の子供にあたる世代だ。著者は本書の「おわりに」で、先行研究者が「その時代の知的流行をヴェーバーに過剰に投影する嫌いがあった」と指摘し、次のように述べている。

 「近代主義的な第一世代(大塚久雄、丸山真男、青山秀夫、内田芳明ら)も、近代批判的な第二世代(安藤英治、折原浩、山之内靖ら)も、理念先行のヴェーバー解釈では変わりないと、第三世代の私は考えている。」

 理念先行を排した本書は「伝記論的転回」という手法によって、その時々のヴェーバーの言動紹介を中心に綴った伝記である。それは、知的で闘争的なナショナリストが演じた「主体的人間の悲喜劇」である。

 ヴェーバーはプロイセンで1864年に生まれた。二葉亭四迷や津田梅子と同い年で夏目漱石より3歳上だ。亡くなったのは100年前の1920年、ナチス台頭前夜である。享年56歳、スペイン風邪にやられたらしい。

 著者は本書の「はじめに」で次のように述べている。

 「(…)ヴェーバーの学問業績はいかに深遠に見えても外皮であり、その内側には政治の人ヴェーバーがいた。その彼の鍵概念こそ「闘争」(Kamp)である。」

 また、「おわりに」では次のように述べている。

 「私が描く疾風怒涛のヴェーバー像が、従来日本で披露されてきた高踏派の人物像とはかけ離れているので、別人と混同したのではという疑念が生じるのも無理はない。(…)私は、作品解釈に没頭する従来の研究手法を転倒させ、書簡などを用いて作品の背後にあるヴェーバーの生涯を整理することにした。というのも、思想とは結局のところ、状況に応じた対機説法にほかならないからである。」

 ヴェーバーの外皮である作品もロクに咀嚼できない私は、いきなり「背景」を読んで、とても面白い背景(伝記)だと思った。本書を読む限り、ヴェーバーはアグレッシブでやっかいなトンデモ人間に見える。差別的で排斥的はヘイトスピーチをするナショナリストで、義侠心もある。学のあるヒトラーのようだ。

 戦後のドイツでは、ヴェーバーに国民社会主義(ナチス)につながる要素があったと指摘する学者もいたそうだ。本書の終章のタイトルは「マックス・ヴェーバーとアドルフ・ヒトラー」で、両者を比較検討している。相違点もあるが類似点も多い。

 この伝記は膨大な史料に基づいているとは言え、著者の見方の反映でもあり、これが実像だとは言い切れない。著者もヴェーバーの両義性を指摘している。また、人は誰も時代の桎梏の中に生きているので、100年前に没した人を現代の感覚で単純に評価することはできない。

 いずれにしても、本書のおかげでヴェーバーが興味深い人物に思えてきた。

つげ義春の暗くて切ない異世界に浸る2020年10月15日

『苦節十年記/旅籠の思い出』(つげ義春/ちくま文庫)
 この夏から、つげ義春の文章(日記、エッセイ)の本を何冊か読んだ。寡作の人なので文章はほぼ読みつくしたかと思っていたが、次の1冊があった。

 『苦節十年記/旅籠の思い出』(つげ義春/ちくま文庫)

 ちくま文庫の「つげ義春コレクション(全9巻)」の1冊である。このコレクションは筑摩書房の「つげ義春全集(全8巻+別冊)」の文庫版で、本書は全集の別巻に該当する。文章がメインの巻で、旅のイラストも多数掲載している。

 収録文章の約半分が初読で、残りは再読だった。浮世離れした気分になるエッセイも多いが、やはり主調音は陰鬱で切ない貧乏話だ。印象深いのは貸本マンガ家時代を綴った「苦節十年記」と、弟のマンガ家・忠男を語った「つげ忠男の暗さ」「つげ忠男の不運」である。タイトルを並べるだけで暗くなってくる。

 落ち目の貸本マンガ家たちが業界の盛り返しをはかって滝野川公会堂で開催した大集会の話が面白かった。多くの貸本マンガ家が不安と焦燥にかられて集まったが、読者の参加者は約20名、ぜんぜん盛り上がらない会だったそうだ。そのときが初対面の白土三平、水木しげる、つげ義春、長井勝一(『ガロ』社長)が集会後に会場の食堂で黙々と昼食をとる場面も切ない。あまりに貧弱な料理なので、つげ義春は「白土か長井がもう一品おごってくれないかな」と思いながら食べていたそうだ。後日、水木しげるも同じことを思いながら食べていたと表明している。切ない食事の記憶はいつまでも残るのだろう。

