焼失から2年目の日に首里城に行った2021年10月31日

 いま沖縄に来ている。本日(2021年10月31日)は首里城焼失からちょうど2年目である。見学用デッキができたと知って見学に行った。首里城復興祭というイベントが開催中で「国王・王妃出御」を見た。さわやかな風が吹き抜ける青空の下、国王と王妃がゆっくり歩く姿に琉球王国時代の空気を少しだけ感じた。

 帰途、国際通りの店で昼食をとった。その店の若い女性スタッフに「いま、首里城に行ってきた」と言うと「私、まだ首里城に行ったことないんです」との返事が返ってきた。聞いてみると、沖縄生まれの18歳で、彼女の周辺にも首里城に行ったことがない人は多いそうだ。ちょっと驚いた。

 東京暮らしの私は、焼失前の首里城に何度か行ったし、焼失から2カ月後の昨年正月にも焼け跡を見に行った。だが、スカイツリーに行ったことはない。首里城もスカイツリーも観光客が行く所で地元の人にはどうでもいい所なのだろうか。

 沖縄の人にとって首里城は古き琉球王国のシンボルだろうと思っていたが、いまの若い人の多くは歴史や琉球王国に関心がないのかもしれない。そんな彼ら彼女らも、年を取るにしたがって自身の現在につながる由縁への関心が深まり、首里城への思い入れがわいてくるのでは、とも思う。

玄関前にスズメバチの巣があった2021年08月09日

 わが家の前庭にスズメバチの巣があるのを植木屋さんが見つけた。直径約16センチ、かなり大きい。植木屋さんは持参の殺虫剤でスズメバチを駆除した。

 スズメバチの巣は昨年8月に続いて2度目である。昨年は裏庭に巣があり、それに気づかずにつついた私はスズメバチに襲われ、一か所刺された。調布市のホームぺージで駆除業者を探して駆除を依頼、宇宙服のような姿のおじさんが駆除してくれた。相応の費用がかかったが、今年は植木屋さんが片手間仕事で簡単に駆除してくれて助かった。

 それにしても、今年の巣は昨年の裏庭とは違い、いつも出入りしている玄関前の通路のすぐ脇にあった。隣家との境なので、隣家の庭にも接している。わが家は調布市内の普通の住宅街だが、この大きさになるまで気づかなかったのが不思議であり、恐ろしくもある。

京王プラザとカップヌードル2021年06月24日

 本日(2021年6月24日)、ちょっとした用件で新宿の京王プラザホテルに行った。レストランの入口に積まれた巨大なカップヌードルが目に入り「これは何じゃ」と驚いた。近づいてみると「京王プラザホテル×カップヌードル 50周年コラボ企画」の表示がある。わけがわからず、頭の中に「?」を残したままホテルを出て家路についた。

 帰宅して夕食時にテレビをつけると、先ほど見た巨大カップヌードルが写っている。京王プラザとカップヌードルのコラボ企画をニュースで報じているのだ。それを見て得心した。50年前の1971年、京王プラザが開業しカップヌードルが発売された。同い年の縁でのコラボ企画で、ホテルのレストランやバーでカップヌードルを素材に使ったユニークなメニューを提供しているそうだ。

 京王プラザとカップヌードルの誕生が50年前の1971年と知り、あの時代のアレコレが甦ってきた。私は大学生で「青春時代の真ん中で道に迷っているばかり」気分の陰鬱・鬱勃の時代だった。

 新宿西口の淀橋浄水場跡地はガラーンとしていて、ウエハースのような京王プラザがポツンと建った情景が浮かんでくる。当時、新宿の東口はホットで怪しい魅力的な場所だった。西口地下のロータリーは未来的風景で、毎週のフォークゲリラの集会がその未来風景を塗りつぶすのが痛快だった。

 1971年は連合赤軍あさま山荘事件の年である。あのとき、冬の寒風の中に待機する機動隊員にふるまわれたのが発売されたばかりのカップヌードルだったと聞いたことがある。その後、機動隊員でない一般のわれわれも幾度となくカップヌードルのお世話になってきた。

