絶滅収容所のおぞましい日常を伝える『トレブリンカ叛乱』2022年10月11日

『トレブリンカ叛乱:死の収容所で起こったこと 1942-43』(サムエル・ヴィレンベルク/近藤康子訳/みすず書房)
 ナチスの絶滅収容所はアウシュヴィッツ以外にもいくつかあった。その一つ、トレブリンカ収容所からの生還者の手記があると知り、入手して読んだ。

 『トレブリンカ叛乱:死の収容所で起こったこと 1942-43』(サムエル・ヴィレンベルク/近藤康子訳/みすず書房)

 トレブリンカ収容所という名は本書で初めて知った。私は5年前にアウシュヴィッツを訪れたことがあり、その際にアウシュヴィッツ関連の本も何冊か読んだ。ユダヤ人大量虐殺の絶滅収容所の実態はある程度把握しているつもりだった。それでも本書の内容には衝撃を受けた。

 著者はポーランドのユダヤ人で、トレブリンカ収容所はワルシャワから90キロほどの地にあった。著者は19歳のとき(1942年)に収容所に入れられ、翌年には叛乱で脱出、1944年のワルシャワ蜂起に参加している。

 絶滅収容所からの生還者の手記と言えばフランクルの『夜と霧』が思い浮かぶが、フランクルほど思索的ではなく、坦々と体験を綴っている。二十歳前後の体験なので、絶望的状況の話にもかかわらず著者の行動的な生気も伝わってくる。

 この手記は記憶がなまなましい終戦直後に書かれ、著者は1950年(著者27歳)にイスラエルに移住していている。本書の出版は執筆から40年後の1986年(著者63歳)である。出版までに40年の時間を要した理由について、訳者は「同胞に対する筆舌に尽くし難い罪悪感が重くのしかかっていたからであろう」と推察している。

 列車に押し込められてトレブリンカに到着したユダヤ人たちは、列車から降りると所持品を取り上げられ、衣服を脱がされ、そのままガス室あるいは銃殺の場に直行、遺体は窪地で焼却される。囚人として「収容」される暇もなく殺されるのである。

 だが、一部のユダヤ人は選別され、収容所を運営する労働力の囚人になる。19歳の著者は選別されて生き残る。最初に割り当てられた作業は、犠牲者たちが残した所持品や衣服の分別・整理である。その際、犠牲者たちの身元がわかる名札などはすべて剥ぎ取らねばならない。実は、収容所は犠牲者たちの遺物が「生産品」の工場なのである。坦々と綴る作業の日常性は異常だし、裕福そうなユダヤ人集団の到着に小躍りするドイツ兵たちがおぞましい。

 アウシュヴィッツを見学したとき、スーツケースなど犠牲者たちの残した遺物の山を実見したが、それを「生産物」とは考えなかった。絶滅収容所は単にユダヤ人を虐殺するだけでなく、その所持品をシステマティックに効率よく略奪して富を蓄積する場だと認識し、唖然とする。

 分別・整理の作業に従事する囚人たちは、いとも簡単に日常的に命を奪われる。作業ミスをしても、遺品をくすねても、病気になっても、すぐ銃殺である。

 そんな異常な世界を生き延びた著者は、秘密裏に進められていた囚人たちの叛乱によって集団脱走に成功する。逃走劇の話は、まるで小説か映画のようである。

 逃走に成功した著者はワルシャワへ辿り着き、この地でワルシャワ蜂起に参加する。このくだりでは、蜂起軍の内情や実態の一環が伝わってきて興味深い。AK(ポーランド国内軍)、PAL(ポーランド人民軍)の対立やユダヤ人の微妙な立場がわかり、あらためて世界は複雑でやっかいだと思った。

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