 つげ忠男は『つげ義春日記』にも登場する。日記では、兄に輪をかけて暗くておとなしい弟への兄の思いやりを感じた。だが、本書のエッセイは少し趣が異なる。兄はマンガ家としての弟の才能を評価しつつも、面倒見は悪かったらしい。また、忠男が持参したマンガ原稿が傑作だったので、それを盗作し、自作として発表したと告白している。兄はそのことをずーっと失念していて、弟はその件については沈黙し続けたそうだ。

 この夏、つげ義春にハマったきっかけは、調布の床屋(高校時代の同級生)に押し付けられた『貧困旅行記』だった。その床屋が「調布で一番ワリがいい仕事は競輪場の車検売りだが、空きがないと入れない狭き門だ」と言っていた。つげ義春の奥さん(藤原マキ)が車券売りをしているマンガを読み、彼女はどうやって就職できたのだろうという流れの会話だった。本書収録の「妻のアルバイト」を読んで判明した。つげ義春夫妻は競輪場のすぐ近くに住んでいたので、優先的に採用されたそうだ。競輪場にはそんな近隣対策があると知った。

加藤九祚の魅力が伝わってくる『シベリア記』2020年09月26日

週刊朝日(2020.9.25号)、『シベリア記:遥かなる旅の原点』(加藤九祚/論創社/2020.8)
 『週刊朝日(2020.9.25号)』に「94歳のインディ・ジョーンズ」と題する嵐山光三郎のコラムが載っていた。このコラムで加藤九祚の『シベリア記』発行を知り、さっそく入手して読んだ。

 『シベリア記:遥かなる旅の原点』(加藤九祚/論創社/2020.8)

 本書は1980年に潮出版社から刊行された『シベリア記』に随筆や年譜を付加した新版である。

 加藤九祚は2016年9月、ウズベキスタンで発掘調査中に94歳で亡くなった。私は、その死亡ニュースに接するまで加藤九祚という人を知らなかった。ある先生から「加藤九祚さんがウズベキスタンで亡くなりましたねぇ」と聞いて、はじめて知った。その後少し調べ、すごい人だと思った。

 加藤九祚は1944年に出征して満州で終戦を迎え、シベリアで5年間の抑留生活を送り、その間にロシア語を憶える。1950年に帰国したときは27歳、上智大学の独文科を卒業し平凡社に勤務、49歳で平凡社退社、大学の非常勤講師などを経て国立民族博物館の教授になる。嵐山光三郎は平凡社時代の後輩である。

 ウズベキスタンでの発掘調査を始めたのは60代になってからで、65歳にして大型ストゥーパ(仏塔)を発見、発掘調査と保存の事業を始める。

 私は加藤九祚を知った後、その著作や翻訳書をいくつか読み、昨年(2019年)夏にはウズベキスタンとタジキスタンを巡るツアーに参加した。参加者は9人で、ガイドは日本語ができるウズベキスタン人だった。ツアー中にガイドが「加藤先生」や「加藤の家」について語ったが、私以外のツアー参加者に加藤の名は初耳だったようだ。ガイドは「ウズベキスタンで加藤先生を知らない人はいません。教科書にも載っています」と言っていた。

 『シベリア記』は加藤九祚のシベリア抑留生活を綴った本と思って読み始めたが、いささか趣が違った。日本とシベリアの交流史の紹介がメインで、それに付加する形で抑留体験が載っている。自身の体験を歴史のなかに位置付けて検証する試みのようだ。そんな歴史概説風でも、著者の魅力的な人柄が伝わってくる。

 ウラジオストックの歴史や明治期にシベリアに渡った日本人の話などは、私にはまったく未知の話で、興味深く読めた。以前に榎本武揚の『シベリア日記』を読んでいたので、本書で少しだけ榎本が顔を出すのがうれしかった。