 そんな思いに浸ると、京王プラザとカップヌードルが青春を共にした旧友のように思えてくる。

本屋の不思議2021年05月26日

 ネット時代になり、アマゾンで本を買うことが多くなった。でも、なるべくなら本屋それも地元の本屋で買わねばと思っている。本屋がなくなると困るのである。わが最寄り駅前には百坪弱の『書原』という本屋があり、ここは『本の雑誌』2021年3月号のグラビアで紹介されていた。

 昨日(2021年5月25日)、本屋に関わるちょっと不思議な体験をした。新宿西口のさる場所である講義を聞き、そこで『隊商都市』(ちくま学芸文庫)という本の紹介があり、この本を入手しようと思った。

 帰路、ブックファースト新宿店に寄った。私は「新宿西口最大90万冊」と謳うこの大型店を利用するこが多い。店に入ると山積みの『三体 第3部』が目に飛び込み、今日が発売日だと思い出した。第1部、第2部と読み継いできたので第3部も買うつもりだ。しかし、上下2冊の荷物を抱えて電車に乗るよりは地元で買う方が省力だと思い、目当てのちくま学芸文庫の棚を目指した。かなりの量の白い背表紙が並んでいたが『隊商都市』はなかった。

 仕方なく、東口彼方の紀伊国屋書店新宿本店にまで足をのばした。ここでも『三体 第3部』が山積みになっていたが、ちくま学芸文庫の棚に『隊商都市』はなかった。ここになければ諦めて、ネットで探すしかないと思った。

 電車で地元まで帰ってきて、『三体 第3部』をゲットしようと駅前の本屋に入った。ところが、それがない。まだ入荷してないようだ。で、ダメモトでちくま学芸文庫の棚へ行った。この本屋はちくま学芸文庫を棚1本程度置いている。そこに『隊商都市』があった。感動である。

 当然ある筈の本がなく、ないだろうと思った本は置いている。本屋の不思議である。

「ギリシャ」でなく「ギリシア」?!2021年01月16日

 学問の世界で「ギリシャ」と表記するとバカにされると聞いたことがある。「ギリシア」と表記しなければならないそうだ。気にしたことがなかったので「ヘェー」と思った。

 新聞は「ギリシャ」と表記しているし(『朝日新聞の用語の手引き』にも明記)、外務省ホームページの国名一覧も「ギリシャ」だ。なのに、学問の世界では「ギリシア」らしい。

 手元の書籍の表題を調べると大多数が「ギリシア」だった。掲示写真は7つの出版社(筑摩書店、岩波書店、新潮社、集英社、中央公論社、講談社、河出書房)の書籍の背表紙で、すべて「ギリシア」である。『広辞苑』も『大辞林』も「ギリシア」だった。

 教科書の表記は、中学の「歴史」(東京書籍、帝国書院)は「ギリシャ」で、高校の「世界史」(山川出版)は「ギリシア」だった。ややこしい。

 この表記は出版社ごとに決まっているわけではなく、書籍ごとに異なるようだ。中公文庫の『世界史』(マクニール)や新潮文庫の『全世界史』(出口治明)は「ギリシャ」である。朝日新聞は「ギリシャ」だが、朝日新聞社刊行の『週刊朝日百科 世界の歴史』は「ギリシア」である。

 私たちの発声は「ギリシア」より「ギリシャ」に近い。一般向けは「ギリシャ」、専門性が高いと「ギリシア」という、よくわからない区分けがあるのかもしれない。旅行記なら「ギリシャ」、歴史を語るなら「ギリシア」のように思える。

 ちょっと気になるのが、ビジネスマン出身の大学学長・出口治明氏である。『全世界史』も『哲学と宗教全史』も「ギリシャ」だ。全然気にしていないのか、あえて「ギリシャ」なのか……前者のような気がする。

外苑いちょう並木が内側から色づくはなぜだろう?2020年11月30日

 本日(2020.11.30)、所用で外苑前に行ったついでに青山通りからいちょう並木を撮影した。2週間前には緑だったいちょうが黄色くなっていた。例年なら「いちょう祭」の時期だが今年は中止だそうだ。

 絵画館を望むこの典型的な遠近法風景にはトリックがある。青山通り側のいちょうより絵画館側のいちょうの方が少し低くなっていて、遠近法風景を強調させているそうだ。

 それはともかく、いちょうの色づきに差があるのが不思議だ。この並木は両側とも2列ずつになっていて、内側の方が早く黄色くなる。毎年、外側は色づくのが遅い。なぜだろうか。