 最も興味深かったのは都筑小三治という写真修正技術士の話である。1900年(明治33年)、30歳のときにウラジオストックに渡り、紆余曲折があってシベリアの最果ての町で写真館を開き、ロシア人女性と結婚し二子をもうける。日露戦争のときに在留日本人のほとんどが帰国するが、都筑小三治はシベリアに留まる。ロシア革命後の1918年に妻子と帰国、シベリア出兵に際して通訳としてイルクーツクを再訪、1946年に東京八王子で亡くなる。加藤九祚は「私はいずれ、もう一度この人物の生涯の研究にもどりたいと思っている」と述べて、この稿を結んでいる。それが果たされたか否かはわからない。Wikipediaでは「都筑小三治」は出てこない。

『つげ義春日記』はなぜ面白いのだろうか2020年09月20日

『つげ義春日記』(つげ義春/講談社文芸文庫)
 駅前の書店の店頭に文庫本の『つげ義春日記』が平積みになっていた。この夏、つげワールドに浸る日々を何日か過ごしたが、それは古書をひもとく時間だった。新本の世界でつげ義春に出会い、不意打ちをくらった気分になり、すぐに購入した。

 『つげ義春日記』(つげ義春/講談社文芸文庫)

 この文庫本は2020年3月10日発行で、私が購入したのは6月25日発行の4刷だった。売れているようだ。「小説現代」に連載されたこの「日記」の単行本は1983年12月に出版されている。松田哲夫氏の本書の解説によれば、妻マキに誇張や私事の暴露が非難されたため、今日まで文庫化されなかったらしい(妻・藤原マキは1999年に逝去)。

 『つげ義春日記』は昭和50年(1975年)から昭和55年(1980年)までの日記で、この間に長男が誕生し、妻が癌にかかり、本人は精神病で通院する。基本的には気が滅入るような日々を綴った暗い日記である。読み始めると、暗鬱かつノスタルジックな世界に引きずり込まれ、一気に読んでしまった。

 この日記は私小説ファンのつげ義春が綴った「私小説」である。私は私小説ファンではなく、私小説はほとんど読まない。だが、この日記を読んでいると、私小説も面白いと思わされてしまう。

 この日記のどこが面白いのか、私自身にもよくわからない。有名マンガ家の日常生活を覗き見する面白さがあるのは確かだし、調布市在住の私には馴染みの場所が頻出するうれしさもある。生まれたばかりの子供を抱えた小さな家族の些事に身をつまされ、オロオロする主人公に同情することもある。だが、そんな所だけにこの日記の魅力があるとは思えない。

 私小説全般に言えることかもしれないが、語っている自分と語られている自分の間には微妙で奇妙なズレがあり、それを感得するムズムズした感覚が面白さにつながるのかもしれない。虚実皮膜である。

 この日記の昭和55年(1980年)分は妻・藤原マキが『私の絵日記』(ちくま文庫)で描いた日々と重なり、両者が同日を描いている日記も何日かある。つきあわせて読むと面白さは倍加し、「おかしな二人」との思いもわいてくる。

96歳で逝去した外山滋比古氏は手品師のような文章家2020年08月07日

朝日新聞記事、『伝達の美学:「受け手」の可能性』(外山滋比古/三省堂/1973.3)
 外山滋比古氏が96歳で亡くなった。多くの本を書いた人である。わが書架には外山氏の著書が13冊並んでいる。その多くは四十代の頃(20年以上昔)に続けて読んだもので、読後感はぼやけて融合している。だが、二十代のはじめに読んだ次の本の印象は鮮明に残っている。

 『伝達の美学:「受け手」の可能性』(外山滋比古/三省堂/1973.3)

 これは、私が初めて読んだ外山氏の著作で、私にとっては「思い出の本」である。
 
 当時(1974年)、私は会社員だった。入社2年目の私に「新聞広告に関する20枚の論文を書け」との業務命令があった。業界団体の懸賞論文に若手が順繰りで応募させられるのである。「情報産業」という言葉に眩さがあった時代で、学生気分を多少引きずっていた私は、少し背伸びして俄か仕込みで情報環境論の文献をあさり、それをベースに論文をデッチ上げようとした。しかし、頭の中は混迷を深めるばかりで一向にまとまらない。