「たまのの市」のマンガの横に玉野市の記事!2020年11月20日

 どうでもいい話であり、気づいた人も多いとは思うが、本日(2020年11月20日)の朝日新聞朝刊社会面に、面白い偶然の一致があった。

 連載マンガ『ののちゃん』に「たまのの市」を明示するコマがあり、そのすぐ横に「たまのの市」のモデル玉野市の記事が載っていたのだ。

 東京本社版の社会面に岡山県玉野市の記事が載ることは滅多にない。玉野市出身のいしいひさいち氏の『ののちゃん』の舞台が玉野市をモデルにした「たまのの市」だとは広く知られているが、マンガに「たまのの」という単語が登場することは多くはない。

 本日のマンガの1コマ目には「たまのの駅前将棋センター」と明示されている。隣りの記事では玉野市の造船所(ののちゃんの父の勤務先のモデル)で新型護衛艦の進水式があったと報じている。このマンガと記事の遭遇を盲亀の浮木、優曇華の花と見なすのは言い過ぎだろうか。

 こんなことに私が感動したのは、私が岡山県玉野市出身だからである。小学校の頃は学校から進水式見学に行ったものだ。何年か前に久々に玉野市を訪れたとき、駅前に「ふるさと たまの! ののちゃんの街」というノボリが立っていた。

「僕は何故、泣いちっちっなんだ?」2020年10月22日

 先月、歌手の守屋浩が81歳で亡くなった。私たち団塊世代が小中学生の頃のスターだった。たまたま手にした週刊誌の追悼記事に、彼のヒット曲『僕は泣いちっちっ』のレコードジャケットが載っていた。それを見て中学時代の社会科の教師を思い出した。

 中学2年のとき(1962年)の担任は他校から転任してきた寡黙で筋肉質の社会科教師だった。「元・刑事」との噂が飛び交ったが、それはガセだった。スゴ味のある風貌で声は低く、ついたあだ名は「忠治」――国定忠治からの連想である。

 その「忠治」が社会科の授業中に、みんなに向かってボソリと質問した。
 「僕は何故、泣いちっちっなんだ?」
 ややドスの効いた低音と「泣いちっちっ」のアンバランスに唖然とし、一瞬、何を訊かれているかわからなかった。

 誰かが指され、おずおずと「恋人が東京に行ったからです」と答えた気がする。

 私の通っていた中学は岡山県の瀬戸内海沿岸にあった。田舎の中学だから、東京を知っている生徒は少なく、東京への憧れは強かった。

 守屋浩は、東京へ行った恋人を追って僕も東京に行きたいという切ない思いを軽快に歌っていた。教師の質問は、東京への人口集中という社会現象の説明につながったのだと思うが、「泣いちっちっ」の衝撃以外の授業の記憶は残っていない。

 私は高校の途中で、親の転勤で東京に引っ越し、それ以降ずーっと東京暮らしである。あらためて『僕は泣いちっちっ』は当時の人口動態を反映した歌謡曲だったと思う。

「西武門哀歌」の謎 --- 「ジン」とは何か?2019年11月15日

加藤登紀子『日本哀歌集/知床旅情』のLPとCD
◎「西武門」は何と読むか

 年に数回沖縄に行くようになって、那覇市の「西武門」という地名が心に残った。初詣で賑わう波上宮近くの交差点やバス停にこの表記があり、何と読むのか気になりつつ数年が経過し、最近になってネットで読み方を調べた。その結果、いろいろなことがわかり、新たな疑問もわいた。

 「西武門」は「にしんじょう」と読む。「西武門節」という古い沖縄民謡があるそうだ。辻遊郭の娼妓の情歌である。波上宮近くの辻という地域は今も風俗店が多い。

◎「西武門節」と「西武門哀歌」

 「西武門節」を元に川田松夫(沖縄県職員)が作詞・作曲した「西武門哀歌」があり、加藤登紀子が歌ったそうだ。それをネットで聞くことができた。

 「西武門哀歌」は私には聞きなれた曲だった。大学時代(約半世紀前)に購入し何度も繰り返し聞いてきた加藤登紀子のLPアルバム『日本哀歌集/知床旅情』に収録されている曲である。後年このLPのCD版も購入し、今は私のipodにも入っている。

 若い頃に「西武門哀歌」という曲名を目にした記憶もかすかによみがえってきた。そのときは「せいぶもん」ってどこにある門だろうとチラッと考えただけで、そのまま忘れていた。

 この曲をあらためて聞いて、この曲の歌詞に意味不明の箇所があり、それを半世紀も聞き流してきたことに思い当たった。

◎「ジン」とは何か?