 そんな時に出会ったのが『伝達の美学』である。本書を読んで、一気に目の前が開け、私の書きたいことが見えた。おかげで、本書を援用して何とか論文を仕上げることができた。選考結果は「佳作」というギリギリのお情け点だった。

 本書は、情報の「受け手」の創造性に着目し、近代文化が経験するこのなかった受け手社会が出現する可能性を論じている。外山氏の語り口は平明で明快だが、その論旨は易しくはない。私も十全に理解できたわけではない。

 後日、外山氏の初期の著者『近代読者論』『修辞的残像』などを読み、『伝達の美学』の背景にある思想を知ったが、それでもやはり難しい。250万部のベストセラー『思考の整理学』にしても、すらすらと読めるエッセイでありながら、かなり抽象度の高い難解な本に思える。

 外山氏は、かなり難しい抽象的な事を平明・軽妙に語ることができる手品師のような文章家だったと思う。

『玄宗皇帝』(伴野朗)で大唐の春を偲ぶ2020年08月06日

『玄宗皇帝』(伴野朗/徳間文庫)
 吉備真備や玄昉が留学生として過ごした唐は玄宗皇帝の時代だった。玄宗と言えば楊貴妃を連想するが、同時に中国が魅力的に輝いていた国際都市・長安のイメージも重なる。天平時代に関する本を続けて読んだ流れで、次の歴史小説を読んだ。

 『玄宗皇帝』(伴野朗/徳間文庫)

 この小説は1997年に『長安物語:光と影の皇帝玄宗』の題で刊行され、2000年の文庫化の際に改題したそうだ。

 伴野朗の小説は乱歩賞の『五十万年の死角』しか読んだことがなく、ミステリーや冒険小説の作家とのイメージが強かった。『玄宗皇帝』は楊貴妃との絡みをメインにした波乱万丈のエンタメ物語と思って読み始めたが、予想とは違った。玄宗の生きた中国を語る史談に近く、おびただしい人名と役職名が次々と登場し、随所に漢詩が挿入されていて、すらすらと読み進めるのは難しい。史実のディティールを噛みしめながら味わう、やや歯ごたえのある小説だった。

 この歴史小説は玄宗の生涯を描いているが、玄宗周辺の人物だけでなく、同時代に生きた李白、杜甫、白居易、阿部仲麻呂、鑑真なども登場し、時代の様相を点描していくスタイルになっている。その意味で元のタイトル『長安物語』の方が内容に合っていると思えた。

 玄宗は27歳で即位し、その治世は44年に及び、77歳で没する。本書のプロローグは死の床にある孤独な玄宗が、亡き楊貴妃を想いながら昏睡していく場面である。玄宗が臥せっている宮殿の外は春たけなわである。作者は次のように描いている。

 「――長安の春。それは、彼が築いた絢爛たる大唐の春であった。」

 印象的な表現だ。玄宗の没したとき、すでに唐は衰退期に入っていることを想えば、なおさらである。
 
 本書の前半約三分の一は、玄宗の即位までの話で、この部分の主人公は、かの則天武后(玄宗の祖母)である。あの凄まじい女帝の時代を生き抜いて台頭していく玄宗(当時は李隆基)を描いたこの部分が私には最も面白かった。

 物語の中盤、玄宗が息子の妃だった楊貴妃を自分のものにする際、玄宗が民の声を慮って悩むシーンも面白い。玄宗は唐王朝が遊牧民である鮮卑の血を引くことを意識していて、「子の妻妾を取り上げるとは、いかにも遊牧民だ」と見られるのを気にしているのである。

 小説の終盤は安史の乱で、安禄山がクローズアップされる。安禄山が胡人と突厥の混血であることは明示しているが、乱の動機を安禄山の楊貴妃への思慕としている。近年の学界では、この反乱を中央ユーラシア史の観点で捉え「早すぎた征服王朝」とみなしているらしい。20年前のこの歴史小説にそんな視点が反映されていないのは、いたしかたない。

 いずれ、本書の漢詩紹介の部分だけでもじっくりと読み返してみたい。

岡山文庫の『吉備真備の世界』は読みやすくて面白い2020年08月03日

『吉備真備の世界』(中山薫/岡山文庫/日本文教出版/2001.2)
 私は岡山県出身なので「岡山文庫」は昔から知っている。岡山の出版社(岡山県教職員組合の外郭団体)が刊行している岡山テーマの文庫である。この「岡山文庫」に吉備真備に関する本があると知り、さっさく入手して読んだ。