 「西武門哀歌」には「ジン」という印象的な言葉が出てくるが、その意味がわからないのである。この言葉は次の三カ所に出てくる。

 (1)夢を見たよ夢を/ジンと夢にようて
 (2)ジャミも濡れたようて/ジンとジャミも濡れた
 (3)思いばかりようて/ジンと思いばかり

 「にしんじょう」という読み方を知ったのを機に「ジン」が何かを解明しようと調べてみた。しかしわからない。

 酒の「ジン」なら(2)がおかしい(「ジャミ」は三線だろう)。沖縄方言で「お金」を「ジン」と呼ぶらしいが、それでは意味が通らない。人名でもなさそうだ。

 ふと思い浮かんだのが琉球歌の「娘ジントーヨー」である。調べてみると「ジントーヨー」は「本当だよ」という意味である。「ジントー」は「本当」という意味だそうだ。

 ここからは私の推測である。LPやCDに添付の歌詞には「ジンと」とあるが、これは「ジントー」の誤記で「本当に」という意味ではなかろうか。それだと何とか意味が通る。

 「ジン」の意味を知っている方の教えを請いたい。

◎LPとCDの違い

 『日本哀歌集/知床旅情』のLPとCDを並べて眺めていて、LPの「西武門哀歌」がCDでは「西武門節」になっているのに気づいた。曲は同じでタイトルが変更されている。「西武門節」は「西武門哀歌」の元歌である。ネットで「西武門節」を聞くことができるが、それは「西武門哀歌」とは別物である。CD化に際してなぜ「西武門節」に変更したのか、謎である。

 他にもLPとCDに違いがある。LPにあった「竹田の子守唄」がCDには収録されていない。「竹田の子守唄」をネット検索して、この唄には部落問題絡みのいろいろな経緯があることを知った。CDに収録されなかったのには何か事情があるのだろう。それが何かはわからない。

台湾から与那国島への「3万年前の航海」報告会見を聞いた2019年07月18日

 日本記者クラブで「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」報告会見があった。プロジェクト代表の海部陽介・国立科学博物館人類史研究グループ長と二人の漕ぎ手(原康司キャプテンと田中道子さん)が会見した。

 旧石器時代にわれわれの先祖が大陸から海を渡って来たことを「沖縄ルート」で実証するプロジェクトで、今月上旬、手漕ぎの丸木舟による台湾から与那国島への航海が成功した。

 私は1年前、このプロジェクトの「漕ぎ手募集説明会」のチラシを図書館で見かけた時から興味を抱いていた。だから、成功のニュースにはひときわ感動した。

 今回の会見で航海の詳細を聞き、あらためてこのプロジェクトの意義を理解し、3万年前の技術だけによる公開の難しさを知った。航海時間は30時間から40時間の見込みだったが実際には45時間かかったそうだ。

 3万年前、台湾は大陸の一部だった。当時も今も黒潮が流れていて、昔の潮流も推測でき、漂流では台湾から沖縄の諸島に流れ着くことができないと実証されている。だから、太古の人は己の意思で海を渡ったと推測される。

 与那国島と台湾の距離は100キロ、天候がよければ与那国島から台湾は見える。台湾の標高は与那国島に比べてはるかに高い。台湾から与那国島は見えないとも言われていたが、海部氏は現地調査し、海岸からは見えなくても高い山からは与那国島が見えることを確認したそうだ。

 与那国島は台湾の東方100キロにあるが、今回の航海の距離は225キロである。黒潮の流れを想定して南方から北東に向かう航海になるからである。それは地図を観て理解していたが、漕ぎ手たちは北東ではなく東南東に向かって漕いだと知って驚いた。潮の流れとの格闘であり、潮に乗る制御なのである。

 地球は丸いから海上から与那国島が見えるのは50キロ圏内に入ってからである。当然、出発地から島は見えない。それでも3万年前の人類は島を目指して海に漕ぎ出して行ったのである。その動機が何だったのはわからないが、探求心だったと思いたい。