 『吉備真備の世界』(中山薫/岡山文庫/日本文教出版/2001.2)

 この本がめっぽう面白く、勉強になった。コンパクトだが濃い。私としては吉備真備本の決定版である。

 私は、吉備真備が岡山ゆかりの人物だから関心があるのではない。遣唐使船で玄昉とともに平城京に来た胡人(ソグド人)を描いた松本清張の小説『眩人』を読んだのを契機に、玄昉と行動をともにしていた吉備真備が気がかりな存在になったのである。

 本書の著者は県立高校に38年間勤務したのち、岡山大学の非常勤講師を務めた研究者である。吉備真備ゆかりの真備町在住で、真備町教育委員長も務めたそうだ。本書は偏狭な郷土贔屓目線の偉人伝などではない。全国区レベルあるいは世界史レベルで冷静に吉備真備を描いている。

 一般向けの本なので読みやすくてわかりやすい。しかも、かなり深い。読みやすいのは、引用史料を現代文に読み下しているからである。その点について、著者は「あとがき」で次のように述べている。

 「読み下しには、筆者の独断的解釈を避けるように努めたが、読み下し自体、筆者の解釈が入るものである。出来れば原典に当たり、筆者の読み下し文そのものも批判的にお読みいただければ筆者にとって、この上ない幸いである。」

 好感のもてる述懐で、「原典に当たり」という語句に著者の思いが感じられる。著者は本書において、研究者たちが「原典に当たる」ことを怠って孫引きなどで「誤り」を拡散させている状況を憂いているからである。

 本書の直前に人物叢書の『吉備真備』(宮田俊彦)を読んでいたのは正解だった。著者・中山薫氏は『吉備真備』(宮田俊彦)を「現在、吉備真備研究では最も権威ある著作」として、宮田氏の見解を随所で紹介している。だが全般的には、中山氏は宮田氏に批判的である(宮田氏は本書刊行以前に没している)。宮田氏の記述の誤りをいくつか指摘し、宮田氏の見解への異論も展開している。そんな箇所を興味深く読めたのは、宮田氏と中山氏の著作を続けて読んだからである。

 宮田氏の見解への中山氏の異論の一つは、大宰府に左遷された真備が遣唐副使に任命された理由である。宮田氏は、高齢の真備が船旅で発病することを期する藤原仲麻呂の下心があったのでは、と推測している。中山氏は、この遣唐使には重要な任務があったため、仲麻呂は余人をもって代えがたい真備を「しぶしぶ追加任命した」のでは、と推測している。

 また、大宰府の真備が70歳にして造東大寺長官として都に復帰(復権)した件について、この人事を決めた人物を、宮田氏は孝謙天皇とし、中山氏は藤原仲麻呂としている。宮田氏の見解は常識的で理解しやすい。中山氏の見解は、仲麻呂が真備を取り込もうとして都に呼び戻したが、上洛した真備は政界の底流を見て仲麻呂に与することの危険を察した、というものである。

 私は門外漢なので研究者たちの見解を評価することはできない。だが、本書を読む限りでは著者・中山氏の見解に説得力を感じた。

 本書は史料をベースに真備の生涯を検討しているだけでなく、史実とは別物の説話や伝説も史料として紹介し、後世、真備がどう見られてきたかを辿っていて、この部分も面白い。著者自身は真備の人物評には控えめだが、折々の真備の心情を推測した表現があり、おのずと真備の人物像が浮かび上がってくる。

 本書の「はしがき」では、真備が留学した時代の長安にはキリスト教(ネストリウス派)、ゾロアスター教、マニ教などが存在したと紹介し、真備は国際都市・長安で政治、経済、文化、人間の多様性を学んだはずだと推測している。非常に興味深い話で、この推測に呼応した本文の展開を期待したが、残念ながら、それはなかった。直接史料が存在しないからだろう。

吉備真備は直接史料のない人物2020年07月31日

『吉備真備』(宮田俊彦/人物叢書/吉川弘文館)
 ‫いま、吉備真備が小さなマイブームなのだが、歴史概説書、小説、テレビドラマ、漫画では吉備真備の全体像を把めた気がしない。で、次の本を読んだ

 『吉備真備』(宮田俊彦/人物叢書/吉川弘文館)

 日本歴史学会編集の「人物叢書」の1冊である。新本で入手したが、1961年刊行のかなり古い本の新装版で、研究者の専門的著作に近い。

 本書の「はしがき」で著者は次のように述べている。

 「吉備真備については、不思議なことに直接史料が殆どない。(…)高名天下に轟く真備であるにも拘わらず、この人に関する研究が余りない。単行本も研究論文も、その数が多くない理由であろう。」

 そんな事情だと初めて知った。ネット検索しても一般向けの手頃な本が見つからなかったわけだ。本書は、数少ない間接史料を紹介しながら、先行研究者の説を検討しつつ著者の見解を述べている。史料が少ないせいで、吉備真備の生涯をたどる評伝とは言い難い。真備に関連する史料を収集整理した生涯の点描に近い。

 本書は以下の5つの章で構成されている。

  第1 真備の出自
  第2 虚往盈帰
  第3 広嗣の乱
  第4 再度の入唐
  第5 大宰府の真備
  第6 右大臣吉備真備

 第6の分量が全体の4割に近いのは史料の多寡の反映だろう。第2の「虚往盈帰(きょおうえいき)」は難しい言葉だ。広辞苑にはないし、ググっても出てこない。この章は留学生として唐に渡った真備を扱っていて、「入唐する前はカラッポで、唐に行ってよく学んで頭一杯学問を充実させて帰って来た」ということを表す言葉が虚往盈帰なのである。

 本書に引用されている史料の文章は私には難しく、十分に理解できたわけではないが、著者が描く真備像はなんとなく把めた。著者は本書の末尾で真備の生涯を5期にわけて整理している。略述すれば以下のようになる。

 第1期 誕生(695年)~22歳
  下級武官の子に生まれる。成績優秀で入唐を命ぜられる。
 第2期 23歳~41歳 留学期間
  学習は多方面に及び、帰国に際して多くの漢籍を持ち帰る。
 第3期 41歳~55歳
  官位の昇進、目覚ましい限り。
 第4期 56歳~70歳
  大宰府に左遷。57歳で遣唐副使として再び入唐、60歳で帰国。
  平城京に戻るも、すぐに大宰府。主に軍事方面に才能を発揮。
 第5期 70歳~81歳で死去(775年)
  造東大寺長官として帰京。恵美押勝の乱で軍学用兵の妙を発揮。
  参議を経て右大臣(72歳)。77歳で辞め、81歳で死去。

 真備が留学を終えて帰国してから逝去までの40年は、権力者の浮沈がくり返される激動の時代だった。権勢にあった藤原家の四子が天然痘で死去、代って橘諸兄が勢力を伸ばし、藤原広嗣が乱を起こすも敗死、やがて藤原仲麻呂が台頭し橘諸兄は力を失い、諸兄の子・奈良麻呂が仲麻呂を除こうとするも失敗、その仲麻呂(恵美押勝)も道鏡の台頭で力を失い、乱を起こして敗死、だが道鏡も没落する。そんな転変の40年間、真備は権力の中枢に近い場所で無事に生き延び、天寿をまっとうしたのである。

 真備は儒学者だが、主に軍学の才で評価されたようだ。その軍学の内容は、私にはよくわからない。詩歌の才はなかったらしい。この時代の史料として、要人が万葉集や懐風録に残した詩歌が引用されることが多い。だが、万葉集にも懐風録にも真備の作品はない。

 著者は真備の人物像を次のように推測している。

 「真面目な、文字通り穏健な人であった(…)政治家としては極めて地味であって、華々しい活動をしない。(…)功績がない、というのでは断じてなく、改革や変動には不向きな人であった(…)詩文の方にではなく、いわば実学の方に力を注いだと思われる。(…)生涯を通じての謙遜な努力家であった」

 こんな地味そうな人物は歴史小説の主人公には不向きに思える。テレビドラマ『大仏開眼』が吉備真備を主人公にしたのは、なかなかのチャレンジだったと思う。